香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2021年12月

今朝の東京新聞から。

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今朝の東京新聞から。

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今朝の東京新聞から。

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柳家小三治、公開対談より。

朝日名人会ライブシリーズ「厩火事」にもう1枚のディスク「対談」。
プロデューサー京須氏との公開対談(2019年10月3日)のなかでこんな話を。

だから今、香港でやっているのをみれば涙なしでは聞けません。
香港からきた映像をいくつか見て、泣いちゃいますよ、私は。
それはだって、あの国はあういう国だからしょうがないじゃないかという人もいれば、
あまりにもひどいという人も。
だけど、こっちはそのどっちでもないんだけど、見ててやっぱりひどいものはひどい。
いいのかこれで人間は、と思います。



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今朝の東京新聞から。

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「映画監督 田中絹代」

朝日新聞の有料記事です。


 スター俳優として映画史に名を残す田中絹代が今、監督として内外で評価を受けている。今年、カンヌ国際映画祭を始め、リヨンのリュミエール映画祭、東京国際映画祭と相次いで監督作の修復版が上映された。現代の人々をひきつけるその魅力とは。

 「女性がなかなか監督できなかった時代に6本も、しかもテーマも現代的で衝撃を受けた」「なぜ今まで話題になっていなかったのか。監督・田中絹代の偉大さを発見した」。11月、東京国際で開かれたイベントに登壇したカンヌ映画祭のクリスチャン・ジュンヌ代表補佐はそう語った。

東京国際映画祭で開かれた「女性監督のパイオニア 田中絹代トークイベント」。カンヌ映画祭のクリスチャン・ジュンヌ代表補佐(右)が田中絹代作品の魅力を語った=2021年11月1日、東京都千代田区
 10月のリュミエール映画祭でも田中作品の上映は「毎回長蛇の列で満員御礼だった」と、参加した映画ジャーナリストの林瑞絵さん。「堂に入った演出ぶり、根底に流れる人間味、ジャンルの多様さに、専門家からは、ジャン・ルノワールやジョン・フォードら巨匠監督と重ね合わせる声もあがっていました」

 田中は「マダムと女房」「愛染かつら」「西鶴一代女」などに出演した、戦前から活躍するトップスター。戦後、日本で2人目の女性監督としてメガホンをとり、1953~62年に計6作を世に送り出した。

 だが監督としては従来、決して評価は高くなかった。

 近年、映画界では監督の数、俳優やスタッフの賃金や雇用の機会など、様々な分野で男女平等を目指す動きが進む。「男女50/50」を目標とする憲章には、カンヌや東京など150を超える映画祭が署名した。女性監督の歴史的功績を見直す動きの中で、田中監督も注目され、全6作が今年、4Kデジタル修復された。

 田中絹代に詳しい明治学院大の斉藤綾子教授は東京国際のイベントで「女性のセクシュアリティーを繊細に、どの作品でも描いている。自分が演じてきた役柄の中では表現できなかったことを表現したいと思っていた可能性もある」と指摘した。

 監督デビュー作「恋文」は木下恵介ら映画界の巨匠たちが支援した。今年のカンヌで上映された「月は上りぬ」は小津安二郎が脚本を手がけた。中でも評価が高いのは、月丘夢路を主演に迎え、乳がんで亡くなった実在の歌人を描いた「乳房よ永遠なれ」だ。

 国立映画アーカイブの冨田美香主任研究員によると、「恋文」の時には「女流監督と言われるのは嫌」「監督に女性も男性もない」「女性として描ける男性のキャラクターを描きたい」と語っていた田中監督が、「乳房よ~」では「女性として感じることを女性として表現したい」と公言していたという。「抑圧された感情、鬱屈(うっくつ)しているものがどんどん高まってあの物語になっていくのがよく分かった」

 最後の監督作品「お吟さま」(62年)についても「60年代前半にこれだけ大がかりな時代劇を撮ること自体がすごい。田中絹代がアグレッシブにテーマを追求し、妥協しなかった証左だと思う」と評価した。

