

1年前。香港の新聞社が、中国と香港政府の弾圧にあってその歴史に幕を閉じた。
中国共産党に批判的な論調だった「蘋果日報」。報道した内容が、国の安全に危害を与えたなどとされ、会社の資金を凍結され、廃刊に追い込まれた。
「香港人と雨のなかのつらいわかれ 『我々は蘋果日報を支持している』」
昨年6月23日深夜、こんな1面見出しの最後の新聞をつくり終えた記者や編集者たち100人余りが、編集局で「オー」と歓声を上げていた。取材のため、私もその場にいた。
彼らはいま、何をしているのだろう。ずっと気になっていた。
あの日の夜、香港国家安全維持法(国安法)容疑でその後逮捕されることになる同紙の陳沛敏副社長ら幹部のそばで、拍手をしている黒いTシャツ姿の男性がいた。「大雄」が愛称の男性カメラマン(53)。その彼と連絡が取れた。
香港が英国から中国に返還されて、7月1日で25年。高度な自治は「50年不変」とした中国共産党の約束は、折り返しを待たず破られました。人々はどう感じ、どう生きていくのでしょうか。現地から報告します。
いま、タクシー運転手をしているという。この1年、どのような思いで過ごしてきたのだろう。6月中旬、大雄と待ち合わせをした。
運転手の日勤と夜勤が交代する午後4時半の前に、大雄はやってきた。勤務は翌日の午前5時ごろまで。仕事前に、香港の大衆食堂「茶餐庁」で腹ごしらえをしながら、語り始めた。
大雄は、リンゴ日報が創刊した1995年から26年間、ずっと同紙でカメラマンとして働いてきた。「事件、事故、政治、経済取材、何でもやった」。毎年、香港で開かれてきた天安門事件の犠牲者を追悼する集会の取材もした。
しかし、2020年6月末に施行された国安法がすべてを変えた。
香港警察が、100人を超す捜査員を率いて蘋果日報の編集局に家宅捜索に入ったのが翌年6月だ。その日、大雄は非番だったが、自宅のテレビで警官がメディアの中枢に押し入るシーンを見て、言葉を失った。
「警察が取材の資料やパソコンを押収するなんて。これでは取材源の秘匿などできない」
デスクに電話し、自分もすぐに会社にあがると伝えた。会社に駆けつけたが、編集局は警察に封鎖され、中の様子を撮影することはできなかった。
そんな悔しさを経験したあとだったので、過去最高の100万部を刷った最後の紙面の編集作業が終わったあの夜は、「最後まで自分たちで作りあげた」という高揚感があった。
しかし、翌日以降は、現実が待っていた。
仕事が見つからない。「誰も蘋果日報出身者を雇いたがらない。それ自体が、リスクと思われている」(同紙の元編集幹部)のが現状だった。
つてを通じて別のメディアに転職できた同僚もいた。しかし、伝えたい内容を書かせてもらえず、仕事が楽しくないとぼやいていた。
国安法のもと、どの社も政治的な内容は避け、記者が自己検閲しているのが現状だった。「メディア界で働くのはもうやめよう」。それが、大雄の結論だった。
リンゴ日報に入社する前、香港の英字紙で数年、取材車の運転をしていたことがあった。自動車は大好きだし、自由に働ける。タクシー運転手に決めたのは、そんな理由からだった。
2カ月ほど自宅にこもり、タクシー運転手の免許取得の勉強をした。約2千ある香港の通りの名前、地図、法律、顧客サービスについて学んだ。そして昨年10月から、香港でおなじみの赤いタクシーのハンドルを握っている。
まだ「新米」なので、月収は2万香港ドル(約34万円)あまり。蘋果日報時代に比べると、半分近くに減った。それでも、自分のペースで働けるのがいい。同居している恋人と共働きなので、生活上も問題はない。少なくとも3人の元蘋果日報の同僚はいま、タクシー運転手として働いているという。
メディアとは全く別の仕事に就いた記者たちは多い。元編集幹部によると、主要ニュース部門のデスクだった男性は、マッサージ師になった。
この男性は、知人から紹介を受けて4月から別の大手紙で働くことになっていた。しかし、出社日の2日前に突然、内定が取り消された。理由はわからない。
その後、テレビ局も紹介されて面接を受けたが、返事すらない。失業したままでは厳しいので、手に職をつけようと考えたという。失業者が新しい技術を学ぶ場合に6千香港ドル(約10万円)の補助金が政府から支給されるので、応募し、働きながら学んでいる。
このほかにも、マクドナルドの店員、左官職人、保険会社の外交員、不動産仲介業者の部屋案内係・・・・。元デスクや記者たちが働く業種は幅広い。すでに移民した人も少なくないという。
この元編集幹部はいう。「生活のため、または経験を積むために、仲間たちはいろんな世界に散らばっている」
香港における報道の自由は、「一国二制度」の象徴だった。
