香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2022年06月

「蘋果日報の記者は今」(朝日・有料記事より)

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  1年前。香港の新聞社が、中国と香港政府の弾圧にあってその歴史に幕を閉じた。
 中国共産党に批判的な論調だった「蘋果日報」。報道した内容が、国の安全に危害を与えたなどとされ、会社の資金を凍結され、廃刊に追い込まれた。

 「香港人と雨のなかのつらいわかれ 『我々は蘋果日報を支持している』」

 昨年6月23日深夜、こんな1面見出しの最後の新聞をつくり終えた記者や編集者たち100人余りが、編集局で「オー」と歓声を上げていた。取材のため、私もその場にいた。

 彼らはいま、何をしているのだろう。ずっと気になっていた。


 あの日の夜、香港国家安全維持法(国安法)容疑でその後逮捕されることになる同紙の陳沛敏副社長ら幹部のそばで、拍手をしている黒いTシャツ姿の男性がいた。「大雄」が愛称の男性カメラマン(53)。その彼と連絡が取れた。

香港が英国から中国に返還されて、7月1日で25年。高度な自治は「50年不変」とした中国共産党の約束は、折り返しを待たず破られました。人々はどう感じ、どう生きていくのでしょうか。現地から報告します。

 いま、タクシー運転手をしているという。この1年、どのような思いで過ごしてきたのだろう。6月中旬、大雄と待ち合わせをした。

 運転手の日勤と夜勤が交代する午後4時半の前に、大雄はやってきた。勤務は翌日の午前5時ごろまで。仕事前に、香港の大衆食堂「茶餐庁」で腹ごしらえをしながら、語り始めた。

大雄は、リンゴ日報が創刊した1995年から26年間、ずっと同紙でカメラマンとして働いてきた。「事件、事故、政治、経済取材、何でもやった」。毎年、香港で開かれてきた天安門事件の犠牲者を追悼する集会の取材もした。

 しかし、2020年6月末に施行された国安法がすべてを変えた。

 香港警察が、100人を超す捜査員を率いて蘋果日報の編集局に家宅捜索に入ったのが翌年6月だ。その日、大雄は非番だったが、自宅のテレビで警官がメディアの中枢に押し入るシーンを見て、言葉を失った。

 「警察が取材の資料やパソコンを押収するなんて。これでは取材源の秘匿などできない」

 デスクに電話し、自分もすぐに会社にあがると伝えた。会社に駆けつけたが、編集局は警察に封鎖され、中の様子を撮影することはできなかった。

 そんな悔しさを経験したあとだったので、過去最高の100万部を刷った最後の紙面の編集作業が終わったあの夜は、「最後まで自分たちで作りあげた」という高揚感があった。

 しかし、翌日以降は、現実が待っていた。

 仕事が見つからない。「誰も蘋果日報出身者を雇いたがらない。それ自体が、リスクと思われている」(同紙の元編集幹部)のが現状だった。

 つてを通じて別のメディアに転職できた同僚もいた。しかし、伝えたい内容を書かせてもらえず、仕事が楽しくないとぼやいていた。

 国安法のもと、どの社も政治的な内容は避け、記者が自己検閲しているのが現状だった。「メディア界で働くのはもうやめよう」。それが、大雄の結論だった。

 リンゴ日報に入社する前、香港の英字紙で数年、取材車の運転をしていたことがあった。自動車は大好きだし、自由に働ける。タクシー運転手に決めたのは、そんな理由からだった。

 2カ月ほど自宅にこもり、タクシー運転手の免許取得の勉強をした。約2千ある香港の通りの名前、地図、法律、顧客サービスについて学んだ。そして昨年10月から、香港でおなじみの赤いタクシーのハンドルを握っている。

 まだ「新米」なので、月収は2万香港ドル(約34万円)あまり。蘋果日報時代に比べると、半分近くに減った。それでも、自分のペースで働けるのがいい。同居している恋人と共働きなので、生活上も問題はない。少なくとも3人の元蘋果日報の同僚はいま、タクシー運転手として働いているという。


 メディアとは全く別の仕事に就いた記者たちは多い。元編集幹部によると、主要ニュース部門のデスクだった男性は、マッサージ師になった。

 この男性は、知人から紹介を受けて4月から別の大手紙で働くことになっていた。しかし、出社日の2日前に突然、内定が取り消された。理由はわからない。

 その後、テレビ局も紹介されて面接を受けたが、返事すらない。失業したままでは厳しいので、手に職をつけようと考えたという。失業者が新しい技術を学ぶ場合に6千香港ドル(約10万円)の補助金が政府から支給されるので、応募し、働きながら学んでいる。

 このほかにも、マクドナルドの店員、左官職人、保険会社の外交員、不動産仲介業者の部屋案内係・・・・。元デスクや記者たちが働く業種は幅広い。すでに移民した人も少なくないという。

 この元編集幹部はいう。「生活のため、または経験を積むために、仲間たちはいろんな世界に散らばっている」


 香港における報道の自由は、「一国二制度」の象徴だった。

 1997年の香港返還後も、中国政府に対して自由にものを言い、中国本土ではタブーの天安門事件について責任を追及する論調を掲載しても、問題にならなかった。

 しかし、こうした民主派の声はいま、香港メディアからほぼ消えた。

 リンゴ日報の次に、標的になったのは民主派寄りのネットメディアだった。

 独立系の立場新聞(スタンド・ニュース)の編集室が警察の捜索を受け、幹部ら7人が扇動的な言論を企てた疑いで逮捕されたのが昨年12月末だ。「民主、自由、人権、法治の追求」を編集方針に掲げてきたが、ニュース配信も即日停止された。

