香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2023年07月

ウクライナ侵攻がコーヒーの味わいに影響? 輸入業者に理由を聞いた(朝日新聞有料記事より)

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 「香味が薄くなったな」。コロンビア在住で、名古屋市に本社のある萬楽庵(まんらくあん)の社員として、コロンビア産コーヒー豆の輸入や品質管理に携わる島田優さん(40)は昨秋、豆の質が落ちていることに気づいたと言います。大きな打撃を与えているのが、ロシアから輸入する肥料価格の高騰。ロシアのウクライナ侵攻は、私たちが普段飲むコーヒーの味わいにも影響を与えています。

――なぜ肥料価格が高騰しているのでしょうか。

 コロンビアは、世界最大の肥料輸出国であるロシアから、肥料を大量に輸入しています。ウクライナ侵攻で物流が滞り、輸入量が減った結果、末端価格は3倍になりました。

――肥料が高くなると、コーヒーの味にも影響があるのですか。

 コロンビアの農家の中には、費用がかさむため、肥料を減らしてコーヒーを栽培している人が多くいます。使われているのは、窒素肥料という、土の中に窒素を入れて葉の成長を促すものです。葉が成長しないと十分に光合成ができず、収穫量が減ったり、豆の質が下がったりします。

――島田さんは、アメリカのスペシャルティコーヒー協会認定の品質鑑定士「Qグレーダー」でもあります。コーヒーの味や香りを評価するプロとして、最近どのような変化を感じましたか。

 昨秋以降に収穫された豆は、見た目には変化がないのですが、味は以前よりも立体感が少ないと感じます。コロンビア各地の豆を試してみて、全体的に「香味が薄くなった」と思いました。天候など他の要因もありますが、肥料高騰は大きな要因だと考えています。

コロナで豆の価格2.5倍

――昨夏にはコンビニのコーヒーが値上がりし、今年5月には缶コーヒーが25年ぶりに値上げとなりました。なぜ高くなったのでしょうか。

 複合的な理由があります。まず、新型コロナの感染拡大で物流が滞り、コーヒー豆を運ぶ船の輸送費が急騰しました。さらに、ロシアのウクライナ侵攻で肥料の価格が高騰し、生産コストが上がりました。

 例えばガソリンはすぐに価格に反映されますが、缶コーヒーの場合は、以前輸入した豆のストックがあったので、ワンテンポ遅れて、影響が表れたのでしょう。

――過去にもコーヒー豆の価格が上がったことはあるのですか。

 アラビカ種の価格を決める基準となる、ニューヨークの先物取引市場の相場を見ると、1979年以降、先物価格は6回ほど大きく高騰しました。多くは天候不順で、霜でコーヒー豆が実らなかったことによる高騰です。

 直近のピークは2021年11月から10カ月続いた高騰で、コロナ前の価格の約2・5倍になりました。今は少し下がっていますが依然としてコロナ前と比べて1・5倍以上の価格で取引されています。輸送コストや生産コストが高騰しているので、末端価格は高いままです。

コンビニのコーヒー 味の変化は

――私たちがコンビニなどで飲むコーヒーの味にも、変化が出てきているのでしょうか。

 豆の質は全体的に少し低下していますが、配合を変えたり、焙煎方法を工夫したりすることで味の質は保たれていると思います。日本の輸入業者や加工業者たち「コーヒーマン」の試行錯誤のおかげでしょう。

 私が取引するコロンビア人にも、「日本人はうるさい」と言われます。日本人はそれほどこだわって、質のよい豆を輸入しようとしています。

――肥料不足の中、豆の質を保つために、農家はどんなことをしているのですか。

 収穫後の精製過程でコーヒー豆を発酵させるのですが、その際、オレンジの皮を入れたり、酵母を入れたりして味を引き出す動きがあります。戦争が始まる前から注目されていましたが、肥料不足の中で、より多くの農家が注目しています。

2050年には栽培地が半減

――戦争が終われば、コーヒー豆の質も価格も元に戻るのでしょうか。

 落ち着いてくるかもしれませんが、長期的に見て深刻なのは、農家の高齢化です。少なくともコロンビアでは、後継者が不足しています。今後、生産者は必ず減るので、コーヒーの生産量は減る見通しです。他国でも同様の状況だと、価格は上がるでしょう。

 さらに、「コーヒー2050年問題」と言われる課題があります。地球温暖化で、コーヒーが栽培できる場所が減ってしまうことが懸念されています。赤道付近よりも、ブラジルやニカラグアなどの高温で乾燥した地域が影響を受けやすく、50年にはアラビカ種の栽培に適した産地が半減すると言われています。コーヒー栽培をめぐる課題は山積みです。
(聞き手・河崎優子) 

「この街はゴーストタウン」 黒い工業地帯で元炭鉱労働者が歌った曲(朝日新聞有料記事より)

 元炭鉱労働者カール(50)は、パブの人気者だ。グラスを片手に店内の全員に歩み寄って話しかける。みんなカールを知っている。

 住民2千人ほどの村コーベン。都市バーミンガムとマンチェスターの間にある。私は路線バスの乗り継ぎ時間を潰すため、最寄りのパブに立ち寄っていた。

 一帯はかつて炭鉱地帯だった。産業革命を動力源として支えた石炭が豊富に採れた。

 私が海外から来た記者と知ると、地元民の多くが「ここはブラックカントリーだ」と教えてくれる。「黒い工業地帯」といったニュアンスだ。

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かつての産炭地の風景。炭鉱労働者たちも暮らした住宅という=2021年8月15日、コーベン周辺、

 一帯を指す総称で、名前の由来は、BBCによると、19世紀半ば、鉄工所や鍛冶(かじ)場から出る黒煙と石炭層が地表の近くにまでせり出していたことにある。鉄鉱石も採れたため、鎖やいかり、釘などの鍛造業でも栄えた。

