香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2023年11月

今朝の東京新聞から。

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今朝の東京新聞から。

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狙われたパレスチナ人の象徴 入植者はオリーブ畑を襲い、木を焼いた(朝日新聞有料記事より)

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 イスラエル軍とイスラム組織ハマスとの戦闘開始後、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区でユダヤ人入植者による暴力的な土地の収奪がエスカレートしている。死者や逮捕者も過去最悪の水準で急増。もう一つのパレスチナ自治区、ガザ地区の人道危機に注目が集まるなか、西岸地区の人権状況も悪化の一途をたどっている。

 なだらかな茶色い丘陵地帯に、青々としたオリーブの木々が映える。パレスチナ自治政府のあるラマラ郊外の村、トゥルムサイヤ。11月17日、サアディ・アルカムさん(48)は、所有するオリーブ畑で妻と4人の子どもと一緒に収穫をしていた。100人を超す入植者に取り囲まれたのは、午前9時ごろだった。

棒を振り回し、「ここは我々の土地だ」

 丘の上にある入植地から畑までは数百メートル。数人の若者は石を投げ、棒を振り回しながら「ここは我々の土地だ」と叫んだ。

 一番年下の11歳の娘は泣いて怖がった。アルカムさんはその場にいたライフル銃を肩に下げた男性をイスラエル兵だと思い助けを求めた。だが、男性は武装した入植者だった。

 そして、こう言い放った。

 「お前たちは多くのイスラエル人を殺した。今度はお前たちを皆殺しにする」

 命の危険を感じたアルカムさんはそれ以来、オリーブ畑に入っていない。「実を盗まれ、木を壊されているかもしれないが、どうしようもない」と嘆く。

 アクッド・アブサムラさん(57)もこの日、自分のオリーブ畑で約50人の入植者の集団に襲われた。

 「3分以内に立ち去れ。さもなければ(隣国の)ヨルダンに追い出してやる」

 アラビア語でそう告げられた。多くは10代や20代の若者で、一部は拳銃を持ちマスクをかぶっていた。銃で車を撃たれたが、ケガはなかったという。

 アブサムラさんは「オリーブの木が入植者に焼かれる嫌がらせは絶えない」と訴える。木を枯れさせるため、穴をあけて薬品を流し込まれたこともあったという。

 10~11月はオリーブの収穫期で、家族や友人が総出で作業に当たる。村では住民約3千人の大半がオリーブの産業に従事し、貴重な収入源としている。パレスチナ人にとって、長いと樹齢が数百年にもなるオリーブの木は、この地に根付く自分たちを象徴する存在でもある。ラフィ・シャラビ村長(63)は「入植者は他の植物ではなく、オリーブばかりを狙う」と話す。

居住地も標的に

 狙われるのは、農地だけではない。

 パレスチナ人が居住地から強制的に追い出される事例も急増。イスラエルの人権団体「ベツェレム」によると、戦闘開始後だけで16の集落で、約1千人にのぼる。これらの地域はイスラエルが治安権限を持つが、軍や警察は取り締まるどころか、「入植者を支援している」と指摘する。

 西岸地区で暴力が増える背景には、史上最も右寄りと言われるネタニヤフ政権の強硬姿勢も関係する。

 入植地の住宅建設などを所管する財務相で極右政党党首のスモトリッチ氏は、西岸地区のある町を「消し去るべきだ」といった過激な発言を連発しており、入植者が呼応している。

 自治政府で入植者からのパレスチナ市民の保護を担当する当局幹部のアミール・ダウード氏は「今は小さな町にとどまるが、都市でも同じことが起きるかもしれない」と危機感を強める。

 イスラエル軍などによる西岸地区のパレスチナ人への取り締まりも強まる。

 10月7日にハマスとイスラエルの戦闘が始まってからの逮捕者は、少なくとも3千人。SNSに、テロを扇動する書き込みをしたなどとして逮捕される例も報告されている。空爆やパレスチナ人との衝突も起きており、国連人道問題調整事務所(OCHA)によると、今年の西岸地区の死者数は17日時点で過去15年で最多の402人に達し、最多だった昨年の2・6倍となった。
(トゥルムサイヤ=井上亮) 