 その6日後には、別のメディア「衆新聞(シチズン・ニュース)」も配信を停止。「(報道の自由を守るという)私たちの理念を達成することができなくなった」ことが理由だった。


 ジャーナリストの権利を守ってきた「香港記者協会」もいま、存亡の危機に陥っている。

 「反中で香港を混乱させる組織」――。中国共産党宣伝部とも関係の深い香港の親中派紙からこうしたレッテルを貼られ、圧力を受け始めたのが昨年夏の終わりごろ。

 香港の治安機関トップが親中紙のインタビューに登場し、記者協会が外国勢力とかかわりがあると示唆。記者協会が例年公表する「言論自由年報」で、報道の自由が壊されていると記載したことが、「香港政府の顔に泥を塗り、国安法のもとで恐怖が広がるとのデマを流した」と親中紙・大公報などに断じられた。

 これは、民主派団体を解散に追い込む共通のパターンだった。

 民主派の支持基盤だった教職員組合や労組連合なども同様に親中紙から圧力を受け、国安法違反での摘発を恐れて自主解散を決めた。

 記者協会の陳朗昇主席(41)はいう。「次の主席のなり手がいない。こうして外国メディアの取材を受けること自体、危険を伴う。誰もやりたがらない」

 6月下旬に再任された陳主席は9月に英国へ留学する予定で、その後は主席が空席となる可能性がある。

 当局の圧力は、外国メディアも無縁ではない。

  香港外国特派員協会(FCC)のキース・リッチバーグ会長は6月上旬、毎年恒例だった「人権プレス賞」を中止した理由を、youtube上のインタビューで「私は、監獄送りにはなりたくなかった」と語った。

 FCCは国安法の圧力で閉鎖に追い込まれた「立場新聞」に賞を授与する予定だった。しかし、国安法のもとでのリスクを考えたという。

 リッチバーグ氏は、米ワシントン・ポスト紙の元北京支局長で、現在は香港大の教授。同氏は、授賞を続ければ「すでに閉鎖されたメディアの犯罪行為を支持しているようにみられる」とも語った。当局の弾圧のもとでの逮捕を追認するような言い方に、メディア界からの批判もある。

 しかし、賞を中止するかどうかのFCC理事会の採決では、16人のうち15人が中止に賛成票を投じた。FCCが警察の捜索を受け、リンゴ日報のように資金を凍結されて存続できなくなるリスクを考える人が多かったという。

 リッチバーグ氏は、立場新聞の摘発を批判する声明を出した後に中国政府の出先機関から接触を受けたことも明らかにしている。国安法の圧力は、FCCの内部にまで深く浸透している。

 国際NGO「国境なき記者団」が5月に発表した22年の報道の自由度ランキングが、香港返還以降のメディア界の推移をよく表している。

 返還から5年後の02年は、日本(28位)よりも高い18位だった。ところが22年は、前年の80位から一気に148位まで転落。ついに、はるか後ろにいた中国(180カ国中175位)の足音まで聞こえてきた。


 こうした中でも、新しいメディアを立ち上げる動きも出ている。

 ネットメディアやユーチューブチャンネル、タブロイド判の新聞など、少なくとも10の媒体が昨年以降、立ち上がった。いずれも、蘋果日報の元記者たちが中心となっている。

 ネットメディア「チャンネルC」もその一つだ。記者ら16人のうち、大半がリンゴ日報出身者だという。チャンネルCのフェイスブックは10万人以上がフォローし、youtubeの登録者数は27万人を超えた。

 チャンネルCの取材副主任も務める記者協会の陳主席はいう。「新しいメディアは、どこも政治の敏感なテーマは扱わない。いまはまだ、あまりに危険すぎる」

 チャンネルCも、水上海鮮酒樓「珍寶王国」が南シナ海で転覆したことの続報や、新型コロナの話題など、市民の関心の話題を中心に扱っている。

 ただ、「政府批判などはしなくても、市民の生活を良くする報道の仕方はあると信じる」という。市民の投書などをもとに、夜間にネズミが食物を求めて走り回る飲食店の実態を取材し、衛生環境の改善を促すといった、「独自の生活報道」も手がけている。

 陳氏はいう。「中国本土でも、人権問題などを取り上げようとする記者たちがいる。香港はまだ中国本土よりもましだと思って、頑張っていかなければならない」

今朝の東京新聞から

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今朝の東京新聞から。

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「香港との別れ」(朝日・有料記事より)

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  夜の香港国際空港。ロンドン行きフライトの出発時間が近づく午後10時ごろになると、1年あまり前から毎日、見られるようになった光景がある。
 すすり泣き、抱きしめ合い、出発ゲートの奥に姿が見えなくなるまで手を振り続ける姿――。
 どこの空港でもみられる、普通の別れではない。生まれ育った香港に失望し、断腸の思いで移民する人たちだ。

香港が英国から中国に返還されて、7月1日で25年。高度な自治は「50年不変」とした中国共産党の約束は、折り返しを待たず破られました。人々はどう感じ、どう生きていくのでしょうか。現地から報告します。

 「香港はあまりに変わってしまった」。6月中旬、香港人の新婚夫婦(いずれも31歳)も、両親や友人ら約20人との別れを惜しみながら、出発ゲートへ向かった。

 「将来に子供を産んで、育てる場所として、香港はふさわしくない。中国の立場ばかりを教え、自由に意見も言うことができなくなった中国式の教育は受け入れられない」

 2020年6月に反中国的な言動を取り締まる香港国家安全維持法(国安法)ができた。それでも、すぐに移民を決めたわけではなかった。

 旧宗主国の英国政府が、香港からの移民を受け入れる特別ビザの発給を始めたのが21年1月末。ジョンソン英首相が、国安法は「(香港の高度な自治を保障した)中英共同声明の深刻な違反だ」として、香港人を受け入れると表明した。