 作家ジョージ・オーウェルは1936年2月2日、この一帯を雨の中、16キロ歩いたと日記に残している。立ち寄った街ウォルバーハンプトンについては「恐るべき場所のようだ。至る所に見えるみすぼらしい小さな家は、日曜日なのに、漂う煙に依然として包まれていて、鉄道線路沿いに巨大な粘土の土手と円錐形の煙突があった」と描写している。

 オーウェルの関心テーマの一つは炭鉱労働者の労働環境や暮らしぶりだった。「オーウェルの道」をたどる上で、ぜひ会いたいと思っていたのが元炭鉱労働者だった。

 幸運にも、その一人が目の前で陽気に飲んでいた。

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元炭鉱労働者カール。「本当にオレの話を聞きたいのか?」とのぞき込んできた=2021年7月30日、コーベン、

俺の平凡な話でよければ

 「オレの話を聞きたい? この辺りじゃ平凡で、何も特別な話じゃないぞ」。そうことわった上で、カールは続けた。

「オーウェルの道」をたどる中で、話を聞いてみたいと思っていたのが元炭鉱労働者でした。その一人とパブで居合わせました。彼は地元の「ボタ山」を案内した後、ビールを飲みながら1980年代のヒット曲を通してイギリスの現代史を教えてくれました。

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元炭鉱労働者カール。「本当にオレの話を聞きたいのか?」とのぞき込んできた=2021年7月30日、コーベン、

 「オレは1971年に生まれた。16歳で学校を出て、そのまま地下にもぐった(炭鉱で働き始めた)。87年のことだ」

 カールが働いたリトルトン炭鉱は、一時は英中部で最大規模だったというが、1993年12月に閉鎖され、800人が失職したという。その一人がカールだった。

 「閉山したとき、22歳、23歳だったかな。もちろん反対だったが、どうにもできなかった。わかるだろ。そういう時代だったのさ。サッチャーが80年代に徹底的に炭鉱を潰していて、オレたちは最後までふんばっていたわけだ」

 ここまでは、私が頼み込んだ結果、話してくれているという感じだったが、この先はカール自身が「これだけは言わせてくれ」といった調子で話し始めた。

 「でもな、当時イングランドの炭鉱が使っていた技術は、既にドイツの30~40年遅れだって言われていた。オレたちの炭鉱には1965年まで坑内馬(ポニー)がいたんだぞ」

 私の反応が鈍かったからか、カールは繰り返した。「地下で(運搬作業用に)ポニーを使ってたんだぞ。信じられるか? 他国で機械化が進んでいた時代に、イングランドの炭鉱は機械化が遅れた。だからドイツにも、ジャパンにも負けたんだ」

 当時、サッチャー政権下で、炭鉱労働者たちは時代遅れの「負け犬」のように扱われたが、貧弱な設備投資のおかげで、後から追いついてきた国々に負けたという主張だった。その後、海外の炭鉱も渡り歩いたという。

炭鉱の跡地に行くぞ

 雑談していると、カールが「炭鉱の跡地に行くぞ。案内する」と言い出した。

 2週間後にパブを再訪するとカールはバーテンと一緒に待ってくれていた。バーテンが車を出してくれるという。3人で出発した。

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バーテンダーの男性(右)が運転する車でボタ山に向かった。助手席に元炭鉱労働者カール=2021年8月15日、

 最初にボタ山へ。オーウェルは「気味の悪い灰色の山々」と書いたが、85年以上が過ぎると、今では表面に植物が生い茂り、木々も育ち、小高い山にしか見えない。

 バーテンが言う。「おいカール、これがボタ山か? もう酔っ払ってんじゃねーのか。きっと場所を間違えているぞ」

 カールは「間違いない、ここだ」と言いながら、歩き回る。すると、足元に「リトルトン炭鉱跡地」との案内表示が見つかった。

 「なーあ、オレが言った通りだろ!」

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ボタ山を案内してくれた元炭鉱労働者カール。かつて働いた「リトルトン炭鉱」の標識を見つけた=2021年8月15日、コーベン周辺、

 この一帯から石炭が掘り出されていたのだ。カールは「懐かしいな」と繰り返しながら、しばらく歩き回った。

 近くの博物館には、リトルトン炭鉱を紹介するコーナーがあった。メタンガス探知機、有毒ガス検知ランプ、換気担当者が使った流速計などが並べられている。

 「オレもこの道具を使っていたんだ。あれで地下の空気サンプルを集める係もやった。プシュッ、プシュッとな」「まだ、こんな道具を展示してくれているとはなあ」

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炭坑で使っていた道具を説明する元炭鉱労働者カール=2021年8月15日、コーベン周辺、

 カールはとにかくうれしそうだった。子連れの家族が通りかかり地元の歴史を教えている。そんな様子も笑顔で眺めていた。

 博物館の後、3人でパブに戻った。

心象風景を歌った「ゴーストタウン」

 みんなで飲んでいると、カールが「これ知っているか? オレたちの歌だ。すばらしい歌詞だ」とスマホを見せてきた。

 画面に示されているのは「ザ・スペシャルズ」という英バンドの曲「ゴーストタウン」(1981年)だった。80年代に熱烈な支持を集めたという。近隣の都市コベントリー出身で、カールによると当時サッチャー政権下での労働者階級の心情を「ブリリアント(見事)」に歌い上げたそうだ。

 カールが音楽を再生して歌い始めた。下手くそだけど、気持ちがこもっていて、なんだかいい感じだ。

 「♪この街はゴーストタウンのようになってきた」「♪なんで若者同士がいがみ合わなきゃならない? 政府は若者を放ったらかしだ。この国には仕事もない。もう耐えられない、みんなイラついてくる!」

