香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2022年07月

「醉生夢死之灣仔之虎」(1994年)

1994年の三級片(これが1月近く上映されていたのが驚き、同時期のA・ラウ映画より長くという)。
導演は林嶺東作品に欠かせない朱繼生で、オープニングの彌敦道を逆走というカー・スタントで本領発揮(武術指導は徐寶華)。
谷垣健治さん本によれば、朱導演はこの撮影で製作会社オーナー・羅傑承のポルシェを壊して570万HKを請求されたという話が出てきます。
ヤクザの何家駒に付く子分にジャック・ウォンが。
中環ダデル・ストリートの石段シーン、チンピラたちの一人がどうも谷垣さんではないかと思うんですが?

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澤村田之助 追悼(朝日新聞・有料記事より)

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  6月23日死去(肺炎) 本名・山中宗雄 八十九歳
 「セリフが面白くないと、芝居って面白くないでしょ」。その言葉通り、田之助さんというと、柔らかく響く声と、息も巧みなセリフが思い浮かぶ。

 その歩みは波瀾万丈だった。

 初舞台は8歳。六代目尾上菊五郎ら名優に可愛がられ、順調に滑り出したかに見えた役者人生を、戦争が大きく変える。

 静岡県の伊東に疎開。ここで戦後、新制中学、高校と進んだ。将来は母の始めた旅館で板前になる――。六代目菊五郎の一座の大先輩に話すと「戻ってこい」。20歳で復帰。尾上梅幸の薫陶を受けた。舞台は見続けていたが、約7年の空白は大きい。舞台上、そして幕だまりからも他人の芝居を勉強した。

 その後、居どころの定まらなかったと振り返る時期も、義太夫節など歌舞伎のセリフ術に欠かせない語り物の修練を積み、書籍で知識を蓄えた。それはやがて、中村歌右衛門や坂田藤十郎の一座での活躍に、生きる。

 8年ほど前に取材した際、田之助さんが熱っぽく語ってくれた、代役を巡る思い出がある。

 歌舞伎座で「加賀見山旧錦絵」に出演中、主役級の俳優が病気となり、夜中に代役を頼まれた。当時50代半ば。徹夜で稽古し、代役初日を乗り切った。

 終演後、指導役の歌右衛門はねぎらってくれた。改めて電話があったのは深夜。死を決意した奥女中が母の手紙を読む涙ながらのセリフを、電話口で実演をまじえ丁寧に教えてくれた。「今でも、その声がよみがえってきます。僕は忘れません」。先輩への感謝。そして、どんな時も揺るがぬ地力を蓄えた自負が、にじんでいた気がする。

 この頃、梅幸が演じてきた世話女房の役も演じるようになった。「魚屋宗五郎」のおはま、「め組の喧嘩」のお仲。さりげない口調に夫への愛情がにじみ、周囲とのあうんの呼吸は見事だった。「自然体。芝居の中に溶け込んだ感じが田之助さんらしかった」と、50年以上親交のあった、元NHKアナウンサーの山川静夫さん(89)。「研究熱心で真面目な人でした」

 ひざを痛め、晩年は自身の柄と異なる役を勤めたのは、本意ではなかったと思う。そんな時も昔の名優の舞台を思い出し、物語の中の役割を考えて演じる姿勢に、ハッとさせられた。

 そんな田之助さんは、上演作品のバリエーションが減ったことを、とても憂えていた。「演目は無数にあるんですもの。残念だなあ」。口調が、耳によみがえってきた。

(文化部・増田愛子)

「殺人者にラブソングを(Hickey and Boggs)」HD

あのころ都内の名画座でもなかなか目にする機会のなかった? 幻の映画と化していたロバート・カルプの「殺人者にラブソングを」。
50年経って高画質でいとも手軽に観られるなんて嘘のよう。
屋内シーンも含め、全編ロケーション撮影と思われる撮影監督はビル・バトラー(「ジョーズ」「カンバセーション」「脱出」)。

 


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1965年の香港ロケ ”Affair in T'Sien Cha”(I SPY)

