香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2023年12月

ヤジ飛ばす市民が警察官に囲まれ 排除の瞬間が捉えた公安警察の暴走(朝日新聞有料記事より)

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普段の生活ではあまり接することがない公安警察。しかし、街頭で首相にヤジを飛ばした人は、あっという間に警察官に排除された。市民にはヤジを飛ばす自由もないのだろうか。実際に札幌で起きた出来事を追い、上映中の映画「ヤジと民主主義 劇場拡大版」をつくった北海道放送(HBC)報道部デスクの山崎裕侍さんに聞いた。

 街頭で首相にヤジを飛ばした市民が警察官に囲まれ、強引に移動させられる。4年前、当時の安倍晋三首相が、参院選で札幌市に応援に来た時に起きた事件です。

 これを題材に警備公安警察のあり方を問うテレビ番組をつくりました。全国の人にも見てもらおうと、テレビ局としては異例でしたが、ユーチューブでも無料配信しました。反響が大きく、著名な作家らがSNSで紹介してくれました。番組をもとに映画もつくり、今月から順次各地で上映されています。

 ヤジを飛ばし、北海道警に排除された2人は、損害賠償を求めて裁判を起こしました。うち1人について、札幌高裁は今年6月、警察官の行為は違法で表現の自由の侵害だ、として賠償を命じました。

映像が捉えたヤジ排除の瞬間

 映像をみると、警察官は「迷惑だから」「お願いだから」と言いながら数人がかりで強制的に移動させ、ヤジを飛ばさせないようにしています。2人とは別に、年金問題への不満を書いたプラカードを無言で手にした女性もいましたが、警察官が「危ない」と囲んで移動させました。

 市民が危害を加えたり、現場を混乱させようとしたりするわけでもなく、警察官の強引な制止に法的根拠があるとは思えません。

 警察の行動は、演説する首相に不快な思いをさせないためではなかったのか。それは警察の大原則である不偏不党から大きくはずれ、国民の表現の自由を侵すものです。

 公安警察は普段から住民運動や労働運動の情報を集めています。「あいつら左翼だから」とあからさまに敵視する声を聞いたこともあります。こうした監視は市民活動を萎縮させ、民主主義を根底から切り崩します。

 戦前の警察には集会を監視し、演説をやめさせる「弁士中止」の権限がありました。そんな時代がすぐに来るとは思いません。しかし「おかしい」と感じたときに声をあげないと、私たちの自由は少しずつ狭められていく。小さな自由が奪われることを見逃すわけにはいきません。

 戦後、警察を民主的に統制しようと、市民でつくる公安委員会ができました。しかし実際には警察に好意的な人が選ばれ、形骸化していると指摘されています。警察を厳しく批判することはまれです。

 道議会も警察活動を審議しますが、ヤジの件は大きな問題になっていません。賠償訴訟の被告は北海道ですが、鈴木直道・知事の対応は警察に任せきりで自らの見解をはっきりと示しませんでした。

 メディアの大切な役割は権力監視ですが、実際には簡単ではありません。警察の記者クラブでは、メディア各社が捜査の動きをいち早くつかもうと競争します。そのためには警察内部に食い込み、ネタをもらう。警察を批判すると、意地悪されて情報をもらえなくなるかもしれない。実際、ヤジ事件で警察を追及した地元メディアは一部だけでした。

 私は警察取材をしたこともありますが、権力から離れたところで生きる人たちの生活をテーマにした特集番組を主につくってきました。警察への忖度など考えたこともない。だから警察を正面から批判する番組がつくれたのかもしれません。当局の意向に沿い、当局の発表どおりに報じるのは、報道ではなく宣伝です。後輩たちには、名刺を持たない人たちに会おう、といつも言っています。
(聞き手・桜井泉)

山崎裕侍さんプロフィール

 やまざき・ゆうじ 1971年生まれ。北海道放送(HBC)報道部デスク。臓器移植や地域医療などのドキュメンタリー番組をつくってきた。
テレビ番組「ヤジと民主主義 小さな自由が排除された先に」は、2020年度の放送批評懇談会ギャラクシー賞(奨励賞)、日本ジャーナリスト会議JCJ賞を受賞した。取材班で「ヤジと民主主義」(ころから)を出版した。
 

大晦日。

1963年12月31日オンエアの映像、志ん生師は73歳。


消え失せた祖国への愛 ウクライナの子どもに寄り添うロシア人女性(朝日新聞有料記事より)