 カールが解説してくれた。

 「サッチャーが労働者階級を壊した。労働組合も文化も壊した。イングランドの風景を変えてしまった。ロンドンには金融業があるが、博士号(学歴)のないオレたちには関係ない! 製鉄業も炭鉱も全部なくなっちまった。ゴーン(消えた)、ゴーン、ゴーン!」

 カールだけでなく、パブの別の客も地元の衰退と心情を歌った曲だと解説してくれた。イギリスの庶民感情をタイムリーに歌い上げた分、海外での知名度は本国に比べると限定的なものにとどまったようだ。

 サッチャーについては、1980年代の「金融ビッグバン」で世界の金融セクターとしての英国の地位を不動のものにしたなどと産業の構造転換を推し進めたと評されることもある。ただ「オーウェルの道」では、前向きな評価はさっぱり聞こえてこない。

 ゴーストタウンの再生が終わると、カールは「こっちの曲も見事だ」と言って、別の曲を再生した。曲名は「ラットレース(ネズミの競争)」。ふたたびカールが大声で歌い出す。

競えどむなしい「ラットレース」

 「♪競えどむなしきラットレース。時間のムダであることぐらい、わかってるよね」「♪キミは、大学にあるバーで、自分を売り込むための会話を練る。母や父の(高級車)ジャガーを自慢して。政治的なメッセージ入りTシャツや、大学名が入ったスカーフを身につけて。世界情勢を語るのも単なるお遊びさ!」

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英バンド「ザ・スペシャルズ」の曲「ラットレース」を熱唱する元炭鉱労働者カール=コーベン、

 「大学にあるバー」や「大学名が入ったスカーフ」は、イギリスではオックスフォードやケンブリッジなどの名門大学を連想させる歌詞という。

 「親がジャガーに乗っている」は、裕福な家庭の出身であることを会話中にチラリと挟み込む、典型的な挿入フレーズらしい。

 全般として家庭環境に恵まれた学生、中流階級や上流階級への批判が込められている。

 日本語で「ラットレース(ネズミの競争)」というと、回し車の中で、ネズミがクルクルと永遠に走っている絵が思い浮かぶ。私がスマホにそれを示して見せると、カールは「それだ!」と大喜びした。

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英バンド「ザ・スペシャルズ」の曲「ラットレース」を熱唱する元炭鉱労働者カール=コーベン、

 イギリスでも、働けど働けど生活が楽にならない状況だけでなく、果てしなく続く、自滅的で、本質的な意味が見いだせない努力のことを指しているようだ。

 カールがパブの屋外で「ラットレース」を繰り返し歌っていると、周囲の酔客も巻き込んでの大合唱になった。

プーチンが真に恐れたものとは 遠藤乾東大教授が読み解く侵攻の謎(朝日新聞有料記事より)

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 ロシアはなぜ、ウクライナに侵攻したのか。欧米の動きをプーチン大統領はどう受け止め、どう反応したのか。いまだ謎が多いその背景を、東京大学の遠藤乾教授(国際政治学)に読み解いてもらいました。

 ――ロシアがウクライナ侵攻に踏み切った背景には、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国拡大があると、しばしば言われます。

 それは、プーチン大統領がつくったそのようなストーリーに引きずられているからだと思います。大切なのは、プーチン氏の意識と、実際の戦争の原因とを、分けて考えることです。前者については、間違いなくNATO拡大が影響しています。プーチン氏の人生は、敵たるNATOとの闘いにあったのですから。後者については、「だから西側にも責任がある」という人は多いのですが、それが戦争をしていい理由にはなりませんし、それが本当の理由かどうかもわからない。この二つの問いを混同してはなりません。

 プーチン氏の意識を考えると、NATO拡大が彼の頭の中に影響を与えたのは間違いありません。NATO加盟の話が旧東欧から旧ソ連のバルト3国を越え、ウクライナにまできたのですから。ただ、それが戦争の原因となったわけでもありません。

 1997年から2004年にかけて、NATOが東方に拡大していく過程で、彼が一貫して反対していたわけではないのです。そこには波があって、00年に大統領に就任した時の彼にはまだ、西欧志向が残っていました。米欧と仲良くしていこうという考えがあった。当時の世界の問題意識は、米9・11テロへの対応で形成されていました。だから彼も、NATOを内心嫌だなとは思っていても、ことさらあげつらうようなことはしなかったのです。旧ソ連である中央アジア諸国への米軍機の駐留も黙認したわけですから。

 ――確かに当時、プーチン氏には欧米に協力する姿勢が顕著でした。

 9・11テロ以後、プーチン氏は米ブッシュ大統領や英ブレア首相と一緒に働く欧米のパートナーでした。それが、00年代の最初の数年で揺らぎました。彼の態度がほぼ決まったのは、07年のミュンヘン安保会議での演説です。これはNATO再敵視宣言で、聞いていた人々は跳び上がらんばかりに驚いたと言います。ここに至って「二度とだまされないぞ、西側のナラティブ(物語)にはついていかんぞ」という意識が最高点に達している。以後、その路線は基本的に変わっていません。

 そう考えると、「ウクライナがNATOに加盟しようとしたのが侵攻の原因」というのは、全くのうそです。ウクライナの加盟は08年のNATOブカレスト首脳会議でうたわれたのですから。現実主義者を掲げる専門家は「08年が誤りだった」と言いますが、実際にはすでに07年に、プーチン氏は態度を決めていたのです。