 19年の大規模デモに参加した人をはじめ、最初の1年間ですでに10万人がこの特別ビザで英国に渡っていた。

 この夫婦は、香港にとどまりながら、様子をみた。

 この間、大勢の民主派の議員らが国安法違反容疑で逮捕され、民主派寄りのメディアも廃刊に追い込まれ、社会が根本から変わりゆくのを肌で感じてきた。

 「真剣に考えました。簡単な決断ではないですから」

 それでもやはり、子供の将来を一番に考え、香港を離れる決断をした。夫は安定した建設業界の技術者の仕事を辞めた。英国での仕事は、まだ決まってない。

自慢だった「自由」がなくなった
 香港では、英国から中国に返還された1997年までの10年間に、約50万人がカナダなどに出国した。それに続き、第2の移民の大波が押し寄せている。

 英国政府によれば、3月末までの14カ月間で11万3742人が英国に移民できる特別ビザをすでに取得した。

 2019年の反政府デモに加わり、身の危険を感じた人たちは、すでに国外へ脱出した。そしていま、デモとは一定の距離を保ってきた「穏健な中間層」の移民が増えている。

 ホテル業界で約30年間働いてきたアレン(仮名、49)も、その一人。民主派を支持していたが、積極的にデモに参加するほどではなかった。

 彼女は、19年の大規模デモの際、勤務していた長期滞在型のサービスアパートの前が「戦場のようになった」ことをいまも鮮明に覚えている。

 香港名物の2階建て路面電車が走る大通りは、警察がデモ参加者に向けて放った催涙弾の白い煙が立ちこめていた。

 アレンが働くアパートのガラスの扉は閉じていたが、それでも隙間から煙がロビーに入ってきて、「同僚はゲホゲホとせきをし、呼吸困難になっていた」という。

 警察が力でねじ伏せる取り締まりの手法に、反感をもっていた。

 その一方で、別の感情もあった。

 同年10月のある夜、職場のすぐ近くで、日本の食品や飲料を扱う雑貨チェーン店に火が放たれた。

 当時の動画によると、黒い服を着てデモ行進をしていた若者らの一部が店のシャッターを蹴飛ばしている。ドンドンドンという鈍い音がしばらく響いたあと、シャッターの下部がこじ開けられた。

 そして、油のようなものがまかれ、火が放たれた。若者らからは、「オー」という歓声があがり、拍手をする人たちもいた。

 このチェーン店は、福建省の中国政府寄りのギャングと関係があるとのうわさが流れたため、デモ参加者の標的になっていた。約100店舗のうち、70店舗余りが破壊行為の対象になったとされる。

 アレンの気持ちは複雑だった。若者らが暴力的な警察に強い反感を持つのはわかる。いくら抗議しても、全く聞き入れない政府に失望し、抗議のレベルを上げたい気持ちもわからないわけではない。

 それでも、宿泊客が大勢いるアパートに燃え移ったらどうするのか、という反感の方が強かった。「こうした一部の人たちのやり方には同意できない」

 デモからも距離を置いていたので、国安法施行後もすぐに移民は考えなかった。にもかかわらず、思いが変わっていったのは、日を追うにつれ民主派への弾圧が強まったからだった。

 民主派の基盤だった教職員組合や労働組合が解散に追い込まれ、多くの民主派議員らが逮捕されたが、「理不尽な理由」に思えた。

 そして、今年の春。民主派の弾圧を指揮した元治安機関トップの李家超(ジョン・リー)氏が次の香港政府トップ、行政長官になることも後押しした。中国政府が、愛国者しか立候補できない選挙制度に変えた選挙で、民主派不在のなか選ばれた。

 こうした香港を見るにつけ、「中国政府は、自分のやりたいように政策をねじ曲げられる」との思いが強くなった。

 25年前は、「中国に返還されてもまだ香港は安定していたので、移民は考えなかった」。しかし、今は違う。政治や社会システムが根本から変わってしまい、自慢だった「自由」のないこの街が好きになれなくなった。

 「香港はもう、かつての香港ではなくなった」

 今月、80代の母親と一緒に英国へ移民する許可が下りた。この夏、香港を離れる。

翻弄されてきた歴史 移民は「保険」
 移民するのは、民主派支持層ばかりではない。

 香港の親中派大手紙の元編集幹部のところに、先日、同じ職場で働いていた同僚から「移民することになったよ」と喜んだ様子で連絡があった。

 妻が大学院で勉強するという理由でカナダからビザが発給され、本人と妻、娘の3人で移り住むという。

 カナダ政府も昨年、香港人の基本的人権を守るため、移民の受け入れを拡大した。留学ビザ取得者の家族にも滞在ビザや労働ビザを出すようになり、すでに1月末までの1年間で約8500件を発給。香港人を、難民としても受け入れている。

 この元幹部はいう。「民主派も親中派も関係ない。移民できるときに出国しようと多くの人が香港を離れている」

 かつて一緒に親中派紙で働いた同僚7人とその家族が、国安法施行後、英国やカナダ、シンガポールへ移民したという。

 欧米各国は政治的に香港人の受け入れを進めているが、「いつ政策が変わるかわからないので、なるべく早く移民したい」(日系企業勤務の42歳男性)という人も少なくない。

 移民先で市民権を取得すれば、仮にその後に香港に戻ってきても「外国人」として保護が受けられ、いつでも「脱出」できる。中国の政治に翻弄されてきた香港人は、移民を「保険」としてとらえる傾向が強い。

