戦後日本の「対米従属」構造をえぐるベストセラー『永続敗戦論』の白井聡氏が、安倍首相に退陣勧告! 都議選の自民惨敗を機に、これまで安倍暴政を支えてきた野党、メディア、そして国民の罪を鋭く問い、政権への隷従を拒(こば)む新たな抵抗について語る。

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 7月1日午後4時過ぎ、私は秋葉原駅付近のガンダムカフェ前に居た。その日、たまたま出張で東京におり、しかも自由になる時間が2時間ばかりできたのだが、安倍晋三首相が東京都議選の最初で最後の街頭応援演説を行なうというニュースを知って、居ても立ってもいられない気持ちになったのだった。目的はただ一つで、総理大臣に言いたいことを直接言うことだ。そんな機会は滅多(めった)にあるものではない。

 着いてみると、まさに安倍が到着する直前であったが、広場の一角には「安倍やめろ!」と書かれた大きな横断幕を掲げる人々がおり、その周囲には安倍批判のスローガンを書いたプラカードを持つ人々も多数いた。若い人、中年、高齢者、男性、女性、ラフな服装、スーツ姿、さまざまだが口々に「安倍辞めろ」と叫んでいる。私は即座にそこに加わった。

 いよいよ安倍が到着して登壇するや否や、「辞めろ」「帰れ」の声はグンと高まった。まるで地鳴りのような状態で、安倍が演説で何を言っているのかほとんどわからない。安倍が話をしていた約15分の間、地鳴りは響き続けた。

 さて、多くの報道が、秋葉原で起きた出来事について「野次(やじ)が飛んだ」と形容し、安倍自身も演説中にわれわれを指して「誹謗(ひぼう)中傷からは、何も生まれない!」と述べたそうである。しかし、あのなかにいた者の実感として言えるのは、安倍が受けたのは「野次」でもなければ「誹謗中傷」でもなかった。野次の辞書的定義は「他人の言動に、大声で非難やひやかしの言葉を浴びせかけること」であり、誹謗中傷は「根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つけること」を意味する。

 われわれ抗議者たちは、そんなまどろっこしいことをしていたわけではなかった。言われていた言葉は、まことに単純な「辞めろ」「帰れ」だけ。そもそも野次を飛ばすためには、相手の言うことをいったんは聞かなければならないが、われわれのうちの誰も、もはや安倍の話を聞く気などなかった。あるいは、誹謗中傷するためには「悪口」を言わねばならないが、「辞めろ」「帰れ」は悪口ではない。つまり、われわれが発していた言葉は、読んで字のごとく、「命令」であった。

 早晩、安倍はこの命令に従わざるを得なくなるだろう。もちろん、政権にしがみつくべく最大限の努力をするだろうが、都議選における壊滅的な結果を受けて、もはやレームダック化は必至である。「ついに」の感慨を抱かないわけではないが、しかし、「水に落ちた犬」はどうでもよい。

 魯迅は「水に落ちた犬を打て」と言ったが、いまそれよりも重要なのは、現実の本質を正確に掴(つか)むことだ。この5年近くにわたって、日本社会はこのコンプレックスと特権意識の化け物に引導を渡すどころか、いそいそと長期政権を許してきた。かつて私は、自著『「戦後」の墓碑銘』に「(安倍晋三の)愚かさは、戦後日本社会が行き着いた愚かさの象徴なのである」と書いたが、安倍が権力の座から引きずり降ろされたとしても、社会の劣化状態がそれによって解消されるわけではない。一体何が、「安倍的なるもの」を支えてきたのか、それが見定められ、そして乗り越えられなければならない。

民進党に代わる政党の創設が急務

 最初に、本来安倍政権に最も鋭く対峙(たいじ)しなければならなかったはずの野党第1党、民進党を俎上(そじょう)に載せよう。現時点では、今般の都議選での敗北を受けても、党執行部への責任追及の動きは鈍い。現有7議席を二つ減らしたという結果は、「惨敗」のイメージと一見ずれる。だが、そもそも民進党系会派の都議会議員は改選前には18人いたのが、選挙直前になって会派の幹部クラスをはじめとして民進党離党者が相次いだ。沈みかけの船から逃げ足の早い連中(船長=会派幹事長を含む!)はすでに逃げ出していたのである。つまり、失った議席は、本来は13と数えられるべきであり、当然惨敗である。