 ――08年ではなく07年が分岐点だとすると、プーチン氏はどこでそのような結論に行き着いたのでしょうか。

 01年の9・11テロが米ロ連携の一つの頂点だとすると、逆の頂点は07年のミュンヘン安保会議で、その間に彼の意識は揺れ動いているわけです。その間に起きたのが、03年ジョージア(当時グルジア)のバラ革命、04年ウクライナのオレンジ革命です。これらに対し、プーチン氏は「英米の諜報機関が仕掛けた」と考えました。その妄想に根拠はありませんが、欧米のNGOが人的にも資金面でも支えたのは間違いありません。バラ革命からオレンジ革命へと続く民主化運動、いわゆる「カラー革命」が、プーチン氏にとって大きな転機となったと考えられます。彼にしてみると、「こちらからこれだけ融和的な態度を示しても、おまえらは攻撃をやめないのか」と思ったでしょう。

 もう一つ影響を与えたのは、03年のイラク戦争です。イラクのフセイン政権という一つの体制を米英が武力でひっくり返したのですから。プーチン氏の頭の中では、カラー革命のように民主的に体制を転換するのも、イラク戦争のように軍隊を使って体制を転換するのも、ほぼ同じに見えます。「これは、親ロ的な体制もオセロの白黒をひっくり返すように変えられるのでは」と思ったでしょう。

 ――プーチン氏を戦争に駆り立てたのは、NATOではなく民主化運動だったと。

 NATOかカラー革命かに二分されるわけではなく、プーチン氏の意識の中でこの二つは混然一体となっていると思います。NATO拡大とカラー革命を「反ロシア的な欧米の陰謀」だと確信していく過程を経て、07年のミュンヘン安保会議での演説に至ったのです。

 その背景には、ベルリンの壁崩壊の際のプーチン氏の体験があるでしょう。彼は30代半ばで、ソ連国家保安委員会(KGB)のスパイとして旧東独のドレスデンにいて、そこに市民がわっと押し寄せてくる。そこで社会主義がひっくり返り、やがて母国ソ連もなくなってしまう。彼は、そうした体験とその後の出来事を一連の「政治的な恐怖」と受け止めているはずです。東欧も、バルト3国も、イラクもジョージアもウクライナもひっくり返る。それは、モスクワにひたひたと迫り来る最大の邪悪な力だと考えたのでしょう。

 ――ドレスデンでプーチン氏のもとに市民が押し寄せる場面も含めて、私たちはそれを「民主化」と呼びますよね。しかし、プーチン氏らは違う言葉で呼んでいる。

 「陰謀」と呼んでいますよね。体系的な陰謀だと受け止めたと思います。

 ――NATOとカラー革命をあえて分けて考えると、プーチン氏が恐れるのは、NATOという軍事的側面よりも、カラー革命という非軍事的な側面でしょうか。

 その通りだと思います。自分の足元を内側から揺るがせるウイルスのように考えているのでしょう。

 彼の意識でもう一段深いところにあるのは、欧米が確信しているある種の「正しさ」への違和感だと思います。「これが唯一の正しい世界観なんだ」と欧米から押しつけられることに、抵抗したい。それは、同性愛へ寛容な価値観が代表的ですが、そのような「腐敗して衰退しつつあるイデオロギーがひたひたと攻めてくる」状態をひっくり返したいと考えたはずです。ブルガリア出身の政治学者イワン・クラステフらが著した「模倣の罠」の表現によれば、「米国がやってきたことをそっくりそのまま模倣してお返ししてやる」と意地悪に考えたのだと思います。

 ――ウクライナの民主化も、プーチン氏は「欧米が支援したからだ」と受け止めているのでしょうか。

 そういう面はありますね。彼としては「9・11の後にあれだけ助けてやったのに、ここに手を出すのか」と言いたい。

 ――逆に、欧米側はプーチン氏とうまく一緒にやれると思っていたわけですね。

 そうだと思います。実際、ブッシュ氏はプーチン氏について「信頼できる人」と言っている。ブッシュ米大統領はやはり、9・11の際の支援に恩義を感じていたと思います。

 ――ウクライナの民主化の進展度についてはどうでしょうか。かなり進んでいるように見えますが、一方で相変わらずオリガルヒ(新興財閥)は幅をきかせているとの指摘もあります。

 米政治学者ロバート・ダールがその著書「ポリアーキー」で唱えた古典的な図式によると、政治参加が可能か、公的な異議申し立てができるか、の二つの指標が満たされると「ポリアーキー」と見なされます。ポリアーキーはデモクラシー(民主主義)とほぼ同義語ですが、デモクラシーという言葉に少し手あかがついたために、定義し直したのです。投票はできるけど言論の自由がないなど、双方の指標を十分満たす国は少ない。この二つの指標で考えると、問題含みにしても、ウクライナは民主的な多元性を備えていると思います。特に、ロシアと比べた場合にそれは明らかです。

 たとえば、欧州連合(EU)加盟国でもハンガリーなどは逆に怪しくなっていますよね。政治的参加はできているけど、異議申し立ては不十分な感じがします。

 ――報道の自由など、ウクライナに抜かれたんじゃないかと思うことがあります。

 ありますね。

 ――ウクライナで選挙が実施され、政権交代が実現し、言論の自由もかなりある。プーチン大統領はそれを見て、危機感を感じたのでしょうか。

 放っておくと、同じような西側のイデオロギーに親和的な政権ができてしまうという危機感はあったと思います。

 ただ歴史を振り返ると、ロシアで常に反欧米の独裁者が君臨しているわけではない。いわば、ロシアンルーレットのようなものです。回転式拳銃の1発はゴルバチョフのような欧州の顔をしていて、2発ぐらいはエリツィン末期とかブレジネフのような停滞の顔で、後の2発はプーチン氏とかスターリンとかの顔です。

 たまに欧州の顔をする人が出てくるから、ロシアはやっかいなのだともいえます。常に専制君主なら、欧州はロシアを完全に異質なものと見なしてしまう。ところが、6回に1回はゴルバチョフのような人物が出てきて、欧州の顔をする。完全に疎外する対象でもないのです。
(論説委員・国末憲人) 