 来年1月1~7日、東京・高田馬場の名画座「早稲田松竹」で5本の特集上映が企画されているほか、米国ニューヨーク近代美術館(MoMA)では1月末に「乳房よ~」が特別上映される。フランスでは2月半ばから、全6作品の劇場公開が予定されている。
 日本の映画史で見過ごされてきた女性の作り手の仕事を発掘し紹介しようと、映画研究者らが今秋、ウェブサイト「日本映画における女性パイオニア」(https://wpjc.h.kyoto-u.ac.jp/)を立ち上げた。田中絹代を始め、日本初の女性監督である坂根田鶴子や、俳優でもあった左幸子、望月優子といった監督に光を当てている。

 代表を務める木下千花・京都大大学院教授(日本映画史)によると、戦後の大手映画会社では、撮影所のシステムで将来監督になり得る助監督試験の応募資格が「大卒男子」となり、女性が長編劇映画の監督になる道が事実上閉ざされた。

 そんな中、スクリプターだった坂根、俳優だった田中や左、望月らが、現場で培った経験と信頼に基づいて監督業に進出したという。

 木下教授は「女性映画、女性の監督ということで周縁化され、優れた作品が忘れられている。見直す価値があると思った」と話す。

 女性の作り手の視点を示す一例として、左幸子監督作「遠い一本の道」で、夫にちゃぶ台返しをされた妻が着物についたシミを拭くシーンを挙げる。「生活のディテールが加わることで、描写の幅が広がる。リアルというだけでなく色々な視点が入ることで、映画が豊かに、面白くなる」

 サイトでは今後、脚本家や衣装デザイナーなど様々な形で日本映画を支えた女性たちを取り上げていく予定だという。

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今朝の東京新聞から。

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「談志・志ん朝を語る小朝」

朝日新聞の有料会員記事より

 今年、没後20年の古今亭志ん朝と没後10年の立川談志。打倒志ん朝にひそかに執念を燃やす柳家小三治、天才ならではの苦悩をさらす談志など、春風亭小朝さんは、そんな驚きの逸話を次々と明かしました。立川流創設の経緯など、2人にはまだ見ぬ横顔がありそうです。

 楽屋の雰囲気が一変する二人でしたよね。志ん朝師匠は、血統書つき若旦那に対する尊敬みたいなのがあって、ぱっと楽屋も華やかになりますからね。談志師匠は、ぴりぴりしてる感じですかね、入る時間になると、前座の顔つきがだんだん変わってくる。遅れて入ってきて、パフォーマンスが毎回違うので、周りが振り回される感じですよね。

 うちの師匠(五代目春風亭柳朝)と志ん朝師匠が二朝会をやってらしたので、お稽古してもらいましたけど、真打ちになってからですかね、いろいろお話をするようになったのは。

――どんな話を。

 なんかわかるんですね、落語界を良くしようということでは一致してるので、その辺のところは通じ合えるものがあったというか。

 誰かの打ち上げの席で、みんなが酔っ払って騒いでるときに、隣に座ってて、耳元で、「俺が会長になったときはよろしく頼むな」って言われたんですよね。ああ会長になる意思があるんだなということと、よろしく頼むなっていうのはうれしかったですよね。

 印象的だったのは、志ん生をいつ継ぐかって話になったときに、「落語界に何の話題性もなくなったときに継ぐかな」。意外だったんだけど、お父さんの名前を一つのイベントとして考えていらした。このままでは落語界が衰退していくので、盛り上げようという意思があったんでしょうね。もし会長になっていたら、いろんなことしたんじゃないですか、若手の起用の仕方とかでもね。

 ――志ん朝の特長は。

 やっぱり、唯一無二のところがありますよね、口調もそうだし、華のあるあの雰囲気とか。あと実は相当にフラ(独特のおかしみ)のある師匠なので、もっと長生きしてくだすったらすごく楽しみにしてたんです。というのは、ある落語会でお父さんの十八番「黄金餅」を間違えたんですよ。そのときにね、自分でふっと噴いたんですよ。いままでだったらそんなことは絶対なかったんですけどね。このままいくと、志ん生師匠の域に入るっていうか、間違えたことが笑えるようになってきた志ん朝師匠はすごいぞ、と。

