
2021年09月




ギルレモ・デルトロによるリメイクが12月公開とのこと。
オリジナルの1947年版は日本語字幕付きで見られるのは残念ながらブロードウェイからの非正規マスターのみ(翻訳も少々怪しくて)、このクライテリオン版くらいの画質で観たいもの。
オリジナルの1947年版は日本語字幕付きで見られるのは残念ながらブロードウェイからの非正規マスターのみ(翻訳も少々怪しくて)、このクライテリオン版くらいの画質で観たいもの。


6月上旬、私は香港で張り込みをしていた。
香港島の北西部、アワビやフカヒレなどを扱う乾物店街の近く。夜になると、雑居ビルの出入り口付近や、信号機の柱の陰から、ガラス張りのホテルをじっと見ていた。
ここは「香港国家安全維持公署」と言われる中国政府の出先機関の職員が宿舎にしている場所だった。
香港では、昨年6月30日に中国に反体制的な動きを取り締まる香港国家安全維持法(国安法)が施行されてから、香港警察によって多くの民主派が逮捕されていた。公署は、その厳しい取り締まりの背後にある司令塔のような存在だといわれていた。
香港社会を激変させた公署とは、どんな組織なのか――。国安法施行から1年にあたり、私は公署の実態について書いてみたいと思っていた。でも、香港に新しくつくられた中国政府の組織はベールに包まれ、具体的な役割も、どんな人が何人くらい働いているのかも、情報がなかった。香港メディアもほとんど報じていなかった。
地元メディアもなかなか近づけない組織に、外国人が迫るのは難しいだろう。だけど一部分でも垣間見られれば、少し視界は開けるかもしれない。そんな気持ちで、宿舎になっているホテルの出入りを観察していた。
香港で公署に関する取材を始めたのは、その約1週間前の5月末のこと。新型コロナウイルス対策の移動制限によって、広州から香港になかなか入れないでいたが、ようやく2週間の隔離を終え、真っ先に唯一の手がかりだった公署の本部に向かった。
日曜日の午後だった。公署が全棟を借り上げ、本部としている33階建ての「メトロパークホテル」前に行くと、黒いサングラスをかけ、青い服に黒いズボン姿の男たちが2人組みで警備していた。軍の部隊のような深緑の服を着て、銃と催涙スプレーを腰につけた「特務警察」も周囲の様子をうかがっている。
公署は、香港きっての繁華街、銅鑼湾のはずれにある。デパートやレストラン、雑貨店などが立ち並ぶ銅鑼湾の中心部は、反政府デモが相次いだ2019年のころとは違い、平穏さが戻り、買い物客でにぎわう。しかし、中国の国章が掲げられた公署の周辺だけは、ほかの場所とは異なる空気が流れていた。
実は、私は公署が入るホテルに2年前、泊まったことがあった。全面ガラス張りで、チェックインカウンターのある2階まで伸びるエスカレーターが、1階エントランスの外からもよく見えた。それが今は、1、2階のガラス部分に白いアクリル板が貼られ、写真を撮ろうとすると職務質問を受け、中の様子はうかがい知れない「不透明な建物」になってしまっていた。
ホテルはビクトリア公園を一望できる場所にある。公園は、民主派による反政府デモの出発点で、6月4日に毎年開かれてきた天安門事件追悼集会が開かれる場所でもあった。私が宿泊したのも、追悼集会の様子を上層階から見るためだった。それがいまは逆に、公園に集まる民主派や記者たちを、公署の職員が見下ろしているかと思うと、皮肉なものである。
この日からしばらく、近くの住民のふりをして公署の前を行き来して観察することにした。法律に触れる行為をしないことはもちろんのこと、施設の敷地内に入ったり、相手を刺激したりしないよう細心の注意を払うことにした。
ある夜、公署から出てきた男たちが、マイクロバスに乗り込むのが見えた。午後8時。仕事を終えて、帰宅するのだろう。
尾行の末、記者は中国の「公安職員」らしき男と言葉を交わします。
雨が降っていた。偶然、タクシーが通りかかった。飛び乗り、マイクロバスと同じ方向に向かう。だが、ほどなく銅鑼湾の繁華街の信号のところでバスを見失った。それでも、これまでの取材で、公署の職員が宿舎にしているという2カ所のホテルの名前は聞いていた。運転手にその一つを告げ、しばらく走るとバスに追いついた。
公署から東へ約10分ほどのホテルで、3人の男性が降りた。バスはそれから香港島の西側に向きを変え、さらに15分ほど走り、乾物街近く、その後張り込みを続けることになるホテルに着いた。そこで残り全員が降りた。これで公署とこの二つのホテルがつながり、公署職員が2カ所を宿舎にしていることが裏付けられた。
6月も半ばにさしかかると、公署と関係を持つ親中派や香港政界の重鎮、中国政府関係者らから断片的な情報が集まり始めていた。公署が入るメトロパークホテルは、中国国営の「香港中国旅行社」が、宿舎にしている二つのホテルは、香港政府に近い大手不動産会社が便宜を図り、全棟を政府に貸し出しているとのことだった。
公署で働く職員の「顔」も、少しずつわかり始めた。複数の関係者によると、公署には中国本土の公安省と、外国人スパイを摘発する国家安全省の2系統から派遣されている。現時点では、「300人以上、500人以下」の職員が任務に就いているという。
幹部には、日本との関わりも深い人物もいた。香港メディアによると、国家安全省から派遣されている公署副署長の孫青野(別名・孫文清)氏は大学の専攻が日本語で、日本の創価大学に留学したこともあるという。共産主義青年団(共青団)の機関紙「中国青年報」の記者として東京にも駐在していた。その後、全国政治協商会議委員や、国務院発展研究センター研究員などの身分を持ち、今年1月には香港の自由や民主を傷つけたとして米国務省から制裁対象にも指定されている。