今朝の東京新聞から。

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ロシアが恐れたコサック社会 ウクライナの「成り行き民主主義」(朝日新聞有料記事より)

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  ロシア軍のウクライナ侵攻に端を発した戦争は、昨年2月の勃発からすでに500日を超えても、終息の兆しが見えない。侵攻の背景に何があったのか。ウクライナとロシアは、これからどこに向かうのか。ウクライナ史研究の第一人者として知られるセルヒー・プロヒーさんを、研究のため滞在中の北海道大学に訪ねた。

「NATO拡大」原因説は誤り

 ――プーチン大統領が侵攻に踏み切った理由は、いまだに議論を呼んでいます。一般的には、北大西洋条約機構(NATO)の拡大に反発したからと言われますが。

 「NATO拡大をロシアがおもしろく思わなかったのは確かですが、それが侵攻を招いたという言説は誤りです。ゼレンスキー大統領は昨年3月、ロシアとの和平のためにNATOへの早期加盟を断念する意向を示しましたが、ロシアは合意しなかったのですから」

 「侵攻の目的は、単にウクライナを支配するためです。NATOうんぬんはプーチン政権のプロパガンダに過ぎず、言ったプーチン氏自身でさえ信じていません。ロシアにとってNATOよりずっと大きな脅威と映ったのは『オレンジ革命』でした」

 ――ウクライナで2004年、大統領選の不正に抗議する市民が街頭に出て、再選挙で親欧米政権を誕生させた民主化運動ですね。

 「旧ソ連の中でロシアに次ぐ経済大国のウクライナに民主主義が定着するようになった。その影響は計り知れません。何より、ロシアが確立した権威主義政権の正当性が疑われます。プーチン氏は『西欧型の統治スタイルはロシアになじまない』『欧米とは異なる文明のロシアは独自の道を歩む』と主張しましたが、自ら一体性をうたうウクライナの民主化によって、その論理が崩れるのです」

 「民主化したウクライナには、欧州連合(EU)など欧米側の枠組みに加わる可能性が生まれます。『民主主義』は、地政学的な要素も含んでいるのです」

 「ソ連から独立した国の多くは、ロシアと同様に権威主義的な統治と発展への道を歩みました。民主主義を選んだ少数派の国の一つがウクライナです」

平等と民主的手法に基づいたコサック社会

 ――なぜロシアや他の国と違って、ウクライナは民主主義に進んだのでしょうか。

 「その謎を解くには、歴史をさかのぼる必要があります。ウクライナの建国神話は、近世のコサックの存在抜きには考えられません。ウクライナ国歌でも『我らはコサックの一族だ』とうたわれるほどです。コサック社会は、平等と民主的手法に基づいていたと言い伝えられます。このような認識が、現代の民主的な社会を築く意識を支えたといえます」

コサック

15~16世紀、現在のウクライナを中心とする平原地帯で、農民らによってつくられた一種の軍事共同体。アタマンと呼ばれる首長を選挙で選んだり、重要事項を全員集会で決めたりする制度を備えていた。ソ連時代に次第に消滅した。

 「ウクライナは、ロシア帝国やハプスブルク帝国など外部の大国に分断された歴史を持ちます。地域によって発展の形式も度合いも異なり、他を制圧するほど力を誇る地域も存在しない。これらの多様な地域が集まって独立国としてやっていくには、民主的な政府が最も機能しやすかった、という面もあります」

 「この状況は、18世紀建国時の米国と極めて似ています。全体を支配下に収めるほど有力な州がなく、結束を保つ手段として妥協と民主主義が使われたのです」

 ――つまり、ウクライナも米国も、市民が闘争の末に民主主義を勝ち取ったというより、民主主義が最も都合のいい手法だったと。

 「いわば『成り行き民主主義』ですね。ただ、成り行きで成立した民主主義は、意図して選んだ民主主義よりも、しばしばうまくいきます。逆に、無理して民主主義を選んでもなかなか機能しない地方が、世界にはありますし」

弱体化したオリガルヒ

 ――ウクライナでは、オリガルヒ(新興財閥)の存在が政治腐敗を招いていると批判されます。

 「オリガルヒがそれぞれメディアを所有することによってある種の多様性が保たれ、民主主義にとってプラスになった面が、ないわけではありません」

 「ただ、確かにオリガルヒの存在は、経済政治面の発展を阻害する要因となってきました。19年の大統領選に立候補したゼレンスキー氏は『脱オリガルヒ』を掲げ、就任後はビジネスとメディアを分離させる改革に取り組みました。その試みはある程度成功を収めたといえます。戦争の被害が大きい東部や南部で、そこを拠点とするオリガルヒの勢力がそがれたのも、改革に拍車をかけました」

 「オリガルヒは1990年代の台頭期に比べ、近年大幅に弱体化しています。その亡霊と戦うことに多くを割くべきではありません。現在のウクライナ経済を主導するのは、これら古い経済モデルではなく、農業やIT分野なのですから」

長引くほどロシア苦境に

 ――現在の戦争はどうなるでしょうか。

 「ロシアは今、ウクライナから併合したと主張する領土も国境も、統制できていません。自国の軍さえも、民間軍事会社が乱立し、制御できなくなっている。多くの若者が国外に逃げ出し、政権の正当性さえ疑われています。戦争が長引くほど、ロシアは苦境に陥るでしょう」

 ――6月には民間軍事会社ワグネルの創設者プリゴジン氏による「反乱」が起きました。

 「ロシア軍は冬の間、ウクライナで盛んに進撃を試みましたが、うまくいきませんでした。ワグネルはその過程で最も大きな損害を受け、だからこそ反乱に突き進んだのです。その目的は、プーチン政権を崩壊させることではなく、ショイグ国防相やゲラシモフ軍参謀総長の失脚でした」