 もともと楽屋のお話の面白い師匠なんです。お客様が持ってる、自分の作り上げてきた志ん朝のイメージを、志ん生になったら「もうそろそろいいや」って脱げたと思うんですね。

 ――談志は現役の噺家が影響を受けている節があります。志ん朝はそれほど語られません。

 憧れの対象だったからじゃないですか。気さくに若手とも交流しますから、皆さん好感を持ってるんですよ。ばりばりサラブレッドで「この人は別」っていう感じじゃないんですかね。

 ――談志も落語の将来を憂えていました。

 決定的な違いは、志ん朝師匠は落語界を何とかしていこうという風に考えてる途中で亡くなったんです。談志師匠も若手を育てながら何とかしようと「笑点」なんか作りましたけども、ことごとく小さく裏切られて諦めた人なんですよ。

 その最たるものが、談志師匠が落語協会を飛び出て「小さん師匠の逆鱗(げきりん)に触れてる」といううわさになったとき。僕は訪ねていって「何で戻らないんですか」って聞いたんですね。「お前、台風の目に突っ込む馬鹿いねえだろ」とおっしゃったんですよ。「いやいや全然怒ってないですよ」「うそつけ」「とにかく一言謝ればいいから、一門連れて戻ってくればいいんだ、って師匠おっしゃってますよ」って言ったら、師匠が窓の外のほうずーっと見てて、「誰もそんなこと言ってくれねえんだよなあ……」ってぼそっとおっしゃったんですよ。談志師匠がピンチになったときに、救いに来る人がいないんだなあと思ったんですね。

 談志師匠はおっしゃいましたからね、僕が若手の落語会をやってたときに「お前いい加減やめろよ、後悔するぞ。俺もいろいろやってきたけどな、裏切られるぞ、そのうち分かるよ」。ああそういう傷を負ってるんだなと思って。最終的に師匠がたどり着いたのは、一緒に走ろうじゃなくて、自分が走りゃあいいんだ、ついてきたきゃ勝手についてこい。そんな感じです。

 ――現役にいま残ってるところは。

 たとえば、(独演会の終演時に)自分のファンの前で一回幕を閉めて上げさせて何か言うとか。それと、過剰な演出。たとえば、落語の中で奥さんの髪の毛をぐっとつかんで引っ張るみたいな、そんなことする必要はないんです。でも過激なものを見ちゃうとやりたくなる。それは本寸法じゃない。談志師匠の生き方のスタイルに憧れてまねしたいってことですよね、芸じゃなくて。

 ――談志志ん朝二人会をプロデュースするなら、どのネタをお願いしますか。

 うーん。特別ないなあ。談志師匠に関しては来てくれればいいし。志ん朝師匠の会だったら絶対来ますけどね。対談は入れますねどっかでね。ネタは自由じゃないですかね。

 ――いいと思った噺は。

 志ん朝師匠はね、もちろん十八番の「明烏」とか艶もあって素晴らしいんだけど、師匠は楽屋の小言が面白い人なんですよ。それが落語に生きてるんで、「小言言兵衛」とかね「寝床」とか「化物使い」、これは他の噺家にはない面白さ。他の噺は芸術作品みたいに作り込んでますけども、小言をいう噺に関しては、結構地が出てる。楽しんでたと思いますよご本人も。

 談志師匠は、意外なところでは「笠碁」みたいな噺が良かったりするんですよね。よくおやりになってたところでは「黄金餅」は談志師匠の作品だなという気がしますね。

 談志師匠と二人っきりで話してたときに師匠がね、「こないだ志ん朝と飲んだんだよ。志ん朝にな、志ん生になれっていったんだよ」「師匠何とおっしゃいました?」「なってもいいけど、兄さん口上に出てくれる?っていうからさ。出てやる代わりにもっとうまくなれって言ったんだよ」って、楽しそうに笑って話してたんですよ、そこまではよかったんですけどね。僕が「志ん朝師匠はどうしたらもっとうまくなると思います?」って聞いたら、その瞬間にね、げんこでテーブルをドンとたたいて「俺だってわかんねえんだよ!!」って言ったんですよ。これ半分志ん朝師匠だけど、半分自分に対してかなと思ったんですよ。どうしたらこれ以上うまくなるか分からない。それはもう談志師匠の苦悩だなっていう感じだったんです。

