チャールズ・ブロー(コラムニスト)
先週、私はカリフォルニア州立大学サンディエゴ校で政治と社会正義について講義を行った。その後、著書のサイン会をしていると、若い黒人女性が私のテーブルに近づき、パレスチナ自治区ガザ地区で起きている惨劇についてどう思うか、と小声で質問してきた。
次に並んでいたのは年配のユダヤ人女性で、「今はみんな、私たちを嫌っている」ので、人々の意見を変えるために「できることは何でもしてください」と私に懇願し、ユダヤ人は常に公民権のために立ち上がってきた、と指摘した。
どちらの女性も私の講演を聴きに来ており、私の仕事全般に賛意を示してくれた。ガザでの戦争がもたらした政治的影響について、彼女たちの見解が異なっていることは明らかだったが、それぞれが、私が自分の見解に同意している、と思い込んでいた。
もちろん、ふたりの女性は一個人であり、共同体全体の代弁者ではない。それでもこの短い会話は、イスラエルとイスラム組織ハマスの衝突がいかにこの国の進歩派連合の主要グループ間の認識と関係を緊張させているか、そしていかに多くの人々が、自分の立場を表明する義務があるかのように感じているかを示す、ささやかな一例だった。
10月7日のハマスのテロ攻撃や、イスラエル軍のガザでの作戦など、民間人の殺害に反対する立場をとることは比較的簡単だ。だが停戦を求める声が高まっていることも含め、戦争遂行全般への賛否を考える場合は難しくなる。そして、現在行われている暴力の詳細から、より広範な紛争の歴史へと間口を広げると、意見の相違はさらに際立って複雑になる。
「反シオニズム」は「反ユダヤ主義」か
数週間前、私は米国の親パレスチナ派の活動家や学者にインタビューした。彼らのほぼ全員が、自らを反「シオニスト(パレスチナにユダヤ人国家を建設する思想をもつ人びと)」だと語っていたが、会話の中では全員が「反ユダヤ主義」を非難してもいた。今週、私は(米国最大のユダヤ系団体の)反中傷連盟のジョナサン・グリーンブラット代表に話を聞いた。彼が火曜日に首都ワシントンの国立公園ナショナル・モールに何万人もの人々を集めた「イスラエルのための行進」に参加した直後のことだ。彼は反シオニズムを「反ユダヤ主義」だと定義している。彼は私に「シオニズムはユダヤ教の基本だ」と話した。反シオニストだが反ユダヤ主義者ではない、と主張することは、1963年に「公民権運動には反対だが、人種差別にも反対だ」と言うようなものだと考えている。
彼は、反シオニストでなくともイスラエル政府を厳しく批判することはできると考えているだけでなく、他の多くの人々と同様に、シオニストでありながらパレスチナ人のアイデンティティーとパレスチナ人のナショナリズムを支持している、と言う。
定義に関する論争において、ものごとがおかしくなるのはここからで、この問題に関してどちらの側にいる人も、自分たちは正義の側に立っていると考え、相対する人々からはしばしば憎悪と残忍さの側に立っていると見られる。
例えば、シオニズムにはいくつかの類型があるが、このような議論においては、どの類型に賛成か反対かを明確にすることはほとんどないようだ。政治的シオニズム? 文化的シオニズム? 宗教的シオニズム? それらの組み合わせ? それは重要なのか?
こうした具体性の欠如は、冷笑主義を助長しかねない。
親パレスチナ派の活動家や学者たちと話したとき、私はよく聞かれる単純な質問を投げかけた。イスラエルには存在する権利があると思いますか? 驚いたことに、直接的に「イエス」と答えた人は1人もいなかった。
そのうちのひとりで、『Except for Palestine:The Limits of Progressive Politics(パレスチナ人を除いて:進歩的政治の限界)』の共著者である、ジャーナリストで学者のマーク・ラモント・ヒルは、「すべての国家は、その領土保全が尊重されるに値する」と信じており、私たちが「イスラエルという国家に害を与える」べきだと考えてはいない、と語った。彼はまた、この質問は「イスラエル以外のすべての国家は存在する権利が肯定されている、ことを前提としている」という点において、欠陥があると考えている。
彼は、この質問において人々が本当に問うているのは、イスラエルが「ユダヤ人国家として、民族中心主義国家として」存在する権利があるかどうかだ、と考えており、それに対して彼は、「いかなる国家も『国民全員の国家ではない存在』となる権利をもたない」し、「民族、人種、性別、宗教によるヒエラルキーをつくる権利はない」、と答えている。ヒル氏に言わせれば、「ネイティブ・アメリカンに、米国は存在する権利があるかと尋ねるようなものだ」。彼は、自らの批判が特に政治的シオニズムについてのものだ、と明言した。
グリーンブラット氏に、私がインタビューした人たちは誰も「存在する権利」の質問にはっきり「イエス」と答えなかった、と言うと、彼はそのことが「筆舌に尽くしがたいほど不快」であると言った。それは彼が、この質問に明快に答えることへのためらいを、歴史的な反ユダヤ主義とユダヤ人の民族自決権の否定に結びつけているためだ。
「確かに差別はあります」
しかし、グリーンブラット氏とヒル氏は、ある限られた点については同意している。それは、イスラエルにおけるアラブ人差別だ。「確かに差別はあります」とグリーンブラット氏は言う。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルはさらに踏み込んで、イスラエルが「アパルトヘイト(人種差別)政権」を運営していると非難し、「ガザ地区、東エルサレム、ヨルダン川西岸地区、あるいはイスラエルそのものに住んでいようとも、パレスチナ人は劣った人種集団として扱われ、組織的に権利を奪われている」と宣言している。
議論を終えて私は、この論争が、この国で反ユダヤ主義的、イスラム嫌悪的な事件が急増し、ユダヤ人、イスラム教徒、アラブ人のコミュニティーに恐怖が波及している中で展開されていることに、むちで打たれたかのような感覚を覚える。
みんなと話をした後、彼らが全員ひとつの部屋に集い、互いに話をすることができればいいのに、と思った。
正しいことをしたいと思っているように見える賢い人びとが、このような問題に共通理解を見いだし、より多くの合意点を見つけ、非難の下降サイクルから抜け出すことができないなんて、受け入れがたい。
そうしなければ、これが誰にとっても(ウィンウィンではなく)「ルーズ・ルーズ」の論争になってしまうということを、私は恐れている。