1997年の香港返還後も、中国政府に対して自由にものを言い、中国本土ではタブーの天安門事件について責任を追及する論調を掲載しても、問題にならなかった。
しかし、こうした民主派の声はいま、香港メディアからほぼ消えた。
リンゴ日報の次に、標的になったのは民主派寄りのネットメディアだった。
独立系の立場新聞(スタンド・ニュース)の編集室が警察の捜索を受け、幹部ら7人が扇動的な言論を企てた疑いで逮捕されたのが昨年12月末だ。「民主、自由、人権、法治の追求」を編集方針に掲げてきたが、ニュース配信も即日停止された。
その6日後には、別のメディア「衆新聞(シチズン・ニュース)」も配信を停止。「(報道の自由を守るという)私たちの理念を達成することができなくなった」ことが理由だった。
ジャーナリストの権利を守ってきた「香港記者協会」もいま、存亡の危機に陥っている。
「反中で香港を混乱させる組織」――。中国共産党宣伝部とも関係の深い香港の親中派紙からこうしたレッテルを貼られ、圧力を受け始めたのが昨年夏の終わりごろ。
香港の治安機関トップが親中紙のインタビューに登場し、記者協会が外国勢力とかかわりがあると示唆。記者協会が例年公表する「言論自由年報」で、報道の自由が壊されていると記載したことが、「香港政府の顔に泥を塗り、国安法のもとで恐怖が広がるとのデマを流した」と親中紙・大公報などに断じられた。
これは、民主派団体を解散に追い込む共通のパターンだった。
民主派の支持基盤だった教職員組合や労組連合なども同様に親中紙から圧力を受け、国安法違反での摘発を恐れて自主解散を決めた。
記者協会の陳朗昇主席(41)はいう。「次の主席のなり手がいない。こうして外国メディアの取材を受けること自体、危険を伴う。誰もやりたがらない」
6月下旬に再任された陳主席は9月に英国へ留学する予定で、その後は主席が空席となる可能性がある。
当局の圧力は、外国メディアも無縁ではない。
香港外国特派員協会(FCC)のキース・リッチバーグ会長は6月上旬、毎年恒例だった「人権プレス賞」を中止した理由を、youtube上のインタビューで「私は、監獄送りにはなりたくなかった」と語った。
FCCは国安法の圧力で閉鎖に追い込まれた「立場新聞」に賞を授与する予定だった。しかし、国安法のもとでのリスクを考えたという。
リッチバーグ氏は、米ワシントン・ポスト紙の元北京支局長で、現在は香港大の教授。同氏は、授賞を続ければ「すでに閉鎖されたメディアの犯罪行為を支持しているようにみられる」とも語った。当局の弾圧のもとでの逮捕を追認するような言い方に、メディア界からの批判もある。
しかし、賞を中止するかどうかのFCC理事会の採決では、16人のうち15人が中止に賛成票を投じた。FCCが警察の捜索を受け、リンゴ日報のように資金を凍結されて存続できなくなるリスクを考える人が多かったという。
リッチバーグ氏は、立場新聞の摘発を批判する声明を出した後に中国政府の出先機関から接触を受けたことも明らかにしている。国安法の圧力は、FCCの内部にまで深く浸透している。
国際NGO「国境なき記者団」が5月に発表した22年の報道の自由度ランキングが、香港返還以降のメディア界の推移をよく表している。
返還から5年後の02年は、日本(28位)よりも高い18位だった。ところが22年は、前年の80位から一気に148位まで転落。ついに、はるか後ろにいた中国(180カ国中175位)の足音まで聞こえてきた。
こうした中でも、新しいメディアを立ち上げる動きも出ている。
ネットメディアやユーチューブチャンネル、タブロイド判の新聞など、少なくとも10の媒体が昨年以降、立ち上がった。いずれも、蘋果日報の元記者たちが中心となっている。
ネットメディア「チャンネルC」もその一つだ。記者ら16人のうち、大半がリンゴ日報出身者だという。チャンネルCのフェイスブックは10万人以上がフォローし、youtubeの登録者数は27万人を超えた。
チャンネルCの取材副主任も務める記者協会の陳主席はいう。「新しいメディアは、どこも政治の敏感なテーマは扱わない。いまはまだ、あまりに危険すぎる」
チャンネルCも、水上海鮮酒樓「珍寶王国」が南シナ海で転覆したことの続報や、新型コロナの話題など、市民の関心の話題を中心に扱っている。
ただ、「政府批判などはしなくても、市民の生活を良くする報道の仕方はあると信じる」という。市民の投書などをもとに、夜間にネズミが食物を求めて走り回る飲食店の実態を取材し、衛生環境の改善を促すといった、「独自の生活報道」も手がけている。
陳氏はいう。「中国本土でも、人権問題などを取り上げようとする記者たちがいる。香港はまだ中国本土よりもましだと思って、頑張っていかなければならない」