「アイ・スパイ」(1965年)、香港篇。
主演のロバート・カルプとビル・コスビーに加え、ゲストはベラ・マイルズ。
九広鉄道の九龍駅・ホーム(背景にペニンシュラがチラリと)。
尖沙咀の現在は文化中心あたりに九龍郵政局があったというのも貴重な記録か。
タイガーバーム・ガーデンが大きく扱われ、人力車シーンでは「パジャマ娘」が映り込んで。
大埔墟の駅舎と線路を横切るというのも珍しく、おまけに吐露ハーバー沿いに線路をとぼとぼ歩くが可笑しい。
このころ東映や東宝も香港ロケ作品をいくつも造っていますが、新界まで出かけて撮ったものなど無いんじゃ?
香港仔を埋め尽くすサンパン、珍寶が出てくる前から営業していた中規模の水上レストラン船も。
驚いたのがこの動画で、元朗での天后祭風景。
なんと七小福たちも練り歩きに参加しているという!


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「武漢市場の動物→ヒト感染、何度も起きた?コロナ起源で論文(朝日有料記事より)

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 新型コロナウイルスの「起源」として有力とされる、動物から人間への種を越えた感染は、少なくとも2回、最大で20回あまり起こっていたかもしれない。

 米国などの国際研究チームが7月26日付の米科学誌「サイエンス」に、そんな内容の研究論文を発表した。

 主要なメンバーが同じ別の研究チームが、同時に発表したもう1本の論文では、流行の初期のデータを分析した結果、中国・武漢市の海鮮市場が、種を越えた感染の「発生地」と考えられるとしている。

 新型コロナの「起源」は、動物から人へ、種を越えて感染したウイルスだとする説が有力だ。しかし、いつ、どのように種を越えた感染が起きたのかは、直接的な証拠がなく、よく分かっていない。

 世界でも最初の流行は中国・武漢市で起こった。

 武漢市の複数の患者の検体を分析した結果から、初期の新型コロナウイルスは二つの系統に大別できることがわかっている。

 野生のコウモリから見つかったコロナウイルスに進化的により近い「A系統」と、A系統より早く感染拡大を起こし、その後の世界の流行の中心になった「B系統」だ。

 B系統は、いわゆる「武漢株」とも呼ばれ、いまも世界中で拡大するオミクロン株などの変異株の「親」にあたり、ワクチン開発の最初のターゲットにもなった。

 研究チームは今回、種を越えた感染がどのように起これば、AとB、二つの系統が生まれ、実際の感染拡大を再現できるかシミュレーションした。

 まず、種を越えて感染した単一の「起源」から、AとB、二つの系統が派生したと仮定して検討すると、実際の感染拡大パターンと整合しなかった。

 一方、二つの系統にそれぞれの「起源」があると仮定すると、A系統が動物のコロナウイルスにより近く、B系統による感染拡大がより早く起きたことをうまく再現できた。

 種を越えた感染の時期は、B系統が2019年11月中旬、A系統は同月下旬と推計された。

 また分析では、種を越えた感染が起こっても、多くの場合でそのウイルスは次の人に感染できず、自然に消滅すると予測された。

 現実に起こったように、最終的に、AとB、二つの系統が生き残るには、少なくとも2回、最大23回の種を越えた感染が起きた可能性があるとされた。

 では、この、少なくとも2回の種を越えた感染が、どこで起こった可能性が高いのか。別チームがもう1本の論文で、この点について詳しく検討した。

 新型コロナ感染症は、19年12月末に、中国政府によって、原因不明の重症肺炎として世界保健機関(WHO)に報告された。

 初期の症例の多くが武漢市の「華南海鮮卸売市場」の従業員などだったことから、ここが新型コロナの「発生地」ではないかと注目された。

 しかし、こちらも直接的な証拠はなく、結論は出ていない。

 チームは、21年のWHOの調査報告書をもとに、初期の患者が住んでいた場所の地理的な分布と、海鮮市場で働いているなど市場との直接的な関係の有無について分析した。

 その結果、AとBの両方の系統が市場の近くで確認されていること▽市場との直接関係がない症例でも、市場の近くに住んでいる人が多かったこと▽多くの人が訪れて感染拡大がおきやすいと思われる商業施設や大学、礼拝所などもあるのに、初期の拡大が起きたのが海鮮市場だったこと――などから「海鮮市場がパンデミックの『発生地』だという仮説が支持される」とした。