「口に出せば確実に狙ってくる」 強まる言論統制、白紙運動後の中国(朝日新聞有料記事より)

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 中国各地の若者たちが、ゼロコロナ政策への抗議と言論の不自由への批判を込めて白い紙を掲げた「白紙運動」から1年となる。言論統制を強める習近平体制下では極めて異例の動きとされたが、その後は締め付けが厳しくなり、人々が声を上げることは一層難しくなっている。

現状は「道路以目」

 「デモは爽快、その後は地獄。人生で最も恐ろしい時間だった」

 昨年11月27日夜、北京市内で抗議運動に参加した20代女性は、こう振り返る。

 当時、厳しい行動制限で、街はロックダウン状態。コロナ禍で失業したまま仕事も見つからず、家に閉じ込められていては「生きていけない」と抗議に加わった。

 約1週間後、政府はゼロコロナ政策の大幅緩和を決め、行動規制は一気に解除された。だが、その後、一緒に路上に立った知人たちが、相次いで拘束された。

 自分も捕まるのでは――。家のドアを何重にロックしても恐怖で夜も眠れず、一時は体調も崩した。いまの言論状況について、女性は「道路以目」という故事成語で表現する。「暴虐な統治下では、人々は道行く人と目配せするしかない」という意味だ。「口に出せば、(当局は)確実に狙いを定めてくる」

表面化する前に…

 当局の取り締まりは、事後の拘束だけでなく、事前に動きの「芽を摘む」段階にも及んでいる。

 多くの社会運動も「一層の困難に直面している」との声もある。ネットメディアに記事を出しつつ女性の権利向上に関わる30代の女性ライターだ。「白紙」の担い手には女性が置かれた状況に強い問題意識を抱く若者も多く、当局の「ターゲット」のひとつとされる。

 こうした運動について、女性は「表面化する前につぶされている」と指摘する。最大の要因は、当局による通信内容の監視だ。女性らが勉強会を開こうとすれば、一人一人に当局から「参加しないように」と事前に連絡がくるという。「毎回場所を変えて細々と開くしかなくなった」という。

 北京の外交筋などによると、白紙運動の「第2弾」のデモを開く動きもあったが、当局が察知して封じたとの情報もある。

 中国版LINEともいえる「微信」のやりとりは当局に「筒抜け」だ。共有した記事や動画に敏感な内容があれば、投稿やアカウントは削除される。匿名性が高いとされる外国アプリの利用も増えているが、100%安全との確証はなく、隠語や伏せ字を使うことが半ば一般化している。

前首相の葬儀でも

 政権への批判が上がるのを警戒する当局の姿勢は、10月に李克強前首相が急逝した際にも鮮明だった。

 李氏が少年時代を過ごした安徽省合肥の旧居や、告別式のあった北京の八宝山革命公墓では、付近の路上に多くの治安要員が立ち、市民が集まりすぎないよう厳戒態勢がとられた。

 李氏の母校・北京大学では死後1週間、ハロウィーンなどの活動を禁止。学生によると、「追悼のため」と説明があったという。だが、同大は1989年の天安門事件で弾圧された民主化運動と縁が深い。改革派とされた胡耀邦元総書記の追悼が運動につながったため、当局が学生の動きを警戒したとの見方がある。

 中国ではこの他にも、「外国と結託する勢力」とみなされたNGO(非政府組織)の活動停止や、人権派弁護士への圧力も続く。ライターの女性は「今の中国で、市民が声を上げて社会や制度を変えることはほぼあり得ない」と語る。
(北京=畑宗太郎)

ゼロコロナ政策と白紙運動

 コロナ禍で、中国は厳格な移動制限を課すゼロコロナ政策をとった。しかし、終盤は厳しすぎる制限に人々の不満が蓄積。2022年11月24日に新疆ウイグル自治区ウルムチ市の火災で10人が亡くなると、防疫対策が原因で救助が遅れたとの認識が広がり、各地で抗議が起きた。その際、言論の不自由さを批判して掲げられた白い紙が抗議運動の象徴になった。直後にゼロコロナ政策は終わったが、感染爆発で多くの高齢者が亡くなったとされる。 