 「試みは頓挫しましたが、反乱はプリゴジン氏自身の想像を上回る効果を生みました。ロシア軍も治安当局もなすすべがなく見守るだけで、市民の一部は反乱を支持する姿勢も示した。つまり、プーチン政権はもはや、危機を制御する能力も失い、その弱さをさらけ出しています」

ウクライナの市民社会、戦争でより強固に

 ――戦争が一段落した後のウクライナをどう見ますか。

 「困難はあると思いますが、私は楽観的に見ています。理由の一つは、ウクライナで市民社会が順調に形成され、腐敗撲滅運動に取り組んでいることです。その傾向は、今の戦争が始まって以降、より顕著になりました」

 「もう一つの理由は、日本を含めて国外の様々な機関がウクライナの改革を支援してくれることです。日本は特に、戦後の廃虚から復興した経験を持っています。ウクライナで生かしてもらいたい」

 ――ロシアはどうなりますか。

 「ロシアは90年代以降、『多極化世界』をモデルとして掲げ、EUや中国とともに自らがその極の一つになると考えました。実際には、今のロシアは、経済規模で世界の上位10位にも入りません。だからこそ旧ソ連を統合しようとしたのですが、政治的にも経済的にもその試みは失敗し、軍事的な手段に訴えざるを得なかったのが現実です。将来どころか、現在さえ見通せません」

逆転した中ロの立場

 ――あなたは著書で、ロシアと中国との立場が逆転したとも書いています。

 「中央アジア諸国を例に取ると、中国の影響はますます強まり、特にカザフスタンはロシアから離れ、独立した立場を取るようになっています。今回の戦争でロシアが軍事的な影響力を失った余波だと考えられます。中ロ関係は、今や中国が運転手でロシアは乗客。行き先を決めるのは運転手であって、乗客ではありません」

 ――国際社会の構図が大きく変わりつつあるように見えます。

 「今の世界を見渡すと、冷戦時代の対立に似ているようで、異なる面も小さくありません。何より、米国がかつてのような輝きを失い、自らが進むべき道さえ見失っているように見えます。だから、同盟国の日本やドイツに、より重要な役割が求められます」

 「ドイツが米国から国防費の増額を求められたのは一例ですが、45年に敗戦国となった日独でも今や、内部でその役割を問い直す議論が起きています。私たちは現在、第2次大戦以来の転換点に立っているといえるでしょう」

 「現在の戦争は、その破壊の大きさからも、世界への影響の度合いからも、戦後最大の規模になりかねません。日本も決して、無縁ではない。ウクライナは日本から地理的に遠いように見えますが、ロシアという同じ国と接しており、政治的にはずっと近いのです」

取材を終えて

 ウクライナに関して「腐敗がはびこる」「非効率でソ連時代そのもの」といった批判をしばしば耳にする。その多くの場合、語られるのは10年ほど前の、しかもロシアから見たイメージだ。

 そうした面が完全に拭えたわけではないものの、実際のウクライナは、特に2014年の民主化運動「マイダン革命」を受けて、大きな変化と改善を遂げた。歴史をさかのぼると同時に現在の情報の収集にも余念がないプロヒー教授が描くのは、こうして生まれた新しいこの国の姿だ。将来への楽観的な視座も、その営みから導き出されたのだろう。

 ただ、ウクライナは今、日常の案件すべてを脇に置いて、戦いに集中する状態にある。将来戦争が一段落すると、様々な問題が再び浮上するだろう。その時に向けて、軍事面にとどまらない多様な支援が必要とされている。
(論説委員・国末憲人

セルヒー・プロヒー 1957年生まれ。ウクライナ育ち。同国の現ドニプロ国立大学教授、ハーバード大学教授を歴任。
著書に「欧州の扉」「ロシア・ウクライナ戦争」など。

目の前の敵だけが相手ではない(朝日新聞有料記事より)

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 ウクライナ公共放送のミコラ・チェルノティツキー会長(39)は、日本だとNHKに相当する巨大メディアのかじ取りを、若くして担っている。放送施設がロシア軍の攻撃にさらされるなかで、戦地の模様を報じ、市民に必要な情報を伝えようと奮闘する。ユーモアあふれる語り口の一方で、報道機関としての責務を明確に意識している人物である。

 キーウでかねて懇意にしていた彼が、国際協力機構(JICA)などの招きで今年5月末に来日した。1週間の多忙な日程の合間に、新宿で落ち合い、語り合う機会があった。大衆和食店で生ビールと刺し身を注文した彼は、大好物のワサビを何度もお代わりして、店員を驚かせた。

 その際に、興味深い物語を聞いた。会長が以前勤務していた北東部スーミ州はロシアと国境を接し、ロシア軍の激しい攻撃を受けている。ところが、一部の地域では建物被害が少なく、畑にばかりロケット弾が落ちていた。現地の放送局の記者が不思議がっていたという。

     *

 その記者たちにとって謎が解けたのは、前線でロシア軍と非公式に接触したウクライナ軍からの情報が流れてきてからだった。ロシア側はウクライナ側に「当たらないように撃っている」と明かしたという。ロケット弾を撃ち尽くすと部隊は交代できる。だから早く在庫切れにして、前線から立ち退きたい。ロシア側はこう説明したというのである。

 上層部と現場との意識のずれは、大きな組織だとしばしば起きる。規律を重んじる軍隊でも、その傾向は避けられないのだろうか。あるいはロシア軍の一部で、規律自体のほころびが生じているのだろうか。

 このエピソードは、多少誇張されているかもしれないが、全くのつくり話とも思えない。筆者はかつて、似たような例を耳にしたからだ。

 2015年、ロシアに支援された親ロ派勢力が支配するウクライナ東部ドネツクに、ウクライナ政府の許可を得て足を踏み入れた。その前年から、ロシア軍・親ロ派勢力とウクライナ政府軍とは戦争状態にあり、ドネツク郊外で激しい戦闘を繰り広げていた。訪れた街では、砲撃音がひっきりなしに鳴り響いていた。