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  「ウー、ウー」

2023年11月下旬の昼過ぎ、いつものようにスマホのアプリが作動し空襲警報が鳴り響いた。

 ウクライナの首都キーウ中心部から北東に約40キロの場所にあるセミポルキ地区の学校「セブンフィールズ」。子どもたちは授業を中断し、慣れた動きで防寒具を羽織って、粉雪が降る中、10分も経たずに全員がシェルターに駆け込んだ。

 シェルターは20畳ほどの広さで薄暗い。外光を遮るように土囊(どのう)が積まれている。子どもたちは電球のあかりを頼りに本を読んだり、カードゲームをしたりして思い思いの時間を過ごした。テーブルの下に座り込んで、じっとしている子もいる。

 「みんな大丈夫?」。子どもたちにウクライナ語で、そう語りかけるのは校長のオクサナ・ウォロジナさん(44)。「この子たちを立派なウクライナ国民に育てる」と語るウォロジナさんはロシア人女性だ。

「これが私の選んだ道」

 運営費は全国から寄付金を募り、貯金も取り崩した。それでも、ウォロジナさんはウクライナの子どもたちのために全力を尽くす。

 「これが私の選んだ道なのです」

 1979年、モスクワで生まれた。14歳でモデルになり、その後スポーツカーのマーケティング・ディレクターとして働いた。母方の祖父母がウクライナで暮らしており、幼いころから当たり前のように訪れた。ウクライナに行くのが楽しかった。ロシアと異なる文化や歴史が好きだった。

 友人に紹介され、キーウで出会ったウクライナ人の夫と2008年8月に結婚。キーウに移り住み、3人の子どもにも恵まれた。

 17年、成長する自分の子どもたちに、より良い教育機会を与えたいという気持ちから、小中学生を対象にした私立学校「セブンフィールズ」を設立し、自らが校長になった。かつてセミポルキに存在した軍隊の「七つの連隊」が名前の由来だ。学校の隣に自宅を構えた。

 移住してから十数年、ロシア人としての自分を傷つける人は誰もいない。ウクライナでの生活に慣れ親しんでいた。

 幸せな生活を一変させたのは22年2月24日だ。

 祖国がウクライナに攻め入った。キーウに向けて進軍したロシア軍の約300台の戦闘車両がセミポルキに押し寄せた。学校や自宅が占領され、学校にいた子どもたち、その親たち、近所の住民が殺された。その非道さに、「ロシアへの思いは完全に消え失せた」。

 侵攻を予期していたので2月19日に、子ども3人と犬を連れて、ルーマニアの国境まで車で向かい、バスと飛行機を乗り継いで、キプロスの知り合いの家に避難していた。

 少しだけ残っていたロシアへの愛も、侵攻でなくなった。モスクワにいる父親と口論になり、それ以来、口を聞いていない。

 「親はロシアに殺された」

 そう思っている。ロシアで暮らす親戚とは、「孫に会えなくなるのはつらすぎる」と話す母親以外とは連絡を取っていない。

心に響いた言葉

 3月下旬、占領されていたセミポルキからロシア軍が撤退したと聞いた。

 「ウクライナ軍の支援をしたい」

 セミポルキに戻った自分の心の中に、そんな言葉が響いた。

 ロシア軍の無差別攻撃を受け、多くの住民らが亡くなった南東部マリウポリで「アゾフ連隊」に帯同。「地獄のようだった」という東部バフムートではウクライナ陸軍の第93旅団に加わって食料支援をする一方で、殺された家族を横目に、子どもたちを避難させることもあった。

 子どもたちを身体的、精神的にサポートしなくては――。

 そう決意して、22年6月には「セブンフィールズ」を、戦時下の子どもたちを支援する全寮制で無償の学校にした。今では、6~15歳の40人の子どもたちが身を寄せる。週5日、算数や国語などの授業のほか、美術や音楽活動を通じて、戦時下で負った心の傷のケアをしながら生活する。今でも激戦地となっている東部出身の子が中心だ。

 だが、子どもたちの心のケアは簡単ではなかった。開校当初のサマーキャンプでは、2週間ごとに50人の子どもたちが参加し、計500人が訪れた。子どもたちには、バスケットボールや水遊びなど、出来るだけ楽しい時間を過ごさせて心をほぐすようにした。

 それでも、絵を描く時間の際、白い画用紙を真っ黒に塗り続ける子。飢えを恐れて食べ続ける子。髪の毛の半分が白髪になっている子がいた。気持ちが落ち着かない子がいたら、一緒に本を読み、眠るまで隣にいた。いまでも、トラウマを抱える子はいる。