イスラエルとパレスチナ 二つの民をつなぐ人々の覚悟 N.Y.Timesコラム(朝日新聞有料記事より)

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ニコラス・クリストフ

 イスラエルのテルアビブより。この数週間、私のイスラエルとヨルダン川西岸からのコラムは憂鬱なものばかりだった。それは、私たちが全てを悪化させる血にまみれた負のスパイラルに陥っているという私の不安によるものだ。そこで、私が小さな希望の光として見たものを紹介させてほしい。

 こんなものを見つけるとは想像していなかった。今回の旅では、イスラエル人とパレスチナ人を結びつけるために何年も活動する市民団体と出会った。だが、率直に言って、私は彼らの努力に懐疑的だった。

 少しは成果もあっただろう、と思ってはいた。だが、米国が資金提供している場合も多いが、架け橋を築こうとする自己満足のプログラムに過ぎないのではないか。なんと言っても今日、私たちは戦争に巻き込まれているではないか、と。

 しかし、数週間前にテルアビブで対談したイスラエル人女性、メイタル・オファーさんの話をしたい。イスラム組織ハマスの2人のテロリストが彼女の父親におのを41回たたきつけて殺害してから10年となる月だった。

 「どうしてあんなことができるのだろう?」。不思議そうに彼女は言った。「心の中にものすごい憎しみがなければ、あんなことはできません」

 オファーさんはその敵意がどこから来たのか思案した。事件の後、彼女はイスラエル占領地で時々あるように、犯人の家を破壊することを考えた。彼女はそれでは何の解決にもならないとの結論に達した。

 「復讐の連鎖が大きくなるだけです」と彼女は言う。父親殺害の後、紛争で愛する家族を失った人たちでつくるイスラエルとパレスチナの共同非営利団体「ペアレンツ・サークル―家族フォーラム」に加わった。彼らは対話の場を持ち、深い溝の反対側にいる人たちと悲しみの絆で結ばれ、激化する流血の惨事を終わらせるために共に講演を行っている。

 私は懐疑的な考えを示した。これで本当に何かが成し遂げられるのだろうか。

 「他に選択肢はないと思います。ここは私の故郷。私は故郷を捨てたくない」と彼女は言った。「私はどこにも行きたくないし、パレスチナ人も同じでしょう」

 そして、強く主張した。「私たちは何かしなければなりません」と彼女は言った。「暴力を暴力で止めることはできません。私たちはそれを100年間試し、そして機能しなかったのです」

 イスラエル人とパレスチナ人の遺族の話を一緒に聞くことは、子どもたちにとってショッキングなことだと彼女は言う。彼らの多くが、自分たちのグループの外にある死について、あまり考えたことがないためだ。このような話し合いが効果的であることを示すひとつの証拠がある。(イスラエルの)極右政権は今年、公立学校でのペアレンツ・サークルの活動を禁止したのだ。

「我々はお互いを人間だと思っていない」

 バッサム・アラミンさんは、ペアレンツ・サークルのパレスチナ人登壇者として時々参加する。彼は17歳のとき、当時非合法とされたパレスチナ人組織に所属し、武器を所持していたためにイスラエルによって投獄され、7年間を獄中で過ごした。そして2007年、10歳の娘アビルが学校の外で、イスラエル兵の発砲したゴム弾によって殺害された。

 アラミンさんは爆弾にではなく、和解に救いを求めた。修士課程でホロコースト(ユダヤ人大虐殺)について学び、優れたヘブライ語を習得し、ヨルダン川西岸の検問所にいるイスラエル兵に人間性を見いだそうとした。

 互いの人間性を認めなくなる過程の中で、互いに相手を道徳的に劣った存在とみなすようになったと彼は言う。イスラエル人はしばしば、パレスチナ人が子どもを愛しておらず、闘争のために犠牲にする用意があることが問題だと指摘するが、パレスチナ人もイスラエル人について同様の固定観念を持っている。

 「我々はお互いを人間だと思っていない」と彼は言った。そして、嫌々ながらペアレンツ・サークルの集会にやってきたあるパレスチナ人の母親の話をした。彼女は10代の息子をイスラエル兵に殺害され、ユダヤ人に怒りを抱いていた。