 ――小三治は志ん朝談志どちらを意識していたと思いますか。

 小三治師匠はね、志ん朝師匠いじめが結構あったんですよ。一番すごかったのは、東横落語会で、トリの志ん朝師匠が「船徳」だったんですね。その前に小三治師匠が上がって、あえて十八番中の十八番、「百川」を出してきた。これが大変な受け方したんですよ。で、これは絶対やっちゃいけないんだけど、終わった後にちょっとふざけたことをして、袖に引っ込むまでまた爆笑になっちゃったんですよ。小三治師匠が逆の立場だったら、前の人の笑いが完全に収まるまで出ないんですよ。ところが志ん朝師匠はまじめな方だから、めくりが返ったら出てっちゃう。「船徳」に入ったんだけど、受けなかったんですよ。何よりも驚いたのはお客さんで、みんな階段をうなだれて歩いてるんですね。小三治師匠に完全に食われたのを見てしまったショックがあるな、と思ってみてたんです。

 ――俺は負けてないぞ、という小三治の自負でしょうか。

 もちろんそうです。小三治師匠は、僕が入った頃は、志ん朝師匠や談志師匠がいると隅の方にいておとなしくしてたんですよ。それがだんだん、少しため口になってきて、あるときから少しいじるようになってきたんですね。それはご本人が「もう俺は負けてない」っていう自信をきちんと持ってからですね。

 小三治師匠の生き方なんですけど、あるところまで完全に月型の人間だったんですよ。明かりを当ててもらえるまで待つタイプだったんですね。それはずーっと一貫してましたね。
 ――どっちに似ている?

 いやいやいや、どちらでもないですよね。談志師匠も志ん朝師匠も言うならば太陽タイプ、自分から光を発散するタイプですから。

 ――現役の噺家で志ん朝や談志に似ているのは。

 あー難しいですねえー。ただ談志師匠をきちんと理解してるのは、寄席で師匠と一緒に育った、上のお弟子さんたちですね。でも、談志師匠の内心、こいつかなと思ってたのは、談春さんだと思いますけどね。

 ――志ん朝は。

 どうなんだろうなあ。……聞かないっすよねえ。うーん。古今亭の中で、きれいな高座をっていう意識は多少志ん朝師匠の影響を受けてんでしょうけどねえ。うん。……いないかなあ。

 二人とも、唯一無二の存在みたいな意識があったんじゃないですかね。自分たちにね。難しいんですよ。志ん朝師匠ぐらいまぶしいの、なかなかないので。

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金原亭伯樂が語る「志ん朝・談志」

朝日新聞・有料記事から

 志ん朝兄貴はね、「世の中にはこういう人がいるのか。この人のそばにいたい」って感じですよ。

 芸人という感じでなく、スターだったわけですね。というのはね、もう見るからにかっこいいんですよ。二つ目の時に、唐桟の着流しで、紺足袋で草履はいてね、御徒町駅降りて歩くでしょ。すれ違って振り向かない人いなかったもん。芸がいいとか悪いとかじゃあない。どうにも、あの人のそばにいられればいい。芸うんぬんじゃなく、そういうことを感じましたね。

 談志さんという方はね、二つ目の一泊旅行のばくちなんかでは、平気でインチキはする。勝った金を後輩に貸し付ける。そういう人だったのね。だからね、俺はあの人の「芝浜」聞いてても、夫婦愛だとか、ほわっという味がない。時の政治家をこき下ろすような毒舌は、そりゃたまらない魅力がありましたよ、話芸は確かにうまかったですね。けど、そういう面で、人情噺をやって温かみがなかったってのが、俺は寂しかったね。だから、ついてく気はしなかったなあ。

落語界でライバルと目された没後20年の古今亭志ん朝と、没後10年の立川談志は、ともに若手の頃から人気を博し、いまでも本やCDが売れています。根強いファンのいる魅力は何か。ゆかりの人々に聞きました。

 ――志ん朝と前座が重なってた?