 その砲撃回数を、欧州安保協力機構(OSCE)の停戦監視団がドネツク駅を拠点に、毎日一定の時間を決めてカウントしていた。監視団報告によると、筆者が訪れた5月6日は、午後の4時間半の間に125回の爆発音が記録された。翌7日は4時間35分間で573回だった。

 すなわち、双方が連日何百発も砲弾を撃ち合っている。そう聞くと大激戦だが、けが人はまれにしか出ない。だから、両軍はわざと標的を外しているのではと、地元の人は疑っていた。戦闘を演じる暗黙のルールが生まれている、というのである。

     *

 いずれの逸話も、公式な記録には残りにくく、検証が難しい。ただ、戦いが長引いて硬直化した前線や、大義がぼやけて現場の士気が失われた戦場では、起き得るだろうと容易に想像できる。

 察するに、戦争とは、敵と味方が戦う単純なゲームではないのである。前線の部隊が相手にするのは、目の前の敵に限らない。いかに真剣に戦っているかを、兵士の背後にいる自陣にも示さなければならない。時には味方を欺いて、兵士を生きて帰らせる工夫も必要だろう。

 一方で、ウクライナ軍の反転攻勢が続く南部や東部の戦線では、正真正銘の死闘が続く。スーミ州でも最近、ロシア軍の攻撃で死者が出た。

 時と場所によって、戦争には様々な顔がある。その多様な場面が重なる複雑さにこそ、戦争の本質があるように思う。
(論説委員 国末憲人) 

今朝の東京新聞から。

P7261864

「すべてイスラエル次第。これが占領」 家も道路も壊された難民たち(朝日新聞有料記事より)

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 約1万8千人が密集して暮らす街はがれきだらけで、破壊された低層住宅がいくつもあった。イスラエル軍が今月初旬、「この20年で最大規模」の軍事作戦を展開した、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のジェニン難民キャンプ。イスラエル側は武装勢力の弱体化を果たしたと誇るが、生活の基盤を破壊されたパレスチナ人は憤り、悲嘆に暮れていた。

 3日未明に始まった作戦で攻撃されたジェニンの難民キャンプには、3~4階建ての建物が立ち並ぶ。

 中心部の道路はあちこちが掘り返され、アスファルトの下の土がむき出しになっていた。「イスラエル軍が、爆発物が埋められていることを警戒してやったんだ」と、重機で道路が破壊される音を聞いた住民は話す。

 「こんなにたくさんの爆発音を聞いたのは初めて」。主婦のアマル・サイドさん(40)は振り返った。自宅を壊され、賃料を収入源としてきた1階もつぶされた。「どうやって建て直せばよいのかわからない」と途方に暮れる。

 イスラエルは、ジェニンを「テロリストの巣窟」と名指しし、治安部隊による「対テロ作戦」を日常的に展開してきた。

 しかし、アマルさんの夫はすでに他界し、家族にも友人にも戦闘に関わっている人はいないという。3日、自宅の近くで複数の爆発が続いた後、20人ほどの治安部隊にドアを壊され、踏み込まれた。理由は分からなかったが、「まだ幼い子どもたちを守りたい一心で、窓から屋根を伝って逃げた」と語る。

 攻撃がやみ自宅へ戻ると、一部は焼け落ち、兵士たちが残したと思われる空き缶や菓子袋が散らばっていた。「私が抵抗できないのをわかっていたから」。作戦中、滞在する場所として使うために押し入られたのだろう、と考えている。

 暴力におびえる日々は耐えがたい。でも、「いったい、誰がこの状況から救ってくれるのか。パレスチナ自治政府は何もできない」とアマルさんは嘆き、自分たちを守れない「身内」にも怒りを向けた。アマルさんの父タウフィク・ファイエズさん(74)は、自治政府に期待する住民は、もはやほとんどいないと話す。「結局すべてイスラエル次第。占領されるとはそういうことだ」と語った。

 AP通信によると、今回の作戦で少なくともパレスチナ人13人、イスラエル兵1人が死亡した。パレスチナ保健当局は、100人以上の負傷者が出たとしている。イスラエル軍は、難民キャンプ内に潜伏する武装勢力やその軍事拠点が標的だったとしているが、20回に及ぶ空爆や銃撃戦で、多くの道路や家屋、インフラが破壊された。

 国連のグテーレス事務総長は6日、イスラエル軍の作戦について、「明らかに過剰な暴力の行使があった」と批判し、自制するよう求めた。

 今回の作戦は、2000年代初頭の第2次インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)以来の規模だったと報じられた。

 なぜ、イスラエル軍はこのタイミングで、大規模作戦に踏み切ったのか。

 イスラエルの対外諜報機関モサドの元長官ダニー・ヤトム氏は、約20年前との比較は適切ではないとした上で、「抑止力の回復のために軍事力を示すことが必要だと考えたのだろう」と指摘する。

 ジェニンは、パレスチナ自治政府の影響力が弱い地域で、イスラエルの「敵国」イランが支援する武装組織イスラム聖戦や、イスラム組織ハマスなどの活動が活発だ。イスラエル側は、この地域に潜伏する武装組織のメンバーらがイスラエル領や入植地への襲撃を繰り返しているとし、断続的に「対テロ作戦」を続けている。

 武装勢力の中心を担うのは、第2次インティファーダが制圧された当時の記憶を持たない若者たちだ。抑え込むには「力を知らしめる」ことが必要だという意見は治安当局関係者の間では根強いとされる。

 ただ、イスラエルとパレスチナの和平への道筋が見えないなか、今回の作戦がさらに緊張を激化させることへの懸念もある。実際、イスラエル軍がジェニンから撤退した5日、パレスチナ自治区ガザ地区の武装組織がイスラエルに向けてロケット弾を発射し、イスラエル側も空爆で応じた。

