
「個人の政治的な立場を尊重しない香港政府の不遜な姿勢に失望しました」
香港政府で約10年間、公務員として働いた30代の男性は6月下旬、2021年春に離職した理由をそう語り始めた。
きっかけは、20年冬に人事部門から届いた「宣誓書」だった。政府は20年6月、反中国的な言動を取り締まる香港国家安全維持法(国安法)を施行したことを受け、「愛国者による香港統治」の徹底を急いでいた。
紙には「私は中国の香港政府公務員として、政府への忠誠を誓います」と書かれ、1カ月以内に署名して提出するよう求められた。
男性は、先輩職員が最大200万人が参加した19年の市民デモの後、SNSに民主派を支持する内容を転載していたことを何者かに「密告」され、削除を命じられた出来事を思い出した。
人ごとではない。そう感じた。自身もデモに参加していたし、民主派を支持する投稿もしていた。「将来の昇任時に、過去の言動を問題視されるかもしれない」
大学卒業後、安定した仕事と高給に憧れて公務員になった。社会に貢献できる仕事に充実感も感じてきた。だが、宣誓書の一件で生じた政府への不信感は止まらなかった。
署名を拒み、離職を選んだ。いま、転職先の民間企業で働きながら、海外へ移住する準備を進める。
取材に応じた男性は最近、政府に残った同期の職員から「将来の昇進のために、過去にSNSに転載した投稿を消す方法を教えて欲しい」と相談を受けた。
男性は言う。「政府内の息苦しさは格別だ」
こぞって海外へ移住 離職者が急増
旧宗主国の英国は今年3月までの2年余りで、香港人16万6千人に特別移民ビザを出した。香港の人口は19年の約752万人から19万人近く減っている。中国式の愛国主義教育を子どもに受けさせたくない20~30代の子育て世代がこぞって移民した結果で、民間企業の離職者が急増した。
その傾向は、政府も例外ではない。19年末まで1万人前後だった公務員の欠員は20年以降に増え続け、今年3月には1万9171人に達した。定員約19万人の1割が不足する状態だ。
世界銀行が100を満点として発表する各国・地域の行政効率で、香港は15年にシンガポールやスイスに匹敵する世界最高ランクの99・0だったが、21年には豪州や台湾などに近い93・8(日本は90・4)までスコアを落としている。
政府内では、管理職の職員が移民のため退職し、空いたポストを埋めるため、勤務実績が基準に満たない若手が昇進する例もある。
窓口も人手不足 運転免許更新に行列
「反愛国」的な人々を排除しようとする政府のもと、残ったかつての仲間たちは、過去を気にし続けなければならない境遇に置かれている。
公務員の大量欠員は市民サービスにも影響をもたらしている。
6月上旬、平日の昼。香港・金鐘の官庁街では、市民約250人が約150メートルの長蛇の列を作っていた。
運転免許の更新などのため、行政の窓口を訪れた人たち。いらいらした表情で腕を組む人、割り切ってスマホをいじる若者……。長い待ち時間を予想して、折りたたみ椅子を持参して座っている人もいる。
「前回は1時間余りの待ち時間で済んだ。職員も業務過多で気の毒だ。本来は窓口を増やすべきなのだが……」。午前9時から待つこと2時間半、免許更新を終えた自営業の香港人男性(43)はあきらめ顔だ。
窓口を訪れた外国人女性は行列を見て「クレージーだ。出直す」と肩をすくめた。
交通行政を担う運輸署によると、2月にコロナによる移動制限がなくなり、国際免許などの申し込みが前年同期比で3~4倍に増え、通常の免許手続きにも影響が出ている。
萎縮する中間管理職
同署の欠員は昨年11月で定員に対して7・5%を占める144人。元公務員は「週末も窓口を開けるなどの対応を取るべきだが、政府には人手も財政面の余力も足りない」と語る。
公務員が辞めていく理由について、労働組合のある幹部は、国安法による職場環境の悪化を挙げる。
「SNSなどでの発言も上司や同僚に監視され、発覚すればマイナス評価を受ける」
国安法のもとで、政府は社会全体で「反愛国」的な言動の通報を奨励している。こうした密告や相互監視がはびこる職場の雰囲気を嫌う人は少なくない。
労組の関係者によると、大量欠員に伴い、業務量が1・5~2倍になった人もいる。業務負担が増えたことも職場を去る原因の一つになっている。
さらに自分の判断が国安法に触れるのを恐れ、何事も上司の決裁を仰ぐ中間管理職が増え、行政効率も急速に低下しているという。
この関係者は嘆く。「公営施設の利用申請を、市民がネット経由で行えるようにする変更すら、判断できない管理職もいる」
公務員の欠員が増す中で、特に人手不足なのは警察と教育部門だ。昨年11月末時点で、警察の欠員は定員に対して17・50%、教育部は同15・29%と目立っている。
警察は19年の政府に対する抗議デモでとった強硬な対応が市民の反発を招き、中途退職の増加や就職希望者の減少につながったとされる。一方、教育部門の職員や現場の教師らは政治的圧力を嫌い、海外移住する人が増えたのが主な原因になっている。
また、公立病院でも過去2年間、医師や看護師の中途退職が19年度の1・5倍前後の人数で推移する。4月中旬には、58歳の女性が病院の人員不足で救命措置が間に合わず、死亡するケースも報じられた。
「反愛国」でないか 選別の可能性
政府にも危機感はある。4月、香港からの移住者が多い英国に職員を派遣し、公立病院で働く医師を募るリクルート活動を始めた。また、香港では、中国から香港に移住した本土出身者や、中国で学んだ経験のある香港人の採用にも力を入れている。
ただ、政府は同時に、公務員の採用に当たって若者らが「反愛国」でないか選別している節がある。
元公務員によると、現在は公務員を新規採用する際、合格者の個人情報を警察に送り、19年の反政府デモに参加していなかったかを調べているとされる。防犯カメラの映像でデモ当時に現場にいたと指摘され、不採用とされたケースもあったという。
政府は05年に立法会(議会)で、「公務員の採用にあたり政治的な思想調査はしない」と答弁した。しかし、近年は調査の実施について回答を拒んでいるとする21年の立法会の報告書もある。
採用過程を知る元公務員は言う。「(政治思想の)審査はこれまで、幹部職員の任用時などに限られていた。19年のデモには多くの若者が参加しており、こうした審査が採用の新たなハードルになっている」
香港では中国共産党による統制が強まり、立法会議員(定数90人)や政府トップの行政長官らを決める選挙委員(定数1500人)が、ほぼ親中派一色となった。これまで多様性な人材を受け入れてきた政府部門でも、「愛国者」でない者を排除する傾向が進んでいる。(香港=石田耕一郎)