「英国では二等市民」冷めた声も
 英国は香港が中国に返還された1997年より前に生まれた香港人に対し、英国に半年間滞在できる「英国海外市民(BNO)旅券」を発給してきた。昨年1月から始まった特別ビザは、BNO旅券の資格を持つ人と扶養家族らに5年間の居住を認め、さらに1年滞在すれば市民権も申請できる道を開いた。

 香港の人口の約7割にあたる540万人に特別ビザの申請資格があるとされ、19年以降、すでに約54万人にBNO旅券が発行された。

 英国移民コンサルティング会社「英倫移民」のジャニーン・ミウ代表はいう。「以前はビザの条件に満たなかった人にも発給されるようになり、かつてなく敷居が下がっている」

 ただ、移民は、誰もが選べるわけではない。

 英国で新しい生活を立ち上げるだけでも、少なくとも数百万円の資金が必要だ。生きていくため、仕事も見つけなければならない。

 ロシアによるウクライナ侵攻で、英国では電気代が2倍以上に跳ね上がるなど、ただでさえ高額な物価も急激に上がっている。

 民主派支持だった事務職の40代女性はいう。「私も移民したい。でもお金がないし、英語も苦手。学歴も特別な技術もない。私みたいな人には現実的には難しい」

 6月11日から開かれた国際移民博覧会の主催者によると、移民を予定する家庭の平均月収は、15万香港ドル(約257万円)以上が30%と最も多く、この層も含め5万香港ドル(約85万円)以上が全体の56%を占める。中間層から富裕層に偏っているのが現状だ。

 移民コンサルティング会社を経営する胡康邦氏は、「移民すれば、あらゆる問題が解決できるというわけではない」と厳しい見方もする。

 新しい土地でチャンスをつかめるかは、本人次第。香港に残るとき、政治や社会制度など「自分の力で変えることができない場合は、受け入れるしかないのも現実だ」。

 6月中旬、香港空港でロンドン行きの飛行機に乗るカップルを見送る人たちの中に、少し冷めた目で見ている男性がいた。

 英国統治時代に警察官として働き、元航空会社勤務の許志明さん(59)は「移民する彼らの決断は尊重する。だが、英国では二等市民の扱いを受けるだろう」と苦々しく言った。

 外に出てはじめて香港の良さがわかり、97年より前に移民した人が戻ってきたように、彼らは何年かしたら帰ってくるだろう、ともいう。

 「出るのも自由、戻るのも自由。それが香港。私たちは、そういう歴史を繰り返してきた」
(香港=奥寺淳)

「香港、返還25年の現実」(朝日・有料記事より)

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 7月1日、香港は英国から中国に返還されて25周年を迎える。「一国二制度」のもと高度な自治が約束された50年の折り返し点だ。しかし現実は中国共産党による統制と弾圧で自由が失われている。現地にいる2人の識者に、これまでの25年と次の25年について聞いた。(聞き手・奥寺淳=香港)

予想もしなかった、口つぐむ今 蔡子強(香港中文大学上級講師)

 ――25年前、今の香港を想像していましたか。

 「予想だにしていませんでした。1997年の香港返還後、社会情勢が悪化すると予想した人がいましたが、実際はそうならなかった。だからその後、民主派の危機感は大きくなかった。まさか香港がこんな状態になるとは誰も思っていなかったと思います」

 ――なぜこうなったのでしょうか。

 「三つの理由があると思っています。最も重要なのは国際環境の変化です。97年当時は米中関係が比較的良好でした。米国にとって中国はまだ脅威ではなかった。しかし中国の経済力、国力が強大になるにつれて、両国が覇権を争うようになりました」

 ――米中関係が原因ですか。

 「そうです。特にトランプ政権が中国に経済制裁を行い、状況が悪化しました。背景には、欧米の中国に対する見方が明確に変わったことがあります。中国は経済発展によって自由で民主的になるどころか、専制的な国家になった。それまで数十年間の対中政策は誤りだった。そうみるようになった。こうして緊張が高まった結果、中国も国家安全を何より重要視するようになり、その影響を香港も受けたのです」


 ――二つ目の理由は。

 「中国の指導者の変化です。江沢民、胡錦濤政権は香港に対してやや融和的でした。習近平国家主席は2人より強硬です。中国本土ではメディアが厳しく統制されるようになりました。以前は私が書いたコラムが中国メディアに転載されましたが、今は見られません。その厳しい統治手法が香港にも適用されるようになりました」

 ――そしてもう一つは。

 「香港側の要因です。2003年の国家安全条例反対運動、14年の雨傘運動など多くのことが起きましたが、ときに激しい事態になっても度は越していなかった。しかし19年の逃亡犯条例改正案に反対するデモは、一部の参加者が火炎瓶を投げるなどの暴力的手段を使った。これで中国政府の香港への見方が変わり、政治の形も変わりました。親中派は『身から出たさびだ』と言い、原因は民主派の一部にあると非難しています。ただ、全ての責任を民主派に押しつけることはできません」