 民進党がここまで人気がない理由は、私見によれば、はっきりしている。蓮舫・野田体制では、与党と見分けがつかないからである。安倍政権批判者たちから強く批判されてきた政策のうちのいくつかは、野田民主党政権の時代にすでに着手されていた。原発の再稼働や武器輸出解禁といった政策がそれである。

 したがって、民進党が安倍政権に対する本格的な対抗者として名乗りを上げたいのならば、菅・野田政権のとった方向性を清算して反転させなければならなかったはずが、彼らが2016年に党首として選んだのは、野田に支えられた蓮舫であった。まさに、これ以上悪い選択は考えられない最悪の選択肢を選んだのである。しかも、原発や新安保法制の問題をめぐっては、「絶対反対、安倍政権を許さない、共に闘おう」といった言辞を支持者の前では吐いていた「リベラル派」を自任する議員の一部が、蓮舫・野田を支持して、党内猟官運動に走った。ここまでくると、この党についてコメントすることすらバカバカしい。

 要するに、民進党に代わる、政権担当能力のある政党の創設が急務なのである。その党は、格差の問題や社会保障の問題、少子化の問題、原発の問題、沖縄米軍基地の問題といった個別の課題に、政権与党とは異なったアプローチで取り組むことはもちろんのこと、私が「永続敗戦レジーム」と呼ぶ、政官財学メディアの中核部に浸透した特殊な対米従属体制と闘う集団でなければならない。

 問題は、その仕事を誰がやるのか、というところにある。この仕事は、既存の永田町の住人が主導する集団が担うべきではないし、担えもしない。そのことは、一方では、民進党の現状が無惨なまでに証明しており、他方では、いま飛ぶ鳥を落とす勢いにある小池百合子東京都知事も、これまでの自身の言動や「都民ファーストの会」にどんな面々が集まっているのかという点から判断するに同様である。

 それでは誰が? むろん、私に誰かを名指す権限などありはしない。しかし、街頭で盛んに上がっている声、すなわち安倍に対して端的に「辞めろ」と命じた声が議会の外で集約され、それが確たる形を持った集団へと形成され、それが議会内のわずかに存在する本当の意味で闘う意志を持った議員・政治勢力を巻き込んでゆく、という道筋以外に方法がない、ということは確実に言い得る。

日本のメディアも瀬戸際にある

 次にメディアの問題に触れたい。メディア不信が叫ばれて久しいが、安倍政権成立以降、その腰抜けぶりは目を覆うばかりのものとなった。強調しておかなければならないが、メディアの倫理的頽廃(たいはい)と知的頽廃は別の事柄ではない。対立する見解を両論併記で載せておけば「報道の中立公正性」が担保できる、などと考える劣化した知性は、何が倫理的に許容され何が許容されるべきでないか、まともに判断することなどできない。両論併記が正義ならば、両論のうちの一つとしてヘイト運動のリーダーに主張の場を与えることも正当な行為となるだろう。この程度のことすらわからなくなっているメディア人が多数派になっていると見受けられるが、それは倫理的かつ知的な混乱なのである。

 そして、『読売新聞』の前川喜平前文科省事務次官に対する謀略的な個人攻撃によっていよいよ不信感が頂点に達する一方、各メディア内部での対立が、さまざまな場面で表面化してきた。

 その典型が、NHKで加計学園問題を掘り下げた6月19日放送の「クローズアップ現代+(プラス)」である。番組内容は社会部主導と見られ、疑惑の核心に迫っていたが、解説者として社会部記者と並んで登場した政治部記者は、「(国家戦略特区の)全ての選定過程で議事録が残され、ネット上で公開されている。意思決定に間違いが起こるはずがない」などと、政権を代弁するかのごとき発言を行なった。誰が権力の走狗(そうく)であり、誰が権力と対決しようという意志を持っているのかが、視聴者や読者にとって可視化される状況が生起しつつある。

