連載 ロシアの隣で エストニアの危機感⑤:国境の壁
「スマホの電源を切れ」と、エストニアの警察幹部が言う。昨年12月、エストニア南東部にあるロシアとの国境沿いに、バスで向かっていた際のことだ。
「傍受されると思ってほしい」。淡々とした口調が逆に、真実味を感じさせる。
エストニアは東隣のロシアと、338キロにわたって国境を接している。川や湖を除けば135キロ。大部分は森林などが行く手をはばみ、往来は困難だ。
国境沿いに着く。木々が密集し、ロシア側からこの雪道を抜けてやってくるとは到底考えづらい。
だが、エストニア政府は昨年12月中旬、ここを含む国境沿いに、新たに長さ40キロのフェンスを完成させた。これまでの分と合わせ、陸地の国境の半分にあたる63キロに、物理的な「壁」が設けられたことになった。

「ウクライナが終われば、ロシアは何かしてこようとするはず」
このプロジェクトは2014年、エストニアの治安当局者が、国境付近でロシア側に拘束されたことを機に始まった。当局者は1年後に囚人交換によって帰還したが、両国の緊張が高まる理由の一つになった。
そしていま、この「壁」の意義は増している。
「ここはエストニアの国境だが、欧州連合(EU)の国境でもある。民主主義を守り、西側諸国を守る国境だ」
完成式典に出席し、現地で取材に応じたラーネメッツ内相は、そう力を込めた。「ウクライナにおける戦争が終わったら、ロシアはエストニアやNATO(北大西洋条約機構)諸国に何かをしてこようとするはずだ」

プロジェクトはフェンス設置だけではない。全体の完成は25年末を見込まれ、高精度の監視機器で国境を固め、「365日、国境沿いで起きていることを100%カバーする」(警察幹部)。
ロシアのウクライナへの全面侵攻は「ハイブリッド戦争」と呼ばれる。ウクライナの前線だけではなく、周辺国のサイバー空間や情報空間も「戦場」だ。
「戦場」には国境も含まれる。フィンランド政府はロシアが第三国の難民をフィンランド国境に誘導していると訴え、昨年11月から、ロシアとの国境を完全閉鎖する措置を取った。エストニア政府も「いつでも閉鎖する準備はできている」という。
また、今年1月19日には、ラトビアとリトアニアと協力し、今後数年かけて、ロシアとベラルーシとの国境沿いに防衛施設を設ける構想も発表した。
「ウクライナにおけるロシアの戦争が示したのは、エストニアを守るためには、国境から1メートルの地点から、物理的な防衛施設の設置が必要だということだ」(ペフクル国防相)
歴史も地図も武力で塗り替える
ロシアの領土への考え方は、ピョートル大帝の17世紀から現在まで、一切変わっていない――。エストニア軍にとって、これが大前提となる捉え方だ。
ピョートル大帝は、プーチン大統領が崇拝する人物だ。一方、エストニア人にとっては、1700年代の東部ナルバへの侵攻や占領という歴史と結びつく。プーチン氏が22年6月、その侵攻を「奪還」と表現した際には、在エストニアのロシア大使を呼び出して抗議した。
歴史を都合良く塗り替え、地図も武力で塗り替えようとする。それこそがロシアなのだとエストニア人は考え、有事に備える。
エストニア憲法は、健康な成人男性に8~11カ月の軍隊への入隊を義務づけている。戦争になった場合には、最大4万3700人を動員できる体制を整え、志願制の国防組織「ディフェンスリーグ」には、傘下組織も合わせると約3万人が参加している。
国防費は今年、「対国内総生産(GDP)比で3・25%」に到達する見通しだ。ロシアによるウクライナ侵攻により、危機感が高まったことが背景にある。
ただ、エストニア軍のフィリップス中佐は「GDP比で10%でも良いぐらいだ」と話す。「モノもヒトも維持費ももっと必要だ。3%はあくまでも、最低限のラインだ」
エストニアの人口は、さいたま市と同程度の133万人。「国を守る」と言えど、ロシアに攻められた場合、現実的には自国だけでは対抗できない。
そのため、国民がNATOに寄せる支持は大きい。
国防省によると、04年に加盟した際、NATOの加盟国であることを支持する割合は63%だった。それが23年は、過去最高の82%にまで上った。エストニア系国民以外、つまり、ロシア系国民らからの支持も、23年は57%と過去最高になったという。
「エストニアはロシアよりも小さい。ロシアには間違いなく、マンパワーがある。ただ、ロシア軍が全員をエストニアに向けて振り分けるとは思えないし、私たちには同盟国がいる」
そう話すのは、軍第2歩兵旅団トップのティケルプ大佐だ。同旅団が拠点とする南東部ボルは、ロシア国境から30キロ。ロシアが空挺軍を置くプスコフからも、77キロしか離れていない。

ただ、旅団の拠点には22年12月から、500人ほどの米兵が派遣されている。これはバイデン米大統領がウクライナ侵攻を受けて決定したものだ。米兵は在ポーランドの米軍常設司令部の指揮下にあるが、エストニア軍とは合同で訓練を行うなどの協力関係を築いている。
また、エストニアには米軍のほかにも、NATOの政策の一環として、英兵600人、フランス兵300人ほどが駐留している。
フランス軍のポンゾニ中佐は取材に、ある加盟国への攻撃を加盟国全体への攻撃とみなす、NATO第5条の重要性を強調する。
「これは信頼の話だ。あなたから5ユーロを借りて、1時間後に返すという約束を守らなければ、私は信用してもらえない」
ポンゾニ氏はまた、エストニアに派遣されることについて「我々にとっては、オペレーション(作戦)ではなくミッション(任務)だ」という表現を使う。
「ミッションとは、参加するものだ。オペレーションとは、誰かを撃ったり、何かを壊したりするものだ。エストニアは平和な国で、現時点では戦争が起きておらず、みなが一緒に訓練をしている」
そして、こう強調する。
「我々の違いは、言葉と軍備品ぐらいだ。もし平時に協力できるなら、危機にも対応できるはずだ」
「危機」はこない方が良い。ただ、「こない」とは誰も断言できない。
取材に応じた各国の軍関係者はみな、「ウィー・アー・レディー(準備はできている)」とくり返した。
(エストニア南東部ボル=藤原学思)