 地元有力紙ハアレツは、「史上最も右翼的」と評されるネタニヤフ政権は、パレスチナ武装勢力に対して「弱腰」と見られるわけにいかないことが作戦の背景にあるとの分析を紹介した。

 「抑止力の回復」についても、政権がパレスチナ自治区で、ユダヤ人入植地の大幅な拡大などパレスチナ人の絶望を深める政策を進めている中で、さらに攻撃を加えたことは逆効果になりうる、と論評した。
(ジェニン=高久潤) 

今朝の東京新聞から。

P7261863

没後50年、石橋湛山の先見性 戦前から貫いた個人の自立守る思想(朝日新聞有料記事より)

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 植民地を放棄する「小日本主義」を戦前に唱えた言論人、石橋湛山(1884~1973年)の先見性が改めて注目されています。戦後は56年に自民党総裁として首相にもなりましたが、在職65日の短命政権に。没後50年、その思想の今日的な意味を、共立女子大准教授の上田美和さんに聞きました。

 ――上田さんは石橋湛山のどこにひかれたのでしょうか。

 「最初はやはり、小日本主義です。1920年代、経済ジャーナリストとして日本の自発的な植民地放棄論を打ち出したのは、歴史に名を残す成果だったと思います。ただ、湛山は当時の国益を考えた結果として大日本主義を批判したのであって、生涯、小日本主義を言い続けたわけではありません」

 「湛山の根底にあるのは、小日本主義ではなく、経済合理主義だったと思います。植民地支配には合理性がなく、国益に合致しないと考えたのです。もう一つは、自己の支配を重んじる自立主義です。現地の人々が自分で決める意思を踏みにじる植民地支配は、放棄すべきだと考えました」

 「ただ、小日本主義は『時期限定』で、30年代になると朝鮮・台湾植民地や満州国の存在を認める主張をしています。言論統制に屈したのではなく、戦時経済の下で小日本主義を唱える余地がなくなったためです。さらに言えば、自分の自立が揺らぎかねない事態に、それを捨ててまで他者の自立をどこまで受け入れるのか、という問題にもなってきます」

 ――戦時で他者の自立どころではなくなったのでしょうか。

 「平和な時はそういう心配をしなくて済むんです。他者の自立を認めながら商売をすれば、自分も他者も豊かになる。湛山はそういう世界を望んでいましたが、戦争になると、他国の自立をおかさなければ自国の自立を実現できない状態に陥ってしまう。湛山は愛国者でもあるので『自分の国はどうなってもいい』とは言いませんでした」

言論による抵抗、貫いた信念

 「開戦後は筆を折る選択肢もあったと思うのですが、湛山は愛国者として、言論で抵抗を続けました。『戦争の遂行は誤りだ』と忠言する『争臣』がいなければ国は危うくなると考えたのです。終戦直後、湛山は『日本の発展のために米英とともに日本内部の逆悪と戦っていたのだから、今回の敗戦は悲しくない』と日記に書いています」

 ――その思想を貫くものとは何だったと思いますか。

 「湛山が貫いたのは自由主義であり、そこにはナショナリズムが含まれるというのが私の見方です。彼は徹底した民主主義者でもあります。平和な方が国益に合致するので戦争はしない方がいいと考える一方、民主主義による選択の結果、国民が戦争を選ぶなら仕方ないという考えも示しています」

 ――戦後、自民党の首相にもなった湛山は、軍事の役割を否定しませんでした。

 「そこは彼なりの現実主義なのでしょう。湛山は再軍備論を主張し、『経済を圧迫しない程度に』という限界点も設けました。『米国への過度の依存はよくない』という自立の考え方からです。一方で、『日中米ソ平和同盟構想』を提唱し、中国やソ連などを単身、訪問したりして、自民党内から冷たい目でみられることもありました」

 ――理想と現実、どちらを重視していたのでしょうか。

 「二者択一ではありません。私は湛山を『理想を捨てない現実主義者』ととらえています。20年代は小日本主義を唱えたのが、戦争の時代には自国の経済が持ちこたえることにも配慮していました。戦後は冷戦の終結を願い、かなり理想主義的な行動もとっています。経済合理性と自立を考えながら『理想に近づくために現実的に行動する』ということだと思います」

 ――リアリストの側面だけでは片付けられないと。

 「そうですね。私が重要だと思うのは湛山の個人主義です。駆け出しの記者時代、個人の人生を邪魔するなら、国家の方を変えなければならないのだ、と述べ、30年代にも『自由主義は個人主義の別名である』と語っています。でも戦時になると『個人の生命より国家の存亡が優先だ』となりがちで、湛山も戦争を止めることはできなかった。そこに示された自由主義の難所をどう乗り越えるかが、今日的な課題かもしれません」

 「そう考えると、戦時であっても、国家の自立だけでなく、個人の自立をできるだけ守るべきだと私は思うんです。現在のウクライナ危機に対して何ができるのか。具体策として、現地の希望する人々を国外に救出する『人道回廊』への支援が挙げられます。戦争中でも個人の存在に目を向けて『人間の安全保障』に力を入れていく。自由主義には、まだやれることがあるはずです」
(聞き手・小村田義之)

石橋湛山

1884年生まれ、1911年に東洋経済新報社入社。21年に「小日本主義」を主張し、植民地を放棄して軽武装の貿易国家をめざす論陣を張った。戦後は衆院議員に転じ、56年に自民党総裁として首相になったが、病気のため在職65日で総辞職。73年に死去。

 うえだ・みわ 1973年生まれ。英オックスフォード大大学院、早稲田大講師などを経て共立女子大准教授。
著書に「石橋湛山論」「自由主義は戦争を止められるのか」。
 
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