 ところで、昨年から今年にかけての韓国における政治の大変動にあって重大な契機は、事情通から聞くところによると、メディア(TV)の信用失墜であったという。すなわち、朴槿恵(パク・クネ)政権が放送局の幹部人事に介入したという疑惑が生じることによって、国民のTV局に対するわずかに残っていた信頼感が崩壊し、民衆の怒りが沸騰したことが、政権への激しい抗議活動を活気づかせ、ついには政権を退陣に追い込み、文在寅(ムン・ジェイン)大統領誕生をもたらした。朴槿恵のメディア介入は、結果として自らを牢獄(ろうごく)につながしめることになったのである。

 日本のメディアも同様の瀬戸際にあると言えるだろう。民衆からの信頼と敬意を完全に失うことを潔しとしないメディア人の蜂起が散発的に始まりつつあるが、それが大きなうねりにまで成長し、自分たちの報道姿勢が権力への監視と批判たり得ていないことを認識していないばかりか、権力の視線を自らの視線として内面化したものとなっている(つまり、完全な奴隷と化している)ことに対する自覚すら欠いている勢力――その極限が今次の事件を引き起こした『読売新聞』であるが――を追い出すことができるか否かに、劣化からの脱出の成否が懸かっている。

安倍政権の支持率を支えた核心

 だが、最後の、そして最大の問題は、「国民(有権者)の劣化」にほかならない。安倍政権誕生から5年弱のこの間、政権の支持率は高止まりし続けてきた。それこそが、長期政権の根本理由である。

 支持される根拠については、さまざまな推論がなされてきた。「他に適任者がいないから」「外交成果を挙げているから」「経済が上手(うま)くいっているから」といった理由づけである。その一つ一つには具体的に反論することが可能である。しかし、ここまで続いた高い支持率の根拠はおそらく、こうした具体性の次元にはない。少し考えてみるだけで到底維持し得なくなるはずの「支持理由」が、これまで維持されてきたという事実、そこに事柄の核心があるのではないのか。

 つまり、安倍政権が支持されてきたのは、「~だから」という具体的な理由づけに基づくものではないのだ。具体的理由を全部取り除いたとき、残るのは「政権である」という事実のみであるが、政権支持者たちの日頃の言動から察するに、安倍政権の支持率を支えてきたものの核心は、これである。このメンタリティを「素町人(すちょうにん)根性」と呼んでも「自発的隷従」と呼んでもよい。

 北朝鮮によるミサイル攻撃に備えるための訓練と称して、田んぼのあぜ道で頭を抱えてしゃがみ込んでいる老人の報道写真を目にしたとき、私の胸に去来した最も強い感情は、「哀(かな)しみ」だった。やっていることは、「竹槍(たけやり)でB29」と何も変わらない。おそらくは善良な、しかし、政治に関する事柄になると筋道を立てて物事をとらえることができない人々を喰(く)いものにするこの国の統治様式は、第二次世界大戦の膨大な犠牲を経ても何も変わっていない。

 そして、このような受動的な隷従がある一方で、主権者たろうとする人々や正当な権利主張をする人々に対して、粗(あら)を探し、難癖をつけ、嘲笑するという行為は、安倍政権が続く間に娯楽として定着した。これは、言うなれば、能動的・攻撃的形態による自発的隷従であり、奴隷に許された慰み事である。安倍政権は、このおぞましき群衆と物欲しそうな顔つきでそれに同伴する「知識人」がつくり出す「空気」を、権力維持のために活用してきた。

 われわれの発した「辞めろ」「帰れ」は、この空気の担い手たちにも向けられている。そのような惨めな存在であることを「やめたまえ」、本来人間が在ることのできるはずの在り方に「還(かえ)りたまえ」、と。この声を、それが決定的な成果を挙げるまで上げ続けることが、現在語り得る唯一の、しかし根本的な希望である。

 われわれは、明治維新以来150年続いてきた、奴隷と奴隷主(ぬし)しかいない国の在り方に終止符を打つまで、この声を轟(とどろ)かせ続けなければならない。