

今年7月、日中戦争やアジア・太平洋戦争での浄土宗(総本山・知恩院、京都市東山区)の戦争協力についてまとめた報告書が公表された。僧侶有志らでつくる浄土宗平和協会が、学者と共に専門委員会を立ち上げ、3年かけて作成した。終戦から70年以上が過ぎた今、報告書を出す意義とは何か。大津市御幸町にある願海寺の住職で、同協会の理事長を務める廣瀬卓爾さん(78)に聞いた。
「戦争協力の全体像が分かるものを」
――まず、浄土宗平和協会が戦争協力についての報告書をまとめることになった経緯について教えてください。
浄土宗の総括が非常に中途半端だと感じていたからです。戦後、教団は節目節目で戦争協力について反省する言葉を発していますが、では実態として何をしたのかについては十分に振り返ってきませんでした。
浄土宗総合研究所(東京都港区)では、個々の僧侶が学術的には評価の高い成果を出していましたが、論文で発表してもなかなか読んでもらえません。5年前に平和協会の理事長を引き受けたことを機会に、専門委員会を作って、戦争協力の全体像が分かるものをまとめることにしました。
――2019年に立ち上げた「浄土宗『戦時資料』に関する委員会」では、どのような手法で歴史的な検証をしましたか。
浄土宗の「宗報」や、宗内で発行された当時の資料に基づいて、日中戦争の開戦(1937年)から、アジア・太平洋戦争の敗戦(1945年)までの戦時協力について分析しました。この分野に精通する宗門内の研究者12人と学者2人の計14人で委員会を作り、宗教社会学者で佛教大学教授の大谷栄一さんに委員長になってもらいました。議論を重ね、作成まで3年かかりました。
終戦後も教団の要職に
――報告書では、当時の教団幹部の実名が出てきます。実名については、委員会でも議論になったそうですね。
戦時中はあらゆる宗教団体が戦争協力をしていましたし、当時の状況では協力を拒むことはかなり難しかったと思います。しかも、終戦後も教団の要職に就いた人や、その薫陶を受けた教団幹部が多くいます。委員会のメンバーは教団内部の若手がほとんどなので、リスクもありました。でも、私は公的な文書に名前があるものは、匿名にするべきではないと考え、委員のみなさんにも了承してもらいました。
天皇と阿弥陀仏を同一視、なぜ
――報告書の内容で驚いたのは、浄土宗は戦時中、天皇と阿弥陀仏を同一であるかのように教説で示していたことです。
戦争協力のために、また当時の翼賛的な思潮に合わせてそのような主張をする人まで出てしまいました。その論理については、何度、資料を読んでもよく理解できません。浄土宗にとって、阿弥陀様はとても大事な仏様です。なぜ天皇と同一視してしまったのか。もちろん当時は厳しい状況でしたが、資料からは、ためらうことなく積極的に理由付けをしているようにも読めます。宗祖の法然上人や釈尊の名前が一切出てこない。宗教者であるにもかかわらず、自分が信じているものに依拠せず、教説を曲げている姿勢には愕然たる思いを覚えます。
一方、出征する同門僧侶にとって、教説に阿弥陀様と天皇が同一とあるならば、天皇の命令に従うしかありません。
――協会では、報告書作りに合わせて、浄土宗の寺院に戦時資料の提供を呼びかけました。
北海道から大分まで、全国の34の寺院から提供がありました。金属供出で、仏具や梵鐘(ぼんしょう)を献納したことはよく知られていますが、中には、本尊である阿弥陀如来の仏像を献納したことを示す写真までありました。
日清戦争の小冊子にも
――戦時体制への協力は、日中戦争の開戦(1937年)よりずっと前から始まっていたそうですね。
調査の過程で、伊藤唯眞門主から小冊子の提供がありました。1894年の日清戦争の開戦直後に、浄土宗が出した「報恩教話」で、当時の日野霊瑞管長が、出征兵士に向けて説いたものです。報告書の最後にあえて全文を掲載しているのですが、教話には「身命を惜しまず天皇の恩に報いることは、臣下たるものの大義名分なので怠ってはならない」とあります。伊藤門主も内容を知って衝撃を受けたとおっしゃっていました。
――7月に報告書を川中光教・宗務総長に提出しました。浄土宗の戦争協力について、現在も問い続ける理由を改めて教えて下さい。
まずは、教団に、戦時下に教団が何を為し何を為さずにいたのかをしっかりと認識してもらいたいのです。次に、若い世代の住職に、戦争協力の事実を知って欲しいという思いがあります。仏教の「不殺生戒」をなぜ守ることができなかったのか。当時の状況だから仕方がなかったという風に思う人が多いかもしれませんが、今の私たちが同じ立場だったらどうすればよかったのかを考え続けて欲しいのです。(聞き手・西田健作)