
人権派弁護士として中国の権力と闘ってきた浦志強さんは、三国志演義の勇将を思わせるような巨漢だ。7月、そんな彼が私の前で唇を震わせ、涙を浮かべた。彼が「精神の導師」と慕った先輩弁護士の思い出話になった時のことだ。「俺にとってはオヤジのような存在だった……」と。
「オヤジ」の名は、張思之さん。がんとの闘病の末、6月に94歳で亡くなった。
2015年の初夏、私は一度だけ張さんを取材した。天安門事件の犠牲者をしのぶ内輪の集まりに参加していた浦さんが拘束され、その弁護を引き受けたのが張さんだったからだ。
知り合いから「裁判官や検察官にも多くの教え子を持ち、体制側からも一目置かれる法曹界の大物」だと紹介され、緊張しながら取材を申し込んだ。電話口でのつっけんどんな対応にしどろもどろになりながら、なんとか約束を取りつけたのを覚えている。
やせた体に白髪、一見優しげにも見える目は、時々鋭くとがり、こちらの居住まいをたださせる迫力があった。
張さんは事件の背後に、国際的な発信力を持つ浦さんの口を封じようとする当局の意図が働いていることを教えてくれた。その一方で、「この国で正しいことをするためには、我慢や節度も覚えなければならない」と話していたのが印象的だった。目立ちすぎることを戒める慎重さに、むしろこの国の強大な権力と向き合い続けてきたすごみを感じた。
張さんは1950年代、共産党政権が司法制度の体裁を整えようとしていた時代に弁護士になった業界の草分けの一人だ。89年の天安門事件を原点に持つ多くの人権派弁護士たちからすれば、親子ほどの年の差がある。彼らに敬われながらも張さんは他の弁護士と群れようとせず、後輩が依頼人の利益より自分の名声に走るようなそぶりをみせればきつくしかり飛ばした。
歯切れよく体制を批判する後輩たちと違って、張さんが海外メディアに取り上げられることは多くなかった。私は張さんを取材した時、彼がなぜ大物と呼ばれるのか、その意味を理解していなかった。彼が過去に弁護を引き受けた人たちの名前を知って驚いたのは、何年も後のことだ。
70年代末、壁新聞などで共産党を批判した「民主の壁」運動で投獄され、その後の民主化運動の象徴となった魏京生さん。80年代の改革派指導者、趙紫陽総書記の秘書だった鮑彤さん。そして浦さんをはじめとする弁護士や記者など、中国改革派のそうそうたる面々が名を連ねていた。
それだけではない。80年代初め、文化大革命の責任を問われた「四人組」の裁判では、張さんは被告らの弁護チームを率いた。毛沢東の妻だった江青をはじめとする「四人組」は、数え切れない人々の人生を狂わせた張本人として国中の恨みを買っていた。それでも張さんは、死刑判決(後に無期懲役に減刑)を受けた彼女の裁判が、「先に結論ありき」の政治ショーに終始したことを悔やみ続けた。
張さんは依頼人の政治的立場を問わず、体制からはじき出された人々の弁護をいとわなかった。それは彼が、政治に左右されることのない、法の下での正義や公正さを追い求めていたことの証しでもある。
法律家としての張さんの強い信念はどこから生まれたのか。私の問いに浦さんは「彼の人生が培ったものだ」と即答した。そう言われて調べた張さんの人生は、まるで中国現代史の縮図のようだった。
張さんは27年に河南省鄭州で生まれた。日本軍の空襲が鄭州にも及び、一家は戦火を避けて陝西省や四川省を転々とした。16歳から国民党の学生志願軍に加わり、インドまで遠征。日本の敗戦後、北京の法科大学に進んだものの、国民党と共産党の内戦で勉強どころではなかった。友人に誘われるまま、共産党の地下党員となったのはその頃だ。
49年に共産党が政権を握ると、張さんは国民党の支配下にあった裁判所を接収し、そこで働く人たちを監督する仕事を与えられた。法律の知識の多くはこの時、「門前の小僧」さながらに年上の裁判官や書記官から実地で学んだものだったという。
しかし間もなく、張さんも多くの人々と同じように激しい政治の波にのみ込まれた。知識人らを標的にした50年代の反右派闘争や60年代からの文化大革命で迫害に遭い、30歳で農場に送り出されて15年に及ぶ「労働改造」を経験した。
張さんは自著にこんな情景を書き残している。
反右派闘争の時、張さんは職場で求められるまま、それまで親しくしていた上司の過ちを告発した。失脚した上司は、やがてがんを患い死の床についた。ためらいながらも見舞った張さんを上司は喜んで迎え、「君が持ってきたものなら」と、手土産のナシを無理して食べた。枕元で涙を流す張さんに向かって、上司は「君は若いんだ。昔のことは忘れていい仕事をしなさい」と励ましたという。
階級闘争の名の下、自分を守るために同僚や隣人、家族までもが告発しあうような痛ましい時代だった。張さんは自分が迫害の犠牲になった恨みより、時代の空気にあらがいきれず告発する側に回った自身の弱さを恥じ、「(政治運動の標的になった)彼らの挫折と無念が、彼らに報いるために自分が何をすべきかという覚悟を与えてくれた」と記した。
政治が生み出す不条理を目の当たりにしてきた経験が、政治に左右されることなく、ひとりひとりの人生と尊厳を守る「法治」への強い思いとなって張さんを駆り立てていた。
中国は過去100年、戦争や政治運動など、人間がつくり出す数々の災禍を経てきた。自らの体験を通して、平穏な暮らしとまっとうな社会を守る大切さを心に刻んだ人は少なくない。その一人である張さんが生き方で示したのは、欧米のお仕着せでなく、中国で生まれ、中国で鍛えられたそうした信念だったように思う。
張さんの葬儀は6月末に北京郊外で行われた。40人近い知人らが駆けつけたが、参列者によると、「名簿に名前がない」として当局に入場を阻まれた。人々が門の外で泣き崩れたため、短時間だけ別れを告げることが許されたが、その間わずか20分。何かに追い立てられるような葬儀だったという。
政権が忌み嫌う人々の側に立ってきた張さんの業績が公に語られることはほとんどない。彼に救われ、励まされた人たちも、表だって口を開けない現実が今の中国にはある。
ただ、体制の力が強まる今だからこそ、「我慢や節度」も身につけながら、したたかに闘えという張さんの言葉が重く響く。過酷な時代を通して法治の意味を問い、闘い続けた鋼のような精神は、彼を慕った後輩たちの胸にも刻まれている。(中国総局・林望)