 入れ違いでした。大学の2年の春から師匠(十代目金原亭馬生)んところ行ってたから、志ん朝兄貴とは前から顔見知りだった。兄貴のところへ初めて来た弟子だっていうので。

 最初びっくりしたのは第一生命ホールの若手落語会でね、二つ目に上がった志ん朝さんが「火焰太鼓」やったんですよ。あん時から、すげえ人がいるなあ、こういう人のそばで過ごせたら幸せだなあ。売れる売れないそんなことじゃない、と思った。

 やっぱり人間も素晴らしかった。まだ30代の頃、ボウリングが全盛だったことあるんです。俺もいまの(桂)文楽さんと「ボウリングでもやろうか」って。志ん朝兄貴が「ダメダメ、ボウリングじゃないよゴルフだよゴルフ、お客がいないなら俺がいくらでも紹介するから」ってんでさ、それで文楽さんとあたしがゴルフを始めた。どういうわけか、文楽さんが一番うまくなっちゃって。そのうち志ん朝兄貴がずっとペケになっちゃって。そういうときに、「おい、おめえな、俺なんて言ったと思う。落語とかゴルフはうまい方がいいつったんだよ。おめえ順番間違えやがって、落語よりゴルフの方が先にうまくなっちゃったじゃねえか」。皮肉いろいろ言いながらね、帰りみんなで飲むんだけど、おかしかったねえ、志ん朝兄貴の言葉は。

 下野のゴルフ場でね、5番ホールでね、いまでも頭に鮮明に覚えてる。3人とも3オン2パットで、「みんなボギーですね」つったら志ん朝さんが「桂ちゃん(伯楽)、俺一個増やしてくれ」って言うんだよ。何でって言ったら、2打目、打とうと思ってテイクバックとったらね、ボールがすっと動いたって言うんだよ。誰も見てないですよ、それを終わってからの申告で自分から言う人だ、志ん朝さん。そんときに自分でぱっと振り返って、「いまの俺にこの言葉いえるかな」と思ったもん。たとえわずかでもみんな賭けてるから、負けたくないわけですよ。そのときに、ああこの人は間違いねえ人間もちゃんとしている人だ、と思ってね。なかなかあんなこと言えるもんじゃない。

 志ん朝兄貴も好きだったんだばくちは。オヤジ(古今亭志ん生)が好きでね、嫌いなわけがない。いくら負けてても、明け方3時ごろに、「あっいけね、あした紀伊国屋(寄席)だ、俺ちょっとやめるわ」。なにっつったら「稽古する」。何やんの? 「品川心中」。いつもやってんじゃない、って言ったら「いやそうもいかねえんだよ、やっぱり」。明け方まで俺たちばくちやってるときに、きちんと稽古してんだもん。俺にはできなかった。あの人そういうこと平気でできた人。やっぱ違うんだなあ。よくね、王貞治さんが、「天才も何もない、ただ努力だけだ」っていうんだけど、努力をちゃんとした人が天才って言われる。人一倍の努力はやっぱり肝心なんだなあと思うけどね。押しも押されもせぬ真打ちでしたよ。

 ――後から入門した志ん朝が、談志より先に真打ち昇進しました。

 あっ、新宿末広亭の裏に「楽屋」って喫茶店があるでしょ。そんときに談志さんと志ん朝さんが、当時は小ゑんと朝太が、楽屋でもって顔合わせたときに、談志さんが「おい、おめえ俺を抜いて先に真打ちになって、そんでおめえいいと思ってんのか」って言ったんですよ。これは俺は自分の耳で聞いた話だ。志ん朝さんは「いいも悪いも、俺がなりたいって言ったんじゃない、みんながそうしてくれるってんだから、それに逆らうわけにいかないでしょう」って言ったんだ。談志さんは「辞退したらいいじゃねえか」つったんだよ。