 ――20年6月末に香港国家安全維持法が施行されました。

 「香港での審議を経ないで中国が国安法を制定しました。こんなことは考えてもみませんでした。教職員組合や労働組合など、30~50年も活動してきた民間組織が解散に追い込まれてしまいました」
 「選挙制度について書いた私の本は中学校の図書館から撤去されました。政府を批判する内容ではなく、出版時に政府高官が推薦文を書いてくれました。誰もが極度に用心深くなり、多くの人が文章を書いたり評論を発表したりしなくなり、口をつぐんでいます。私たちの生活は以前とは全く違うのです」


 ――25年後、2047年の香港を見通せますか。

 「政治的に敏感なことはもう話せません。私たちの置かれている状況を理解してほしい。言えるのは、今後25年は一国二制度の『一国』がますます強くなり、『二制度』の余地が狭まるのを心配しているということまでです。2019年までは問題なくできた天安門事件の追悼集会が、急に許されなくなりました。中国の政権を転覆したり、国を攻撃したりするものではないのにです」

 ――香港を離れる人が後を絶ちません。

 「それぞれが選択することです。私の友人も台湾、英国、カナダなどに移住しました。最終的には移民は数十万人になるかもしれません。一方、前向きに考えて香港に残る人もいる。私はその決定を尊重します。移住しない人は愚かだと言わんばかりの人もいますが、無責任です。台湾は理想の場所だと言われて移住したものの、市民権が得られず失望した、といった例も少なくありません。混乱した状況で、何が正しいかを言うのは難しいのです」

 ――蔡さん自身は今後どうするのですか。

 「年明けをめどに定年を切り上げて退職するつもりです。私は選挙制度を専門に研究してきましたが、全く異なる制度に変更されました。(『愛国者』しか立候補できない)新制度は私が知っている選挙とは異なるもので、評論したくありません。私の研究は終わりました」

 チョイ・ジキョン 1965年生まれ。香港城市大講師を経て2004年から現職。香港の選挙制度や政党などの研究が専門。時事評論家として政府への厳しい意見も表明してきた。

民主派は政治参加への道探れ 張炳良(元香港政府運輸住宅局長)

 ――この25年で香港は大きく変わりました。

 「一つの国や社会が全く変わらないことはあり得ません。まず、中国が一国二制度を提唱した1980年代初めを振り返りましょう。英国統治のもと、香港は繁栄し、社会は安定していました。中国への返還で合意するにあたっても、香港の社会制度や公務員のシステムなどを残す方が中国に利益がありました。国際関係を維持し、改革開放を進めるためです」

 ――香港には高度な自治が認められました。

 「そうです。その後、状況は変わりました。香港では『香港人による香港統治』の考えが強まり、政府への要求を社会全体で行うようになります。英国統治時代になかったことです。香港独立を主張する勢力まで出てきた。北京は思ってもみなかったはずです」


 ――中国の考えはどうだったのでしょうか。

 「そもそも鄧小平は『西側諸国の民主は採り入れない』と公言し、三権分立も採用しない立場でした。中国は一国二制度を採用し、香港基本法では行政長官の普通選挙を目標とすることも明記しましたが、前提には、英米式の民主制を拒む考え方があったのです」

 ――中国の影響力は年々強まります。

 「香港が自ら制定すると基本法が約束していた国家安全条例への反対運動が2003年に起き、民主派の反対で条例は廃案になりました。それを機に『香港人は愛国的でない』という見方が中国政府で強まりました。香港に愛国教育を導入する議論が始まったのもこのころです」

 ――20年の香港国家安全維持法で、自由と民主が大きく損なわれました。

 「19年までは香港の自由は保たれていたと言えるでしょう。異なる意見を受け入れる社会で、司法制度も定評がありました。完全な民主選挙はありませんが、効率的で透明性のある行政制度がありました」

 ――その後は全く異なると。

 「19年に起きたことはゲームチェンジャーでした。逃亡犯条例改正案などに反対する抗議活動が起きたことが、北京には、香港内部の問題ではないと映りました。旧ソ連諸国や中東で広がったカラー革命が香港でも起きたとして、中国政府は『暴力革命』と呼びました。米国が香港を使って中国を攻撃しているとみたのです。運動が過激化したことに米中対立が加わったのは不幸でした」

 ――デモが暴力的になったのは、警察が暴力的に取り締まったためでもあります。

 「香港政府は危機管理などで対応を誤りました。政治の問題なのに真っ先に警察を前面に出して処理しようとした。しかし北京は、誰が対応を誤ったかよりも、香港は大混乱状態にあると判断し、国家安全の問題としました」

 ――当時の民主派内は、どんな状態だったのでしょう。

 「分裂していました。穏健な民主派は19年のデモの主流ではありませんでした。若者らの一部が立法会などを破壊したのに対し、穏健な民主派は事態収拾を仲介する能力を失っていた。民主派にも責任があります」

 ――これからの25年、香港はどうなるのでしょう。

 「一国二制度は50年間では終わりません。鄧小平は50年間不変と言い、この制度が良かったらなぜ変えなければいけないか、とも述べました」

 ――その方が中国に利益があるからですか。

 「返還前の1993年の香港の経済規模は中国の27%でしたが、今は2%。それでも、いくら上海や深センが発展しても、金融センターとしての香港に取って代われない。経済制度が異なるからです。中国は、本土の制度を変えずに、香港を欧米との窓口として利用できる。ただ、国安法によって司法制度が影響を受ける可能性はあり、判例を見極める必要があります」

 ――民主派はどうすればいいのでしょうか。

 「民主派のない香港はあってはなりません。政治にかかわらなければならない。親中派は香港社会の半分しか代弁していません。ただ現実に国安法があり、『愛国者』しか立候補できない選挙制度に変わってしまいました。それでも民主党が存在し続け、香港のために働くのなら、『愛国』を受け入れつつ選挙に参加する方法を見つけなければならない。英国統治時代に区議会選への参加から始めたように。一から出直しです」