 ロシアによる侵攻は終息の兆しが見えない。ウクライナにおける民間人の死者数は少なくとも1万人を超え、ロシア軍に連れ去られた子どもは約2万人いるとされる。

 「故郷に帰り、幸せな生活を送ることが出来るまで助ける必要がある」。選んだ道は険しいが、そう願うウォロジナさんはウクライナの子どもたちに寄り添い続ける。
(キーウ=藤原伸雄)

武器密売や秘密工場建設の動き 北朝鮮に潜入、映画の主人公が証言(朝日新聞有料記事より)



 ロイター通信は今月上旬、スペイン警察がアレハンドロ・カオデベノス容疑者を11月末に逮捕したと報じました。カオデベノス容疑者は、対北朝鮮制裁の回避を助けた疑いで米国に指名手配されていました。
北朝鮮の武器密売の実態を暴いたドキュメンタリー映画「THE MOLE(ザ・モール)」(マッツ・ブリュガー監督)の主人公で、カオデベノス容疑者を知るデンマーク人のウルリク・ラーセン氏は同容疑者について「北朝鮮の忠実な『兵士』だった」と語ります。

 ――北朝鮮に接近するため、カオデベノス容疑者が設立した朝鮮親善協会に加わりましたね。

 朝鮮親善協会は、アレハンドロ(容疑者)が違法なビジネスをするための「隠れ家」です。メンバーの生活水準は高くありません。本部はバルセロナの南西、タラゴナにあります。メンバーは500人以下だと思います。アレハンドロは社会主義の顔をした資本主義者です。彼はお金や時計など高価なものが好きなんです。

「彼はスペインにいる北朝鮮の『兵士』」

 アレハンドロは北朝鮮の代わりにビジネスをして金を稼いでいました。北朝鮮とビジネスをする人々を送り込む際、仲介料を取っていました。私たちが17年に訪朝した時も、通常の3倍の旅費を懐に入れていました。ナルシシストでサイコパスで、自分の利益ばかりを考えていました。

 でも、北朝鮮では国賓のように扱われていました。北朝鮮にとって彼はスペインにいる忠実な「兵士」です。国境の外で北朝鮮を守っているのです。

 ――北朝鮮の朝鮮ナレ(翼)貿易会社は17年、訪朝したあなたに武器密売の商談を持ちかけました。

 会社のメンバーは洗練されていて礼儀正しく、非常に上手な英語を使いますが、犯罪者です。世界中で兵器を売っています。自分たちの財産(兵器)を本当に誇りに思っています。

 彼らと豪華な食事をしていた時、ドアの向こう側には飢えている人々がいると思うと、恐ろしい気分になりました。それが独裁政治です。最高指導者は何でもできますが、普通の人は単なる労働力にすぎません。

 私は「北朝鮮と一緒に働く人間」だったので、行動に特に制約もありませんでした。彼らは「お前は我々の友人だ」と言い、指導者のバッジも北朝鮮の市民権もくれました。

 北朝鮮の人々は文字通り洗脳され、北朝鮮の外で何が起きているのか知りません。平壌の市民は選ばれた人々ですが、案内員が「この人は私たちの友人だ」と紹介すると、会話が成立します。市民はいつも、金正恩(キム・ジョンウン)と金正日(キム・ジョンイル)が、北朝鮮からアメリカと日本と韓国を追い払ってくれたことにどれだけ感謝しているのか話します。「体制を守るために行動する」とも話していました。そうしなければ罰せられることを彼らは知っているのです。

 ――北朝鮮の秘密武器工場を作るため、ウガンダでビクトリア湖に浮かぶ島を訪れました。

 住民は、湖でとれる魚以外、ほとんど何の収入もない貧しい生活をしていました。ウガンダで商売をする人や当局者は、金のためなら何でも売るし、命の危険も気にしていませんでした。幸いなことに、ビジネスが成立しなかったので、島民は引っ越しを迫られませんでしたが、ウガンダ政府の役人が自分の国民にうそをつくのを見るのは本当に悲しいことでした。非合法のビジネスにとって人間の命がどれほど軽いものなのかを目撃しました。

 北朝鮮は最近、ウガンダやスペインの大使館を閉鎖しました。大使館を運営する十分な資金を持っていないからかもしれません。個人的には、北朝鮮がルールを守らないことも理由の一つだと思います。彼らは好き勝手に振る舞い、人工衛星を打ち上げ、核実験を繰り返しています。