 「彼女はユダヤ人をけだものだと信じていた」とアラミンさん。「イスラエル人には私たちのような心はない。彼らは自分たちの子どもを憎んでいる。子どもたちを軍隊に送っているのだから」と彼女は語ったという。しかし、パレスチナ人に子どもを殺されたと話したイスラエル人の母親と出会うと、すぐに彼女たちは泣きながら抱き合った。

 アラミンさんは、イスラエルが検問所で女性を含むヨルダン川西岸のパレスチナ人を日常的に虐待しているのを見て憤慨しているが、そこにいる兵士たちには人間性を感じている。

 「彼らはまるで殺人マシンのようですが、私たちを恐れているのです」と言う。アラミンさんは、私と会う前日、妻と共に車で子どもたちを訪ねた。ヨルダン川西岸のイスラエル検問所で延々と待たされ、屈辱的な思いをさせられることがないように、山道のルートを通ったという。しかし、4人のイスラエル兵に行く手を阻まれた。兵士らは怒りながら引き返せと言い、車を押収すると脅した。アラミンさんはヘブライ語で穏やかに話しかけ、兵士たちの恐怖を理解すると、ほどなく普通に話せるようになったという。結局、引き返させられたが、兵士らはそのことについて謝ったという。

いつか共存する ほかに選択肢はない

 私はアラミンさんに、こうした相互理解を促進する組織は、二つの国家が共存すると期待されたオスロ和平プロセスのころに始まったものがほとんどだと指摘した。今、そのプロセスは死んでいないにせよ、休眠状態にある。ペアレンツ・サークルがイスラエルとパレスチナの子どもたちがお互いを知るためのキャンプを開催するのはいいことだ。だが、ガザ地区の境界の両側で人々の命を救うためにはどうすればよいのか。

 歴史の弧は長い、と彼は答えた。ドイツはかつてユダヤ人を絶滅させようとし、今はイスラエルと大使を交換している。いつかイスラエルとパレスチナは国家として共存することになるだろう、問題はそうなるまでに遺体がどれだけ積み上がるかだ、と話した。

 「国家の数が一つであれ、二つであれ、五つであれ、私たちはこの土地を共有しなければなりません。そうでなければ、この同じ土地を子どもたちの墓場として共有することになるでしょう」

 この理解への努力がうまくいくのか、私にはわからない。ハマスの攻撃とガザ地区での戦争は恐怖とトラウマを増大させている。ペアレンツ・サークルのイスラエル人ディレクター、ユバル・ラハミムさんでさえ、自分たちが流れに逆らって泳いでいると認めている。

 「新人の採用面接の際、『毎日イライラする覚悟はありますか』と聞きます」と彼は言った。「成功が見えないからです。でも、いずれ状況は変わるでしょう。他に選択肢はありません」

 ラハミムさん、オファーさん、アラミンさんたちと話し、多くの大統領や首相にはなかった道徳的なリーダーシップを発揮してくれた彼らに感謝の念を抱いた。実際に平和への道を切り開くことに成功するかどうかはわからないが、私たちが前進する希望を持つためには、このような感情の微妙さを感じ取り、相手に共感できる英雄たちが必要なのだ。

 中東でこだましているように、私たちアメリカ人は自分たちの国において有害な、あるいは凝り固まった偏見による戦いに巻き込まれることが多くなっている。私たちは放火犯からではなく、和解、癒やし、進歩のために人間の能力を示す消防士たちから学ぶべきなのだ。 

今朝の東京新聞から。

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「君と別れて」成瀬巳喜男(1933、サイレント)

今朝の東京新聞から。

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東京新聞・日曜版より

幼児退行現象のスピードが速くてもう。


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ともに悲しき「離散の民」 イスラエルとパレスチナ人、対立の根源は(朝日新聞有料記事より)

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  Diaspora(ディアスポラ)。「あちこちに種をまく」というギリシャ語に由来する「離散」を意味する語は、長くユダヤ人を指した。しかし、ユダヤ人国家イスラエルの建国で、今度はパレスチナに暮らしてきたアラブ人が新たなディアスポラとなった。悲しき対立と衝突の根源を、中東地域研究者の錦田愛子さんに聞いた。