 さらに、20年1月に2度行われた市場内の調査で、新型コロナウイルスが検出された場所の位置情報をもとに、市場内のどこでウイルスが検出される確率が高いのかも統計的に推計した。

 ウイルスの検出確率が高いところは、市場内の一部に集中していた。

 19年に市場で販売された生きた動物の記録や、動物の違法販売の罰金の記録などから、このエリアで、生きた動物やその肉製品を販売していたと思われる店を特定することもできた。19年12月20日より前に市場で確認された新型コロナ患者8人はすべて、このエリアの近くで働くなどしていたという。

 論文でチームは、今回の結果が、「A系統とB系統が同じように海鮮市場から発生し、そこから市場周辺の地域へと広がっていった可能性があることを示す証拠となる」としている。

 市場では、タヌキやキツネ、アナグマなどが売られていたと報告されているが、論文で挙げられていないものも含めて、どの動物がウイルスの供給源になったのかは分からないという。

 市場には近隣の農場から動物が商品として供給されていた。27日にあった会見で、両方の研究チームを率いたで米アリゾナ大のマイケル・ウォロビー教授は、「(市場に売られた動物の)その中の1匹がB系統のウイルスに、もう1匹がA系統の出現につながったというシナリオは非常に可能性が高いと思う」と話した。

 また、同じく両チームを率いた米スクリプス研究所のクリスチャン・アンダーセン教授は「(種を越えた感染の)発生は防げないが、それがパンデミックになるのを防ぐことは可能だ」と指摘。透明性のあるデータ報告や新しい感染症の発生を警戒する監視システムなどが必要だ、と訴えた。

今朝の東京新聞から。

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「香りも高きケンタッキー」HD

シネマヴェーラで始まった「フォード特集」、感染拡大という中で渋谷まで出かけるのは・・・・。
なんとyoutubeにアップされていました。
というわけで、ボグダノビッチによるフォードへのインタヴューから。

他愛もない競馬のストーリーを撮りに、はるばるケンタッキーくんだりまで出かけた。撮りながら、お笑いをどっさり詰め込んだ。
雌の仔馬がいて(実にホレボレする容姿だった)。それが何かと私にすり寄ってきたっけ。
群から一頭だけ離れて、俺んところにばかり来るんだ。
俺の帽子をくわえて逃げ、こっちを振り返る。そして、トコトコ戻って来ては地面に落とす。拾おうとすると、またくわえ上げて逃げていく。
持ち主が言ったもんだ。
「どうして名前をつけてやんなさらない? あの仔は監督さんにホレてるんですぜ」
そこで私は、その仔馬をメアリー・フォードと名づけてやった。
メアリーは大人になりレースに出場し、3回連続して優勝したという。
が、可哀想にその場で脚を折り、競走馬として使い物にならなくなって、乗物用の馬に売り渡されてしまったとか。
私は競馬の通ではないが、そんなことにならなければ、あの仔は有名な競走馬になったと思う。
あの仔馬のことは、いつも忘れたことがないな。馬にしては珍しいほど、私のことを愛していたんだ。
役者に演技をつけている間、あの仔は私の椅子の脇にじっと立っていた。
撮影が終わって立ち去る時、あの仔は群の他の連中が半マイルも向うにいるというのに、柵沿いに我々の乗った車の後を慕ってどこまでもついて来たものだった。

youtubeにアップされていたHD全長版が削除されたので、代わりにこれを。


「裸の町」1948年、クライテリオン版

ジュールズ・ダッシン「裸の町」。
ロケーション撮影の分析と紹介の詳細はこちらに。
https://www.random-noir.net/the-naked-city-1948/






ボブ・ラフェルソン 死去。

7月23日に死去という報道が。
クライテリオンからのHD素材がyoutubeに。

「不審者(THE PROWLER)」1951年、レストア版

ジョゼフ・ロージーー「THE PROWLER」1951年。
フィルムノワール・ファウンデーションによるレストア版(ブロードウェイから出た日本盤はこのレストア版とは違うと思われ)。
脚本クレジットのヒューゴ・バトラーはフロント、実際はドルトン・トランボ。
助監督にロバート・アルドリッチ。





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