最も危険だった瞬間は

 ――北朝鮮はあなた方をスパイだと疑いませんでしたか。

 私にとって最も危険な瞬間は、ギャングが住んでいるような平壌郊外のスラム街で、交渉のために地下室に下りるように言われたときだと思います。彼らが私の正体を知ったのではないかと恐れました。幸い、北朝鮮人と同じ扱いを受けていたので、疑われずにすみました。

 ただ、映画が発表された直後、北朝鮮の大使館が「これはフェイクだ。操作されたドキュメンタリーだ」と主張しました。でも、私が平壌やウガンダ、スウェーデンなどで北朝鮮関係者と接触した映像や録音があります。

 ――なぜ、北朝鮮への潜入を考えたのですか。

 私は冷戦期、東ドイツを訪れ、東西ドイツの分割に興味を持ちました。北朝鮮と韓国にも関心があったのです。北朝鮮の体制に焦点を当てることは重要です。2500万人が毎日、ただ生き延びるためだけに暮らしているからです。北朝鮮には自由がありません。北朝鮮は人権問題で最大の犯罪者です。

 金正恩は最近、娘を公の場に同席させています。後継者にするための作業だと思います。金一族が北朝鮮のトップである限り、北朝鮮の人々の未来は本当に暗いと思います。北朝鮮が韓国と統一したり、民主的な政府が樹立されたりすることは、私が生きている間に起こりそうもありません。

 ――映画の公開後、人生が変わりましたか。

 スパイだったことを打ち明けたとき、家族はショックを受けましたが、関係はとても良好です。妻と2人の娘は私を誇りに思っていますし、私も愛しています。

 映画の公開後、私は有名になりました。大勢の人が私をモール(モグラ=スパイ)と呼びます。デンマークやスペインなどからもテレビ番組出演のオファーをもらいました。

 今は人生を楽しんでいますが、二度と北朝鮮には行きたくありません。
(聞き手・牧野愛博)

周庭さんら人権活動家を描く 顔も名前もさらして伝える祖国への思い(朝日新聞有料記事より)

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 「よし、これで顔はわからない」。帽子をまぶかにかぶり、黒いマスクをつけた。2年ほど前、そんな姿で臨んだのは東京都文京区で開かれた自身の個展。画家としての晴れ舞台なのに、監視されていないか、と不安がつきまとう。

 描いたのは、獄中でノーベル平和賞を受賞した故劉暁波(リウ・シアオポー)氏ら、中国当局から圧力を受けた人権活動家らの姿だ。水墨画の技法で描き、人物の経歴も添える。

 日本にいても中国人である自分にとって、中国当局の怖さが頭から消えない。個展では、好きな横山大観からとった「宇宙大観」のペンネームを名乗り、本名は隠し続けてきた。

 だが、2023年10月に出版した画集の最後のページに本名の「于駿治(う・しゅんじ)」を記した。

父も自分も時代に翻弄されたという于さん。若いころ、「毛沢東のため」と共産党のスローガンを描いていた于さんが、人権活動家らを描くようになった経緯をたどります。

突然知らされた父の死

 「後悔しない生き方がしたい」

 中国にはもう帰らないと決め、顔を隠すマスクも取った。何も悪いことはしていないのだから。

 1950年、上海生まれ。人権活動家らを描くようになった原点には、きっと幼い時に亡くした父のことが影響している。日本が上海に作った紡績工場で技術士として働いていた父は、河南省に単身赴任になった後、奥地の工場に動員され、会えなくなった。

 ある日、突然、祖母から「病気だった」と父の死を告げられた。自分は9歳、父は49歳。働いていた場所に何度も行って尋ねても、死因も埋葬された場所も分からず、戻ってきたのは、父の日記と衣装ケース一つだけだった。

 父との思い出は、夏に大きなスイカを抱えて帰って来てくれたことぐらい。だが、今でも不思議と父の夢を見る。何かを必死に自分に訴えるが、何を言っているのかが分からない。

 父を亡くした当時は、自由に政権批判をした人が弾圧された「反右派闘争」の時代だ。父もこうした時代のうねりに巻き込まれた犠牲者だったのではないか。今ではそう考えている。

 そうだとすると、時代の流れに逆らえなかったのは、自分も父も同じように思える。

「毛沢東のため」と意気込んでいた下放時代

 60年代から始まった文化大革命のさなか、若者が農村に送られる「下放政策」で18歳で北部の黒竜江省に送り込まれた。「毛沢東のために、革命戦士になる」。そう意気込んでいた。