 チュン・ベンリョン 1952年生まれ。元民主党副主席。97年まで英国統治下の立法局(現立法会)議員。2004年に民主党を離脱。12年に運輸住宅局長。現在は香港教育大学教授。

「アベノマスク、業者の言い値で決めた? 厚労省の担当者が語った事情」(朝日・有料記事より)

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 政府が新型コロナウイルス対策で全国に配った布マスク(通称・アベノマスク)の単価や発注枚数の情報について、国が文書を「黒塗り」にしたことの是非が争われている訴訟の弁論が28日、大阪地裁であった。情報公開請求があった2020年当時、マスクの調達を担うマスクチームの責任者だった厚生労働省の課長が、証人として出廷した。
 文部科学省から開示された文書の中には黒塗りされていない箇所もあり、「厚労省内に設置されているマスクチームから、単価が143円(税込み)になる連絡があり」との記載があった。国はマスクの購入契約を総額49億5千万円(20年3月)から、総額21億4500万円(同年4月)に結び直している。購入枚数がどちらも同じならば、単価は下がった計算になる。

 原告側の代理人は、証人尋問で「値段を下げさせたのか?」と質問すると、厚労省の課長は「はっきりと記憶にないが、おそらくそういった経緯ではないか」と述べた。

 原告側はさらに「業者の言い値で決めていたのか?」と追及すると、課長は「そういう厳しい契約にならざるを得ない時期があった」と認めた一方、単価などの情報を不開示とした理由については「再び緊急事態となったときに国の調達に支障を生じうる」と説明した。

 5月の弁論でも、開示請求に対応した当時の文科省の課長補佐が「価格が明らかになると、より低価格での調達が難しくなる」と説明していた。

 原告側代理人の谷真介弁護士は弁論後、取材に対し「緊急事態で購入したからこそ、マスクの単価や枚数を明らかにして検証すべきだ」と述べ、文書を開示すべきだと訴えた。

 訴訟は、次回の9月30日で結審する予定。

「投票しないと罰金のベルギー、政治参加”9割”」(朝日・有料記事より)

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 このところ毎回、投票率の低さが問題となる日本の国政選挙。かたや海外では、投票が義務化されて怠ると罰金を支払わなければならない国々もあります。義務投票制を導入して130年近い歴史を持つベルギーでは、投票率は約9割にのぼります。「投票の義務」は、現地ではどのように進められ、どう受け止められているのでしょう。同国出身の法社会学者で、日本研究も手がけるディミトリ・ヴァンオーヴェルベーク東京大学教授に聞きました。


 ――ベルギーでの投票の義務化は古い歴史があると聞きました。

 「ベルギーで『義務投票制』が生まれたのは1893年です。9割近い投票率が続いてきましたが、投票は市民の義務だという意識が定着しています。税金を払う感覚と近いですね。投票の義務を怠ると、初回では40~80ユーロ(約5600~約1万1200円)の罰金ですが、何度も怠るとさらに高額になります」
 「幼いころの思い出があります。選挙管理委員会の仕事を手伝うのも市民の義務なのですが、くじで決まります。私の母親も選ばれたのですが、選挙当日に10分遅刻しただけで、罰金が科せられたのです。これには驚きました」

 ――義務化にはどんなメリットがあるのですか。

 「それにお答えするためにはまず、義務化された経緯からお話ししましょう。私は、オランダ最古の都市マーストリヒトと国境で隣接する北東部のオランダ語圏の町で生まれ育ちましたが、ベルギーは、オランダ語を話す北側とフランス語を話す南側の大きく二つに分かれ、東側にはドイツ語圏の小さな地域があります」
 「もともとベルギーはオランダとともに連合王国を築いており、オランダがベルギーの独立を承認してから半世紀以上が過ぎたころ、投票が義務化されました。多言語国家ベルギーは当時、国内の安定が急務だった。政治家の汚職による政治不信や、社会主義の台頭による政治の急進化という課題にも取り組む必要がありました。そこで、市民の政治参加を促して政治の正統性を取り戻すとともに、市民を政治的に教育することが大切だと認識されるようになります。その手段が投票の義務化だったのです。投票義務化の大きな利点の一つは、市民の教育に役立つということだと言えるでしょう」

 ――学校教育にも義務制の影響はありますか。

 「ベルギーでは、中学生や高校生のころから、学校でクラスの仲間たちと政治の議論をするのは日常です。例えば授業では、移民の受け入れやコロナ対策などについて各政党の主張を調べ、自分の意見を言います。私は日本の高校にも1年間留学した経験があります。『今の政権を支持する?』と質問しても日本の友人から応答はなく、教師との会話も盛り上がりませんでした。義務投票制が政治教育を促していることがお分かりいただけると思います」

 ――オランダやオーストリア、イタリアなど、義務制を廃止した国もあります。ベルギーでは廃止の議論もあるのでしょうか。

 「国政選挙でも地方選挙でも投票は義務ですが、義務制には政治の急進化を防ぐ効果もあります。そもそもそれが、ベルギーでの制度導入の理由の一つでした。ところがいま、オランダ語圏の地方選挙で投票の義務制を廃止するという議論が始まっています。そこには、連立与党を作っている右派政党が、投票率を下げることで自らの選挙を有利に運ぼうとする政治的狙いがあるとみられ、批判も出ています」

 ――日本でも義務化は可能でしょうか。

 「私は裁判員制度の研究もしています。日本人が義務を引き受けて責任を果たしている姿をみると、投票の義務化は可能だと思います。だれもが投票に行くことは、社会的な少数者の意思を政治に反映させる効果もあります。政治家が政策を考える際、少数派の声を意識せざるを得なくなるからです。そんな『強い民主主義』をつくるために、日本でもやってみる価値はあると思います」

今朝の東京新聞から。

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「返還25年を振り返る」SCMP

サウスチャイナ・モーニング・ポストによる「香港回帰25年」。
未来を楽天的にみることなど無理とでも言いたげな不安そうなBGMがせめての編集者の意地か?