公署は、香港で国家安全にかかわる情報を収集・分析して中央政府に報告する「情報機関」としての役割と、香港政府や警察を指導・監督する「司令塔」としての権限を持っていることもはっきりしてきた。香港警察は、公署の指導のもとで、現場に出向いて民主派らを取り締まっているという構図のようだった。
ここで、冒頭で触れた張り込みの場面に戻りたい。
宿舎のホテル周辺で様子をうかがっていると、30代くらいの1人の男性がスマホをいじりながら出てきた。それまで職員が宿舎を出入りするときは、マイクロバスか送り迎えのミニバンを使い、夜に仲間と連れだって飲みに行くという姿は見たことがなかった。香港の世論を気にして、彼らも行動を抑制しているのだろうと思っていた。実際に人が歩いて出てくるのは珍しかった。
男性は信号を渡ろうとしている。追うべきか。「テカテカテカテカ……」。香港の信号の、早く渡れ、といわんばかりの音に追い立てられ、気持ちは焦った。相手はおそらく中国の公安、またはスパイ摘発組織のプロ。しかもどこへ行くか分からない人についていくのもどうしたものか。
悩んでいると、歩いて1~2分のところにある中華料理店に入るのが見えた。そうか食事か。午後8時半を過ぎており、私もまだ晩ご飯を食べていなかったので、同じ店で食事をすることにした。
朝日新聞デジタルの連載「失われた自由 香港国安法1年」でも書いたが、男性は数分後、別々にやってきた3人の男性と合流し、小さな丸いテーブルを囲んで、4人でドイツブランドのビールで静かに乾杯をした。「来、来(さあ、さあ、食べよう)」と、香港で使われる広東語ではなく、中国の標準語「普通話」の北方なまりが聞こえてきた。北京や上海の中国人が、広東語を聞いても全く意味が分からないほど、普通話との発音は異なる。4人は、小さな土鍋でご飯、肉、キノコを炊き込んだ「土鍋ご飯」をゆっくり楽しんでいた。
連載では書かなかったが、実は、食事を終えて帰ろうとする4人に「あなたたちは、(中国の)北方の人でしょう」と話しかけた。すると、1人が「そうそう」と気さくに答え、東北地方のある大都市名を挙げて、そこから香港に働きに来ていることを普通話で話した。そして、「あなたも北方の人か」と聞き返された。
あまり多くしゃべると中国人でないことがばれると思いつつ、2006年に中国語を学んだ中国東北部の吉林省長春にいたことを話した。短い会話だったが、中国本土でいつも接する人なつっこい人たちと変わらなかった。当たり前だが、公署の職員も生身の人間なのだ。店員によると、4人はよく店に来るらしく、仕事については一切語らないというが、「公安職員」であることだけは明かしていた。左手薬指に指輪をしている若い男性もいた。単身赴任で来ているという。家族のもとを離れ、中国政府から課せられた「国の安全維持」の任務を果たすため、派遣されているのだろう。
ただ、公署が追求するものと、香港の民主派たちが守るべきだと考えている価値観は、全く相いれない。
民主派や自由主義社会から見ると、公署や警察は香港の自由や民主を壊す「悪役」だ。逆に親中派や中国政府から見ると、公署や警察は国の安全を守り、香港に安定をもたらした「立役者」となる。
このギャップは埋めがたい。二つの認識の間で香港社会も割れ、分断が進んでいるようにみえる。世論調査でも、心情的に民主を支持する人は香港には常に半数以上いるとされるが、中国本土から移住する「新移民」が年々増え、中国に親近感を持つ層も増えている。香港で取材をしていて、若者には民主を支持する層が厚く、年齢が高くなるにつれ民主運動から距離を置く傾向もあるように感じる。
中国政府に批判的で、国安法違反の罪に問われて廃刊に追い込まれた香港紙「リンゴ日報」に勤めていた知り合いの記者も、「自分の親は中国に親近感を持ち、リンゴ日報で働くことに反対だった」と話していた。親子や夫婦の間で政治的な立場が異なり、家では政治の話題は避ける――。そんな話は何度も聞いたことがある。
中国ビジネスのゲートウェーとしての機能はまだ維持されているし、街の様子を見渡したところでは、平穏で、にぎわいもあって以前と変わっていないようにも見える。しかし、私が前回駐在していた2009年までと比べると、政治や社会の仕組み、人々の意識は大きく変わった。
市民はちょっとした行為が国安法に触れるのではないかと恐れ、口をつぐみ、友人や家族とSNSでやりとりするときも政治的な発言は控えるようにしている。国安法の施行で、学校でも「国家意識や愛国心」を重視する国安教育が取り入れられ、映画や美術館の展示内容も事前検閲されるようになった。
公署は、香港政府が用意した九竜半島の海沿いの広い土地に本部ビルを建て、数年後に移転する方針だという。職員は大幅に増員されるともいわれている。
私たちはいま、言論や集会、デモなどあらゆる自由が保障されてきた香港で、当たり前だった自由や民主が失われていく歴史を、同時進行で目撃している。この変化は、まだ続きそうだ。
奥寺淳(おくでら・あつし) 1971年生まれ。産経新聞を経て1996年入社。経済部などのあと、中国に語学留学。2008年から、香港、上海、北京、ワシントンで特派員として中国の国内問題や米中関係などを追いかけた。その後、東京本社で中国と米国担当デスクを経験したあと、20年から再び香港・広州支局長として現場に戻ってきた。11年度のボーン・上田記念国際記者賞を受賞。


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