 絵が得意だったので、新聞やラジオで中国共産党の方針を広める宣伝部員に抜擢(ばってき)。「帝国主義に反対」などとスローガンを伝える絵を描いた。党への貢献は誇りだと思っていた。

 しかし、文革の推進者で、毛沢東の後継者ともされた林彪が失脚。同じく文革推進者である毛沢東の妻ら四人組も毛沢東の死後に逮捕された。後継者が、そして妻が急に失脚する体制に疑問符が浮かんだ。「正しい」とされたことが次々とひっくり返された。共産党への期待は、不信感、怒りへと変わった。

 もう体制にしばられたくない。87年、中国を飛び出し、日本に来た。

日本で知った「民主主義」

 皿洗いや清掃、遊園地で似顔絵を描くなどして生活費を稼いだ。印象的だった日本の風景がある。選挙で勝つために笑顔の選挙ポスターを掲げ、友人のように有権者と交わる政治家の姿だ。中国では「民衆を動かす」のが政治。だが、日本の政治は「民衆が動かす」のだと実感した。

 「これが民主主義か」

 89年の天安門事件では、日本から民主化を求める学生を支援した。以降、日本で事業を興したり、水墨画教室を開いたりして生計を立てながら、母国の人権問題には関心を持ち続けてきた。

 もともとは劉備玄徳、諸葛亮孔明ら、三国志などの歴史上の英雄らを描いていた。人権活動家らを描き始めたのは十数年前。きっかけはよく覚えていない。最初は、報道を通して知った人を描いた。

 調べてみると、中国で「自由や人権のために闘って、迫害された人物」はあまたいた。古くは1950年代、生産力をあげるとして失敗に終わった「大躍進」を批判した後に逮捕された人物、最近では香港民主化デモで影響力を持った周庭(アグネス・チョウ)氏らだ。彼らもまた「英雄」だと感じた。

 時代に埋もれた父の死を思い出した。迫害された事実を埋もれさせてはいけない。筆を執った。

描くのは祖国のため

 これまでは本名を隠して3回ほど作品展で発表してきた。しかしコロナ禍で中国共産党の「人の命を大事にしない」姿勢に怒りがわいた。そして本名を明らかにした。周りからは「過激だ」と言われる。でも、人に誤解されても自分が正しいと思うことを発言し、行動したい。言いたいことが言えないままコロナで死にたくない。その思いが隠せなくなった。

 命や地位をなげうってでも人権を主張してきた人物を描き続ける。日本で平穏な老後生活も送れるが、葛藤の末、「闘おう」と決めた。それが人権活動家ら116人の絵を収めた画集を本名で出版することだった。

 人に迷惑はかけたくない。上海の親戚とも連絡を絶った。それでも画集を通して、日本人や中国人に今の中国の問題を伝えたい。「描いた人物にはとうてい及ばない。でも祖国のためなのです」
(岩田恵実) 

「スターのための検視官」 目立ちすぎるロス監察医務局、土産店まで N.Y.Times(朝日新聞有料記事より)

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ほとんどの場合、それは魅力に乏しい仕事だ。遺体を搬送し、検視を行う――検視局の役割は、薄気味悪いけれどやらなければならないこととして片付けられている。

 しかし、ここはロサンゼルス。不慮の死を遂げた人々のリストにはそうそうたる顔ぶれが名を連ねる。マリリン・モンロー、ノトーリアスB.I.G.、ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジャクソン……。

 10月下旬には、ホームコメディー『フレンズ』のチャンドラー・ビング役で親しまれた俳優のマシュー・ペリーが突然この世を去り、世界中の多くのファンをおどろかせた。薬物依存症と闘っていた54歳の彼は、湯船の中で意識不明の状態で見つかった。

ロサンゼルス郡の監察医務局が運営する土産店にはユニークなグッズが売られているそうです。記事後半で紹介します。

マリリン・モンローの時代から

 しばしば「スターたちのための検視官」との言われるロサンゼルス郡監察医務局にとって、最新の有名人ミステリーだった。管轄は全米で最も人口が多いロサンゼルス郡の4千平方マイルの88都市に及び、その仕事量とユニークな土地柄は他に類を見ない。交通事故、殺人、薬物の過剰摂取、自殺など、どこにでもある事件だけでなく、地震、山火事、暴動などにも対処しなければならない。