ロシアへの核移送に反対した元閣僚 これは民主主義と全体主義の戦い(朝日・有料記事より)

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  ウクライナは1990年代、旧ソ連から引き継いだ核兵器を廃棄し、持っていた核兵器をロシアに移送することで、非核兵器国となりました。もしこの時、核兵器を維持し続けていたら、その後の歴史は変わっていたでしょうか。今回、ロシアの侵攻を受けることもなかったでしょうか。
 当時、ウクライナで核兵器廃棄交渉を担当し、ロシアへの核兵器移送に強硬に反対したのが、環境保全相のユーリ・コステンコさん(71)です。ロシアへの強い不信感を抱くコステンコさんらは、ひそかに米国などと交渉し、核兵器の廃棄と引き換えに米欧から安全保障を確保しようと試みたのでした。
 実現しなかったこの試みは、ロシア軍の侵攻を受けた今、ウクライナに貴重な教訓を与えています。侵攻を「民主主義対全体主義の戦い」と位置づけ、「これに勝利することで、北方領土返還も実現する」と考えるコステンコさんに、首都キーウで話を聞きました。(キーウ=国末憲人)

 ――ウクライナの核兵器廃棄の経緯をうかがうために、前回インタビューをお願いしたのは、昨年3月でした。それから1年足らずのうちに、ロシアはウクライナに侵攻してしまいました。

 侵攻は予想通りでした。侵攻後、私は息子とともに領土防衛軍に入って戦いました。もしロシアが首都キーウを占領していたら、私は生きていられなかったでしょう。漏れ伝えられた情報によると、私の名前はロシアの処刑リストに掲載されていたそうです。しかも最初のページ(笑)。でも、ウクライナ軍が敗れるとは一度も考えませんでした。
 私は今、ウクライナの自立を目指す政治運動にかかわっていますが、メンバーの一部はソ連時代、拘束されて強制収容所に閉じ込められた経験を持つ人々です。そのような体験から、(ソ連の支配層の中心にいた)ロシア人が民主的な社会をいかに憎んでいるか、肌にしみて感じましていました。ロシア人の意識は、現代に至るまで変わりません。自由に振る舞いたいウクライナの意識を、ロシアのプーチン政権は認めようとしないのです。
 核兵器廃棄の交渉をしている頃から、ロシアはいつか、ウクライナの敵として立ち現れてくると、私は確信していました。ロシアはいつも、表では私たちと交渉し、「ロシアとウクライナ兄弟だ、別れてはならない」などと口にするのですが、本心ではウクライナの自立性を認めようとしないのです。

 ――ロシアは「プーチン大統領だから強権政治になった」と考える人が多いようですが。

 プーチン氏の問題ではありません。プーチン政権になってロシアが変わったわけではなく、ロシアは以前から同じです。ウクライナに対する態度は、ロシアの国家戦略となっています。
 ソ連が崩壊した時、分裂したロシアはそのうち民主社会となって発展すると、欧州各国はめでたくも信じていました。しかし、そうはなりませんでした。

 ――でも、ソ連が崩壊した時、ウクライナの独立にはロシアも賛成したと記憶しています。

 当時のエリツィン大統領が民主的な政治家を装ったからでした。ソ連の政治家のように振る舞うと、(欧米からの)人気を得られなくなると知っていたから。その証拠に、ウクライナが欧州連合(EU)に接近しようとした途端、エリツィン氏は態度を翻して、民主的に振る舞うのをやめました。
 ウクライナへのロシアの態度は、長い歴史を通じて変わりません。領土だけでなく、ウクライナの独立を奪い、その人材や経済を利用してきたのがロシアです。

 ――1991年に独立したウクライナは、ソ連時代に配備された何千発もの核兵器を引き継ぎ、ソ連崩壊時には米ロに続いて世界で3番目に多い数の核兵器を国内に置く国となりました。結果的にそれはすべて、96年までにロシアに移送されたのですが、当時交渉を担当する環境保全相だったあなたは、ロシア移送に強硬に反対したことで知られています。

 私は、核兵器廃棄の作業をウクライナ国内で進めるのが最も適切だと考えていました。実際、ウクライナ議会も核兵器のロシア移送に反対したのです。
 ウクライナ議会の構想だと、最初の7年間で弾頭42%、運搬装置36%を国内で廃棄し、次の7年間は米国との合意の下で完全廃棄に達する手はずでした。廃棄過程で取り出した核燃料は、ウクライナの原発で利用する。最終目標は、核兵器を廃棄したうえで北大西洋条約機構(NATO)への加盟です。NATOだけが我が国の安全を保障できると考えました。

 ――主要各国が当時、核兵器をウクライナから移送するよう求めたのは、核拡散を懸念してのことだったと記憶しています。核兵器の管理がおろそかになり、核兵器開発をもくろむ国やテロ組織の手に渡るのではないか、との心配からです。