 にしきだ・あいこ 1977年生まれ。慶応大学教授。専門は移民・難民研究、現代パレスチナ・イスラエル政治。ヨルダン、レバノン、イスラエルなどで在外研究の経験がある。

 ――1948年のイスラエル建国以来、争いが断続的に続いてきました。

 「この争いを、ユダヤ教とイスラム教の対立と説明する向きもありますが、そう解釈すると見誤ります。確かに宗教が関わる面もありますが、これは宗教的対立ではなく、土地とアイデンティティーを巡る争いです」

 「パレスチナとは元々、イスラエルを含む、この地域全体を指す土地の名称です」

 「イスラエルの博物館に行くと、ユダヤ教が中心の社会があった古代から説明が始まります。ユダヤ教徒は新バビロニア王国やローマ帝国によってパレスチナの地を追われ、世界中に離散していきました。彼らは『ディアスポラ』(離散)の民とも呼ばれています」

 「ユダヤ教を源流にキリスト教が誕生し、さらに7世紀にイスラム教が起こると、パレスチナは主にイスラム教徒を中心とするアラブ人が暮らす土地になりました。周辺のエジプトやシリア、ヨルダンなども含め、アラブ人にはユダヤ教徒もキリスト教徒もいます。この地域は本来、同様にエルサレムを聖地とする三つの宗教が共存する土地です。パレスチナも、かつては中立的な地名でした。イスラエル建国以前、ユダヤ人がこの地で作った楽団が『パレスチナ交響楽団』を名乗ったほどです」

 ――その地に、ユダヤ人国家が建設されました。

 「離散したユダヤ教徒たちは、キリスト教が根付いた欧州では少数派の異教徒として、ときに迫害を受けました。ナチスによるホロコースト(大虐殺)は、その象徴的な出来事です」

 「一部のユダヤ教徒の間ではすでに19世紀に、反ユダヤ主義から逃れるため、ユダヤ人の国家を作ろうとする『シオニズム運動』が始まっていました。20世紀初めのパレスチナはオスマン帝国統治下でしたが、大英帝国は第1次世界大戦を有利に進めるため、アラブ人と、ユダヤ人財閥の双方に、将来の国家建設を約束するような『三枚舌外交』を展開したのです。約束はいずれも果たされませんでしたが、第2次大戦後にユダヤ人がイスラエルを建国。反対するアラブ諸国との間で1973年までに4度の中東戦争が起きました」

 「こうして建国されたイスラエルは、ユダヤ人にとって重要な生存圏とみなされています。すなわち安全な国土の確保が最優先課題なのです。今、イスラエルが強い国際批判を受けながらも、それを半ば無視したように激しくガザ地区を攻撃しているのは、10月7日の攻撃で『生存圏』が著しく脅かされたととらえ、その脅威を徹底的に排除しようとしているからです」

 ――イスラエル建国で、今度はアラブ人がパレスチナの地を追われました。

 「オスマン帝国時代は、この地域一帯で人々が自由に移動をしていました。しかしエジプトやシリアなど国民国家の形成が始まると、国民意識が生まれます。パレスチナを追われた人々は、逃れた先のほとんどの周辺国で国籍を得ることが出来ませんでした。彼らは出身地域の名前から『パレスチナ人』と呼ばれ、難民となりました」

 「イスラエル建国を、アラビア語で『ナクバ』(大災厄)と言います。このナクバによる離散という体験が、現在のパレスチナ人のアイデンティティーの根底にあります。パレスチナ人もまた離散の民、ディアスポラなのです」

 ――パレスチナ地域に住んでいたアラブ人が、ナクバという共通経験をもとに新たなアイデンティティーを構築し、今の「パレスチナ人」になった、と。

 「彼らの中には、故郷を中心としたアイデンティティーが今も強く根付いています。以前、レバノンでパレスチナ難民への世論調査をしたのですが、その結果は大変興味深いものでした。『帰れるならどこに帰りたいですか』と尋ねると、大半がパレスチナ自治区ではなく、イスラエル領内と答えました。それは彼らの出身地がイスラエル領内にあるからです」