 そして有名人もだ。

 ハリウッド文化がいまだに色濃く残るこの地域で、施設の外に駐車された衛星中継車には職員たちは慣れっこだ。今や好奇の目はいたるところにある。ソーシャルメディアや娯楽サイトの普及によって、同局は有名人の死について即座に対応するよう求められ、ますます脚光を浴びるようになっている。

 ペリーが高級住宅街のパシフィック・パリセーズ地区の自宅で死亡したというニュースが流れると、同局では一晩中ファンやメディアからの電話が鳴りやまず、メールがひっきりなしに届いた。報道関係者が同局のウェブサイトにくぎ付けになる中、オンライン・データベースにペリーの名前が載ったと思ったらすぐに削除された。同局がようやく声明を発表。素っ気ないものだったにもかかわらず、世界中で大々的に報道された。

 こうした過熱ぶりは、スターが死亡するといつもおこることだ。タブロイドサイト「TMZ」は、米プロバスケットボールのスター選手だったコービー・ブライアントやマイケル・ジャクソンの死の時と同じように、このニュースをどこよりも早く速報として伝えた。このサイトはネタ元に情報料を支払うという報道機関としては異例なやり方をとっており、メディアを騒がせた過去がある。

 「職員たちはいつもマスコミに激しくたたかれている」とボブ・ダンバッカーさんは言う。ロサンゼルス郡監察医務局の元捜査官で、彼が数十年間にわたって務めている間にロバート・ケネディ、ウィリアム・ホールデン、ジョン・ベルーシ、ジャニス・ジョプリンらが管内で死亡した。

 インターネットが普及する前でさえ、同局は神秘的な所だった。1962年、ダンバッカーさんらはマリリン・モンローの遺体を収容するため、ロサンゼルスの西部に向かった。担架に乗せられた、布をかぶったモンローの遺体とともにダンバッカーさんが現れると、報道陣がカメラを向けた。その写真が瞬く間に世界中の新聞に掲載された。

 「ああ、なんてこった。結婚したばかりだったんだけど、電話が大量にかかってきて悪夢だった」と彼は振り返る。「信じられないかもしれないけど、ファンレターまで届いたんだ。私が誰かをみなが知りたがった。クレージーだったよ」

メディアの取材に応じる監察医も

 中には、脚光を浴びることから逃げなかった人たちもいた。元首席監察医のトーマス・ノグチさんは、記者会見を開くのが好きで、ナタリー・ウッドらスターの死因究明について2冊の本を書いた。副検視官だったエド・ウィンターさんは、記者たちからよく知られた人物で、しばしば電話取材に応じ、テレビカメラの前で話したりもした。ウィンターさんが今年73歳で亡くなった時、多くの報道機関は彼を地元の有名人として扱った。

 繁華街からさほど遠くない混雑する大通りに面した監察医務局は、ほかのこうした役所とは趣を異にする。2011年、俳優のリンジー・ローハンは、万引きの罪で裁判所から命じられた社会奉仕活動の一環として、この事務所で床掃除をさせられた。ある元捜査官は『CSI』のような事件モノのテレビドラマのアドバイザーを務めるようになった。またある者は「1-800-AUTOPSY」というキャッチーな名前で遺体の解剖などを請け負う会社を経営し、現在遺体安置所をテレビ番組の撮影に貸し出している。

 ロサンゼルス郡監察医務局がほかとは違う証拠に、長年にわたって「クローゼットの骸骨」という小さな土産物店を運営していた。そこでは、遺体を囲むチョークの線がプリントされたビーチタオルや、「体液」と書かれたマグカップが売られていた。

 「土産物店は旅行者、とりわけ実際の犯罪を扱ったドキュメンタリーに興味がある人たちに人気だった」と、有名人の死にまつわる場所をめぐるツアー「ディアリー・デパーテッド・ツアー」を企画している、スコット・マイケルズさんは話す。

 マイケルズさんは同局を何十回も訪れ、職員とも親しくしていた。無縁仏を弔うための資金集めのために、施設の一室を借りてイベントを開いた。100人ほどの人々が主任捜査官の話を聞き、施設を見学した。(「それは科学的なツアーで、敬意を持って行われた」とマイケルズさんは言う) 

俳優たちは役づくりのために見学にやってくる。ある日、ブラッド・ピットがやってきた。ヒラリー・スワンクやエミリー・デシャネルもやってきた。同局で25年間勤めた毒物学者のダン・アンダーソンさんは「職員たちはこうした俳優たちの訪問にすっかり慣れっこだ」と話す。