 そのような懸念は確かにありました。ウクライナ議会はこれを払拭(ふっしょく)するために、国際レベルの核兵器管理制度を確立するよう提案しました。

 ――なのに、どうしてその構想が進まなかったのでしょうか。

 ウクライナ議会に多数いた親ロ派勢力が巻き返したからです。当時のクラフチュク初代大統領やウクライナ外務省も、ロシア移送を支持しました。
 ウクライナ議会の構想に米国は賛成しましたが、ロシアは強硬に反対しました。ロシアの頑強な圧力を受けて、ウクライナは結局、核兵器を手渡すことになったのです。

 ――ただ、ロシアへの移送には米国も最終的に賛成しましたね。

 その通りです。米国は当時、ロシアと友好的な関係を築こうとしていました。当時、ロシアのエリツィン大統領は民主的な改革派と見なされたのに対し、ウクライナのクラフチュク大統領はむしろ古い共産党メンタリティーの政治家だと思われていたからかもしれません。
 ロシアの真の姿を見抜けなかったのは、米国の失策でした。米国も欧州各国も、今回ウクライナに侵攻するまで、ロシアは民主国家に生まれ変われると信じ、ロシアがジョージアと戦争しようが、クリミア半島を占領しようが、見て見ぬふりをしてきたのでした。

 ――もし核兵器がロシアに移送されず、ウクライナにとどまったとしても、安全保障の支えとなったでしょうか。核ミサイルはそこにあっても、それを使用する権限や発射ボタンはロシアが握っていたわけですから、役立たずの兵器ではなかったでしょうか。

 確かにそうです。核兵器はあっても使うことはできませんでした。ただ、使う方法が全くなかったわけではない。ソ連の核兵器を開発したのは、ウクライナのハルキウにある研究所でした。発射システムを構築しようと思えば、ここでできたのです。
 もちろん、ウクライナが核兵器を使う可能性は皆無です。広島、長崎の悲劇は大きな教訓として受け止められていました。世界中どこにも、核兵器使用の責任を担える国はありません。私たちが追い求めたのはあくまで、核兵器を廃棄した後のウクライナの安全保障でした。どこがウクライナを守ってくれるか。これを探すのに一生懸命だったのです。

 ――その結果、国際社会が出した結論は「ブダペスト覚書」でした。ウクライナなど旧ソ連3カ国の核兵器廃棄を受けて、米英ロなどが3カ国の領土保全を約束したのですが、ロシアによる2014年のクリミア半島占領や東部ドンバスへの介入、さらに今回の軍事侵攻によって破られました。

 この覚書は、条約ではなく、政治宣言に近いものです。内容は適当だし、破っても何の責任も負わされない。ロシアはこれを、単なる紙切れと考えて署名しました。紙切れと分かっていて受け入れたウクライナ政府も悪い。これでは安全保障にならないと、私たちは反対したのですが。
ロシアは高をくくっていたのです。「米国は、戦争をしてまでウクライナを守るつもりはない」と。

 ――今回、米国はウクライナをどこまで守るでしょうか。

 今回のロシア軍侵攻は、ウクライナだけの問題ではありません。欧州の命運にかかわる問題です。ウクライナの領土を巡る戦いであると同時に、民主主義対全体主義の戦いでもあるからです。
 この戦争でウクライナが負けることは、民主主義陣営の敗北を意味します。プーチン大統領は次に、欧州各国に手を出すでしょう。中国は台湾に侵攻するかも知れないし、北朝鮮は韓国を攻撃するかも知れない。行き着く末は第3次世界大戦です。だから、米国はかかわらざるを得ない。私たちを支援するためでなく、自分たちを守るためです。自分たちのために、ウクライナの手を使って戦うのです。
 今は、ウクライナが戦うことでNATOを守っているのが現実です。NATOはかつて、ロシアと良好な関係を保ってきましたが、真のパートナーはウクライナであると気づいたでしょう。

 ――ウクライナでの戦争が長引き、犠牲者が増えるに連れて、「今すぐ停戦すべきだ」との主張が出てきています。

 大反対です。クリミア半島を占領されて戦わなかったら、何が起きたか。もっと大規模な戦争でした。今回占領された領土を諦めると、1年か2年してロシアはまた攻撃を起こし、さらなる領土を取ろうとします。ウクライナだけでは収まらない。その次はバルト3国、ポーランドと広げ、大西洋に達するまで続けるに違いありません。他国の領土を奪ってきたのが、ロシアの歴史です。

 ――では、ウクライナはそのロシアと今後どういう関係になるのでしょうか。

 戦争に敗れたロシアは、かつてソ連が崩壊したように、内部崩壊を起こすでしょう。カフカスの各共和国やタタールスタン共和国などが分離した後のロシアは、これまでの野蛮な手法をやめるに違いありません。その時、ロシアに奪われたウクライナの領土も、ロシアが事実上占領しているジョージアの領土も、もとにもどるでしょう。日本の北方領土もその時返還されます。
 これは、遠い未来の予想ではありません。ロシアの経済状態を分析する限り、ロシアはもはや戦争を続けられない。兵器の部品も欧州に頼れなくなる。経済制裁の負担もかさむ。経済危機はいずれ、政治危機に結びつきます。崩壊はずっと早く到来すると思います。
 この戦争でのウクライナの勝利は、民主世界全体の勝利であり、ロシアを隣国として抱える日本にとっての勝利でもあります。日本人に訴えたいのは、ロシアと交渉しても、決して平和は訪れないこと。残念ながら、これを理解しない政治家が、EUにも日本にもいます。ロシアは決して、ウクライナにとってだけの脅威ではない。日本にとっての、世界にとっての脅威なのです。

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