 「この地域の建物は石造りで、何世代にもわたり住み続けられてきました。現在レバノンに住むパレスチナ難民の故郷の家は、廃虚となってイスラエル領内にまだ残されています。庭や畑で育てていたオリーブは大木となっています。それは、彼ら自身がその土地に根づいていることを象徴する存在です。イスラエルがブルドーザーで掘り返す光景がニュースなどでよく報じられますが、それは、自分や先祖の存在証明を否定されるのと同じ意味を持つのです」

 「ナクバで土地を奪われたという共通体験を持つ人たちが、『架空の国民国家』としてのパレスチナ国家を想像することで一体性を保っているのです」

 ――それが今も続いている。

 「イスラエル建国以来、75年にわたり、パレスチナ人にとっては占領が続いてきました。オスロ合意により95年にはヨルダン川西岸地区とガザ地区で自治が認められましたが、その後もイスラエルが入植地を拡大するなどの動きは続きました」

 「一方、今世紀に入ると、イスラエルと自治区の間には壁が築かれ、ガザからユダヤ人入植地が撤退し、次第にイスラエル人とパレスチナ人の生活空間は分離されていきました。イスラエル人の多くは、パレスチナ人の存在を意識することなく暮らせるようになりました。近年では衝突も減り、いまのイスラエルの若者にとって占領は、どこか遠くの出来事のようなものになっていました」

 ――自国による占領により、新たな離散の民を生み出した自覚はなかったと。

 「対立による衝突や危険が遠のいたことで、まだパレスチナ人との構造的な紛争下にあるということを忘れて、日常生活を送れるようになっていたのです。イスラエルはユダヤ人の安全な生存圏として確立された、という意識だったのでしょう」

 ――そこに今年10月、ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスら武装勢力による、大規模な越境攻撃が起きました。

 「背景にあったのは、パレスチナ問題が忘れられていくことへの焦りで、イスラエルだけでなくアラブ諸国や他の国々への強いメッセージも込められていたように思います。国連のグテーレス事務総長も今回、パレスチナ問題は長年放置されてきたと認めました。国際社会の関心の低下の中で、実力行使により注意を呼び覚ますという効果の面では、今回の展開は87年に起きた第1次インティファーダ(民衆蜂起)に似ていると思います。それと同じ効果をハマスは狙ったのかもしれません」

 「今回の攻撃の影響として長期的に懸念されるのは、これまでパレスチナ人との対話を可能と考え、共生を訴えてきたイスラエルの左派が、壊滅的打撃を受けるだろうということです。多くの民間人が殺害されたため、もうパレスチナ人とは対話できない、と考え始める人が多くなるのではないでしょうか」

 「イスラエルの国内政治は、長期政権となったネタニヤフ首相への賛否をめぐり激しく分断されていました。しかし、突然舞い込んだ暴力で1200人もの命が奪われた。それが、かつての離散や大虐殺の記憶と結びつき、平時は隠れている『ディアスポラ』という基層的な意識により、イスラエル人の間の結束を強めるかもしれません」

 ――この対立に終わりはあるのでしょうか。

 「両者のナショナリズムは、それぞれの過去の犠牲の上に生まれ、今日まで続いてきたものですが、自分たちの犠牲者性を強調しあう限り、紛争の終わりは見えません。互いにそれぞれの国民として生存権を認めあう以外、解決の道はありません」

 「ただ、パレスチナ人にとっては、今の自治区は本来のパレスチナの一部でしかなく、パレスチナ国家ができても、そこは彼らの故郷ではないかもしれない。帰るべき土地で暮らせなければ意味がない、という思いは残ります。イスラエルとしても、パレスチナが国家として存在することを認めなければならない。互いに妥協が必要です」

 「戦闘や飢え、渇きなど生命の危機にさらされた状況では、相手への許しや妥協を想像することすら困難です。今は妥協点の模索から最も遠いところに来てしまいましたが、せめて人間としての最低限の尊厳を、相互に認め尊重する。長期的な共存の道を探るのは、そこからです」
(聞き手・岡田玄)

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