 俳優のリバー・フェニックスとフィル・ハートマンの事件を担当したアンダーソンさんは「スターだからといって特別扱いすることはまずない」と言う。「私たちは、身元不明の事件であってもブリタニー・マーフィーの事件と同じように力を入れている」

 ただ、注目度の高い事件にはある種のプレッシャーが伴う。多くの人が検視報告書を求め、目を皿のようにして読むからだ。(カルト教団)マンソン・ファミリーによる殺人事件、(O・J・シンプソンの前妻)ニコル・シンプソン殺害事件、富豪のロバート・ダーストと音楽プロデューサーのフィル・スペクターの刑事裁判がそうであったように、法的手続きがきちんととられているかをより厳しくチェックされる。

 マイケル・ジャクソンの死でコンラッド・マレー医師が過失致死罪で有罪になった刑事裁判で証言したアンダーソンさんは、「世界中が見ているんだ」と話す。

「有名人の死で、大きく混乱」

 「実際、管理職は有名人の死によって日常業務に大きな混乱が生じ、ストレスを感じてきた」と02年に退職した同局の広報担当者、スコット・キャリアさんは言う。

 キャリアさんによると、日常業務に戻って他の事件に集中するために、有名人の案件は迅速に処理することもあるという。「単に早く終わらせたいだけ。さもないと、知りたがる世間、メディア、世界中の人によって局全体が機能停止に陥るからだ」

 とはいえ、それを遺族に説明することは難しいかもしれない。過去には検視局が大物たちを優遇していると遺族らに非難されたこともある。

 「遺族はマイケル・ジャクソンが亡くなったことなどどうでもいいんです」と、15年まで30年間、検視局で働いていた主任捜査官のクレイグ・ハーベイさんは言う。「遺族はなぜ自分の息子、娘、母親が死んだのかを知りたがっている。それもすぐにだ」

 同局には職員が260人しかおらず、人員不足に悩み職員に過剰な負担がかかってきたことは理由にならない。毎年、職員は1万3千件以上の事案に対応している(1千万人近い人口を抱えるロサンゼルス郡では、毎年6万人から8万人が死亡しているが、監察医らが関与するのは通常、突然死や不審死と判断された場合のみだ)。

 それに比べると、ニューヨーク市の監察医務局は毎年約8500件のケースを処理するために、2倍以上の約600人の職員がいる。

人手不足で、国の基準より処理は遅れ

 ロサンゼルスの首席監察医が就任3年足らずで辞職したことについて、民事大陪審は16年、郡の首長らが監察医務局に十分な人的資源を配分していないのが原因と結論づけた。報告書によれば、一つの事件を遅くとも90日間で処理するという国の最低基準をしばしば超過していたという。

 ニューヨーク・タイムズ紙の取材に対し、同局は多くの事件を抱えていることを理由に回答を拒否した。

 現在、同局のウェブサイトには、綿密な検査と薬物関連死の大幅な増加で、毒物検査の結果には4カ月から6カ月かかることがあると記されている。

 マシュー・ペリーは11月、彼が出演した人気シリーズが撮影されたスタジオにほど近い、ハリウッド・ヒルズに埋葬された。監察医務局は12月15日、彼の死因について、精神衛生上の問題の治療や快楽を得るために使われる麻酔薬ケタミンの急性効果によるものと公表した。

 注目の的という重荷を背負いながらも、多くの職員たちは、同局はショービジネスよりも科学捜査に重きを置く場所だと主張する。

 「冷酷に聞こえるかもしれないが、死体は死体だ」と、35年間同局に勤務した元捜査官のスティーブン・ダウエルさんは言う。「世間がどう思おうが関係ない。捜査を求められた案件に全力を尽くすだけだ」

今朝の東京新聞から。

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今朝の東京新聞から。

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いつか台湾へ、海をまたぐ高速鉄道 否定しても消えぬ「有事」の懸念(朝日新聞有料記事より)

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秋晴れの午後、海から心地よい風がそよいでいる。岸辺に腰を下ろして休憩中の漁師たちは、湾内の海をまたぐ白く真新しい橋を見上げていた。

 中国福建省の省都・福州から南西へ約100キロ。全長15キロもある橋は、海岸沿いに立ち並ぶ赤屋根の建物にいる人たちに見せつけるかのような存在感だ。そこを、中国版新幹線「高速鉄道(高鉄(ガオティエ))」がジェット機のような音をとどろかせながら走り抜けた。