 そしたら志ん朝さんが「じゃあ兄さんこうしましょう。いま新宿の高座を二つ空けてもらって、どっちが先でも後でもいいです、二人並んで上がって、どっちがいいですかって聴きましょうよ」つったんだ、志ん朝さん。そしたら談志さん「うーん」てうなっちゃって、なんにも言えなくなった。結局そんなことしなかったけどね。志ん朝さんそこまで自負もあったでしょ。「お客さんに聞いてもらいましょうよ」って言葉は、はっきり覚えてんね。

 ――いま志ん朝を受け継いでいる、似ているのは。

 前座に入ってくるやつは、聞いたことねえってんだ。言われてみてそうでしょう、年代的に。だって亡くなって20年て言ったらさ、いま大学出て入ってきたやつだって、(重なってるのが)2年かそこらでしょ。そらね、聞いたことはないよ。だから、志ん朝さん死んでそんなになんのと思っちゃった。そんな昔だったなあ。

 ――志ん朝がいなくなり、何が失われましたか。

 俺に言わせれば、スターがいなくなった。落語界にとっての損失だったと思ったね。いい落語家がいなくなったって言うより。

 たとえば、志の輔とか売れてるでしょ。でも、振り向かねえでしょ。いまの落語家って落語はうまいかも知れないけど、スター的要素ていうのはちょっと欠けますよ。

 ――談志の影響はいまも感じますか。

 弟子は結構まだ、あっ談志の弟子だなっていうのが分かるのはおりますね。割と談志口調ってのはありますがね。

 元々はね、芸は模倣なんですよ。でも、談志のまね志ん朝のまねはできないよ。やっぱり。

 ――いま志ん朝談志二人会をやっていいといわれたら、どのネタをやってもらいたいですか。

 談志さんは、「源平」かな。あの人は地噺だから、いろんなことが間に入れるじゃない。面白かったですよ。それこそ立て板に水でね。運びは良かったな。

 志ん朝さんとなるとなんだろう。「二番煎じ」なんかも好きだな。声が良かったしね、志ん朝兄貴はね。あとは「お直し」のおかみさんか。

 ――小三治は志ん朝談志のどちらに似ていますか。

 あの人はやっぱり自分の物。どっちにも似てない。ちゃんと間を取るし。あれは前座の時から俺が気がついてたことだけど、噺も完成するまでじっくり手直しをして、納得がいくまで出来上がらなきゃ落語をやらなかった人。だから「富士参り」ばかりやってた。

 ――存在や雰囲気が志ん朝、談志に似ている現役の噺家は。

 いまの俺に言わせると、テレビに出てくる(立川)志の輔が、しゃべりもはっきりしてるしね、無駄もしゃべらないしね。そういう面では、あの一門では志の輔なのかなあ。

 ――志ん朝は?

 志ん朝さんぽい、ああいう体から発散してるスターがいねえってんだよ。落語界を含めて。

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30%の投票率(朝日新聞より)

 香港の立法会(議会、定数90)選挙が19日に投開票され、一般の有権者が投票できる直接投票枠(定数20)の投票率が過去最低の30・2%(速報値)となり、前回2016年の58・28%を大きく下回った。香港政府が明らかにした。中国政府による選挙制度変更で民主派が事実上排除され、全体の6割程度を占めるとされる民主支持層の多くが棄権にまわったためとみられる。

 香港政府は、選挙の形骸化が目立つのを防ぐため、テレビやバスなどに大規模な広告を出し、当日の公共交通機関を無料にして投票を呼びかけてきた。また、ネット上で白票や棄権を呼びかける転載をしたなどの容疑で、大学生ら10人以上を逮捕する対応も取った。

 立法会選に立候補が認められたのは親中派約140人と、親中派が推薦した中間派の十数人のみ。政府に忠誠を誓わないと立候補が取り消されるため、民主派政党は擁立を見送り、候補はゼロとなった。

 事前に当選者は親中派ばかりになることが固まり、直接選挙枠だけでなく、親中派の多い職能枠(定数30)の投票率も19日午後9時半時点で30・92%と低迷している。前回は74・33%だった。

 残る40議席は、親中派が99・9%を占める選挙委員(定数1500人)だけが投票でき、投票率は同時点で98・14%だった。この枠は、過半数に近い親中派を確実に当選させるために新設された。
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