
反体制的な言動を取り締まる香港国家安全維持法(国安法)を嫌い、医師や看護師が相次いで海外に移住している。公立病院の人材不足は深刻で、治療ミスや患者の受診難が深刻化している。香港政府は香港外から医師を補充して対応する構えだが、医療危機を解決できるかは見通せない。(台北=石田耕一郎)
香港の公立病院に勤めていた男性医師は今年、海外移住のために辞職した。昨年6月に施行された国安法による言論の自由の制限と、香港政府の医療政策に対する失望が理由だった。「香港の医療従事者は業務負担の増大によって燃え尽きる寸前だ」と言う。
男性の病院は約2千の病床を抱え、香港に43カ所ある公立病院の中でも指折りの規模だった。ただ、国安法の施行後、男性がいた診療科だけで複数の医師や看護師が去った。周囲で辞職を考える同僚も約20人に上っていた。勤務時間は週80~100時間に達した。男性は「辞職するのは仕事のできるベテランが多かった」と振り返る。
人員の逼迫(ひっぱく)により、男性の病院は不急の手術を延期する事態に陥り、数年から10年近く待たされる患者もいた。新型コロナの流行への対応も重なり、診察の予約は少なくとも数週間、先延ばしされていたという。
男性は「長い時間待った患者に対し、私たちはわずか数分、診察するだけだった。他の公立病院に勤める大学同窓の医師も私と同様に悩んだ結果、辞職して海外に移住した」と
病床数が500ほどの公立病院に勤める看護師も「医師や看護師の流出で、患者が診察を受けられるまでの期間が延びた」と指摘する。白内障を患った自身の親族は「手術は数年待ち」と言われたという。「小児心臓外科など、専門性の高い分野の医師は元々限られ、流出で補充がきかないケースもある」
この看護師の病院でも、国安法の施行後、ベテランを中心に20人近い看護師が海外移住のために辞職した。「長年の勤務で貯蓄があるうえ、経験豊富で海外でも仕事が見つかりやすいためだ」と理由を語る。
病院側は欠員に対し、資格を得たばかりの若い看護師を雇うとともに、一部の病室を統廃合した。ただ、1人の看護師が担当する患者数は約2倍に増やされた。夜勤時は二十数人を担当するといい、重症者の看護が不十分で死亡に至ったケースも出ているという。
香港の医療当局によると、香港の公立病院で起きた医療事故(入院患者の自殺を含む)や事故につながったケースは、国安法施行前の1年間では90件だったが、施行後は112件に増加。患者や手術の部位を誤ったり、手術後に医療器具を体内に置き忘れたりしたケースがある。
香港の病院は大きく公立と私立に分かれる。入院設備があるのは公立43カ所に対し、私立は13カ所にとどまる。政府補助のある公立での治療は自己負担が少なく、けがや病気で手術が必要な場合、人々はまず公立での治療可否を検討する。
香港の医療当局によると、3月末時点で公立病院の医師は計約7千人、看護師は約3万人に上る。同月に香港議会に提出された香港大の調査は、2020年時点で公立病院の医師660人、看護師3千人余りが不足していたと指摘する。
医療界はもともと政治的に民主派寄りで、流出は今後も続く可能性が高い。香港看護師協会が今年1月に発表したアンケート結果では、684人の有効回答者の約54%が海外移住を考えていると回答。うち約87%が2年以内の移住を計画し、約9割が移住理由に「政治・社会的な原因」を挙げていた。
事態の悪化を受け、香港政府は香港外で医師免許を得た人を呼び込んで欠員を埋めることを計画。こうした人が香港で医師として働くために課してきた試験を廃止する。主に国別受験者数で6割前後を占めてきた中国本土の中国人医師を想定しているとみられる。
ただ、香港メディアによると、今年の受験者106人(合格者42人)のうち中国人医師は71人(同20人)で、合格率は28%。その他の国・地域の約63%を大きく下回る。香港政府の統計では、過去の合格率の傾向も同様だ。
香港の看護学校で教えていた看護師は「試験廃止には反対だ」と言う。中国人医師には香港で使われる広東語や英語を話せない人もおり、患者との意思疎通に問題があるためだ。公立病院に長く勤めたベテラン男性医師も「かつて患者から中国人医師のレベルに対する不安を何度も聞いた。香港の医療が崩壊してしまわないか心配だ」と話す。