 「高鉄も、いつかは台湾までつながるんだよな」

 漁師の1人(61)が水を向けると、隣の仲間の漁師は「いつになるかわからないけどな」と笑った。

 中国政府が北京と台北をつなぐ京台高鉄構想を打ち上げたのは、2016年のことだ。台湾側は「ありえない」と取り合おうとしないが、中国はどうやら本気のようだ。

 その意気込みを示すかのように、まず福州から台湾に向き合う平潭島へ向かう路線が、「京台高鉄」の一部として20年末に開通した。中国は、そこから台湾まで延伸し、海底トンネルなどで結ぶ計画だとされる。35年までに完成させるとまでうたっている。

 「両岸の人々が高鉄で台湾海峡をわたる夢を、一日も早く実現しなければならない」

 中国政府で政策のグラウンドデザインを担う巨大官庁・国家発展改革委員会の副主任、叢亮は9月の記者会見でこう力を込めた。

総工費1兆円超の新路線だが

 平潭島線に続いて今年9月に開業した、あの漁師たちが見上げていた「海をまたぐ高鉄」は、いわばその盛り上げ役でもある。福州から南西へ、対台湾交易の最前線であるアモイを最短55分で結んで沿海一帯の利便性向上を狙う。

 総工費は530億元(約1兆600億円)。国営新華社通信によれば、風が強く地震もある台湾海峡でも最高時速約350キロで運転ができるよう最新の技術が数多く投入された。「将来の台湾海峡の横断鉄道建設にも有益な参考が得られた」。工事を担った国営の建設会社幹部はインタビューにこうも胸を張った。

 しかし、利用者の反応は冷めている。

 福州とアモイ間にはもともと、今回の新線と目と鼻の先に陸路を走る高速鉄道があり、最短1時間20分あまりでアクセスできる。

 新線の開設に合わせ、東京ドーム約9個分にまで広げた福州南駅。10月、白とグレーを基調とした巨大なターミナルは、平日の昼も閑散としていた。

 待合のベンチで仕事の電話に追われていた弁護士の男性は「多少時間は短くなったが、たいした違いはない」とつれない。ネット上では、最大で1・5倍以上する料金への不満も少なくない。

 中央や地方の政治が優先され、ニーズとズレのある路線が造られるのは珍しいことではない。だが、とりわけこの路線には政権の強い執念がにじむ。

 開業をさかのぼること2週間。共産党と政府は福建省全体を中台両岸の「融合発展モデル区」にする意見書を発表した。

 台湾側との人の往来やビジネスをしやすくする特区制度は、省内のアモイや平潭島などでも行われてきたが、省全体をモデル区にするのは初めてだ。

武力統一…「そんな計画ない」

 習近平(シーチンピン)は、自らの長期政権への道を開いた昨秋の共産党大会で、中台の統一を「必ず成し遂げねばならない歴史的使命だ」と訴えた。

 台湾と向き合う福建省と浙江省で20年以上のキャリアを積み、台湾経済界とのつながりをつくってきた習には、中国の巨大市場が持つ引力への自信もあるのだろう。

 習は中台両岸が融合的な発展と繁栄を図り、「一国二制度の下での平和統一」を実現することこそが、中国が目指す「最善の方法」だと繰り返し述べている。

 11月、習は6年半ぶりに訪米し、サンフランシスコで米大統領のバイデンと会談した。

 米高官によれば、2027年や35年に中国が武力統一に動くのではないか、といった米側の見方について、習はいらだちを隠さず、「そんな計画はないし、そんな話を私に聞かせた者もいない」と語った。

 海をまたぐ新線も、省全体のモデル区化も、統一を目指す習の意向の反映であることは疑いない。

 しかし、台湾の人々が中国に抱く郷愁や共感は世代とともに薄れ、中国が米国への対抗心もあらわに独自の発展モデルを追求し始めたことで、体制の異質さへの心理的な抵抗はむしろ増しているのが現状だ。

 平和統一という中国にとっての「ベストシナリオ」が現実味を失った時、中台と世界はどこに向かうのか。台湾有事への懸念は、そこから生じている。(敬称略)
(福州=畑宗太郎)

阿古智子東京大学大学院総合文化研究科教授
習近平政権が強調する、中台両岸の融合的な発展と繁栄と「一国二制度の下での平和統一」の実現。一見美しい理想に見えるが、権力を極度に集中させた強権的な統治モデルでは、影響力の弱い存在はそこにすべて飲み込まれてしまう。人々の声を十分に聞かず、整備が進められる交通インフラの整備計画からもそうした状況がよく浮かび上がる。

 

今朝の東京新聞から。

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