香港の抗議デモを弾圧する香港政府や背後の中国政府を果敢に批判し続け、仕事を干された香港俳優がいる。ヒット映画「無間道」シリーズの心ある警視役などで知られるアンソニー・ウォンさん(58)だ。収入が激減してもなお動じない彼は、香港のフィリピン人家政婦の現実を描いた2月1日公開の「淪落(りんらく)の人」に、報酬を辞退して主演した。その思いとは。
「中国で稼いでいるくせに」批判浴びても
5年余り前、中国映画の撮影で滞在した上海でのことだ。深夜、香港の民主化を求める「雨傘運動」への警察の弾圧のニュースに憤り、フェイスブックに携帯電話でデモ支持を書き込んだ。中国版ツイッター「微博」などに転載され、ネットで非難の嵐に。「中国で稼いでいるくせに、我々中国を害するな」
ウォンさんは「無間道」シリーズのほか、「頭文字D THE MOVIE」(2005年)、「イップ・マン 最終章」(13年)など数々の香港映画や、米映画「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」(08年)などに出演。「香港電影金像奨」を計5度受賞、「台湾電影金馬奨」も獲得した実力派だ。
だがこの日を境に、仕事が一気になくなる。上海でこの時撮っていた中国映画も公開中止となり、関係者からは「君のせいだ」と責められた。
収入は激減した。それでも、昨年からデモが再燃して弾圧も激しさを増す中、自身のツイッターや集会の場などで当局批判を続けている。中国企業や中国資本がからむ作品との関わりから、沈黙する人が多い香港映画界にあって、極めてまれな存在だ。
「自分は何者か」デモがもたらした誇り
4歳で、英国人の父と生き別れた。英政府関係の仕事で香港に滞在した折に、かつて広東オペラの歌手をしていた母と知り合い、ウォンさんが生まれた。だがまもなく父は、英国に戻ったきりとなった。
子どもの頃は、英国人でも香港人でもない扱いを受け、自分が何者なのかとアイデンティティーに苦しんだ。「自分が香港人だと誇るような感覚は、以前はなかった」
だが、一連のデモを経て、「今は香港人であることを誇りに思える」と話す。「政府のゆきすぎた行動や暴力に、若者が勇気を出して立ち向かい、民主とは何かを世界に発信し続け、警鐘を鳴らす役割を果たしてくれている。そうした若者の行動に勇気づけられた」
父が英国で別途、家庭を持っていたことを英BBCの番組出演をきっかけに知り、2年前、豪州に住む英国人の異母兄2人に会った。思いがけない兄弟の存在に、ともに喜び合った。彼らには香港からの移民を勧められるが、ウォンさんは応じない。また、妻は警察を支持し、カナダに住む長男は発言を控えるよういさめてくるが、いずれにも耳を貸さない。「引き続き、香港の若者たちの力になりたい」
香港の現実描く映画、無報酬で主演
「淪落の人」では、差別に遭いながらも自由を希求し夢を追うフィリピン人家政婦に介護される、半身不随の役で主演している。フィリピンをはじめ東南アジアからの出稼ぎ家政婦たちは長年、香港の家庭を支えてきた。なのに彼女たちを描いた映画は香港で「これまでなかった」という。ウォンさんいわく、「フィリピンに限らず、外国人労働者への一種の差別的な意識を、香港の人たちが潜在的に持っているということではない 香港では週末になると、香港島中心部の中環(セントラル)の繁華街で、フィリピン人など東南アジアの女性が文字通り大挙して路上でくつろぐ光景が繰り広げられてきた。住み込みがほとんどであるため、休日は外出するほかないものの、お金のかかるカフェなどに入る余裕はなく、持ち寄りの食べ物などを同じ境遇の人たちと囲む。それでもつかの間のぜいたくを味わおうと、高級店で返品前提で服を買い、記念撮影したりする女性たちもいる。今作ではそうした場面も出てくる。
今の中環は、デモと警察との衝突現場と化している。「中環はもう難しくなっている。でもみんな、どこかで集まっているんじゃないかな」とウォンさん。自身の家庭でも今、義父の世話をフィリピン人家政婦にお願いしているというが、「彼女はすごく素晴らしいですよ」。
香港政府の助成審査に懸念
一国二制度の下、香港には中国のような検閲制度はないし、中国との合作でない限り検閲を気にする必要もない。だが香港資本だけだと低中予算の作品となりがちで、多くの場合、香港政府の助成審査を申請することとなる。
ウォンさんは言う。「香港政府は今後、こうした審査にあたって、正義や公平とは何かを問うたり、自由や民主に少しでも触れたりする作品に敏感になるだろう。例えばクラスの若者の代表を選ぶ話だったりすると、選挙の公正性へと脱線するのではないかと警戒される。かといって大人の言う通りにする良い子を描こうとしたら、政府の厳しい取り締まりの暗示だと思われかねない。どう選んでも、ある種の警戒は消えない。昔の香港ではよく、警察をテーマにした映画があったが、今またこういうものを撮ろうとしたらどうなるだろうか。もちろん政府は正面からダメだとは言わないと思うが、いろんな理由を見つけて助成審査を通らなくするかもしれない。そうしてみんな、自粛していくのではないか」