香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2024年05月

ドローンが変えるミャンマー内戦 世界とつながる抵抗勢力 N.Y.Times(朝日新聞有料記事より)

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ミャンマー・カヤー州の抵抗勢力の基地でドローンをテストする「カレンニー国民防衛隊(KNDF)」のドローンチームメンバー。指揮官の3D(左端)、パイロットのシャンジー氏(前列右から2人目)=2024年2月

Drones Changed This Civil War, and Linked Rebels to the World

 ミャンマーで軍事政権と戦っている抵抗勢力の最優秀の兵士の一人は、サンダルにショートパンツ姿だった。彼は武器を自慢げに披露しつつ、謝った。ほとんどバラバラの部品だったからだ。

 その兵士シャンジー氏は、3Dプリンターで造形したプラスチックパネルを接着剤でくっつけていた。近くには、中国製の農業用ドローンから取り出した電装品が地面に並べられ、配線はまるで手術を待つかのようにむき出しになっていた。

 プロペラが取り付けられた発泡スチロールの塊など、自家製ドローンを作るのに必要な他の部品も、木々の葉に囲われた二つの小屋に所狭しと並んでいた。ここは「カレンニー国民防衛隊(KNDF)」[Karenni Nationalities Defense Force]の武器庫と言ってもよいだろう。レーザーカッターは飛行制御ユニットを削り出している途中で停止していた。発電機が止まってしまったためだ。いつ電気が復旧するかは分からなかった。

 寄せ集めにもかかわらず、抵抗軍のドローン部隊は、ミャンマー国内のパワーバランスをひっくり返すことに成功した。3年前に文民政権から実権を奪い取った軍は、国を取り戻すために戦っている何百もの市民軍よりもはるかに大きく、装備も整っている。また、軍事政権はロシア製戦闘機や中国製ミサイルを自由に使えるのだけれど。

 絶望的なほど非対称な力関係にもかかわらず、抵抗勢力は、ネット上で入手可能な説明書と中国から取り寄せた部品だけで、この内戦を何とか持ちこたえている。使っている技術は、ウクライナやイエメン、スーダンの兵士にとっても、なじみのないものではないだろう。

 民生品用の技術[consumer technology]に詰め込まれた各種の新機能は、世界中で紛争の様相を変えつつある。衛星通信スターリンクでインターネットが使えるし、3Dプリンターで部品を大量生産できる。しかし、その中でも、安価なドローンほど重要な製品はない。

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カヤー州の抵抗勢力基地にあったドローンと部品=2024年2月

 2023年、ガザではハマスが安価なドローンを使い、監視が張り巡らされたイスラエルの検問所をあざむいた。シリアとイエメンでは、ドローンはミサイルとともに飛び、おかげで米軍は「500ドルのおもちゃ」を撃ち落とすために高価な防衛手段を使うかどうか、難しい決断を迫られている。ロシアでもウクライナでも、ドローンは新技術により、脇役から人間が誘導するミサイルへと変身した。

 武力では劣勢に立つ側は、世界をまたにかけて、しばしば互いに学び合っている。ミャンマーのドローン操縦士たちは、ディスコード[Discord]やテレグラム[Telegram]といったチャットアプリ上のグループを頼り、固定翼ドローンの3Dプリンター用設計図をダウンロードしていると語る。また、位置情報が漏出しないよう、民生用ドローンのソフト改変の知見も得ている。

 趣味の世界では本来用途だった、動画撮影機能も活用されている。ウクライナでもミャンマーでも、戦闘の動画は胸がどきどきするような音楽を添えてソーシャルメディアで拡散されており、士気を高めて資金を集めるのに一役買っている。

 「こうした事例は指数関数的に増えており、あらゆるところで起きている」とシンクタンク「新アメリカ安全保障センター(CNAS)」のフェローで、ドローン戦争を研究しているサミュエル・ベンデット氏は言う。「YouTubeで組み立て方を学び、テレグラムで戦術や訓練のヒントを得ることができるのだ」

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シャンジー氏(左)は、ミャンマー国軍へのドローン攻撃を数十回成功させてきた、と話した=2024年2月

リーダーは「3D」

 抵抗勢力のドローン部隊トップは、「3D」というコードネームで呼ばれている。ドローンの部品を3Dプリンターで製造するのに成功したからだ。典型的な兵士とは違うタイプかもしれない。コンピューターテクノロジーの学位を持つ彼は、大学時代に初めて3Dプリンターを組み立てたときのことを振り返った。

 「それほど難しくはなかった」

 抵抗運動に参加してから、スキルを生かそうとまず、3Dプリンターでライフルの製造を試みた。それがうまくいかなかったため、ドローンに目を向けた。世界のほかの地域で起きている戦争を一変させている、という記事を読んだからだ。

 シンクタンク「国際危機グループ(ICG)」のリチャード・ホーシー氏は語る。「彼らは技術を使う破壊者タイプ[tech disrupter-type]の思考様式を持っていた。そして、イノベーションがたくさん起きた」

 3Dが部隊創設に乗り出したとき、訓練のマニュアルはなかった。そこで、彼はミャンマー各地で同様の部隊を立ち上げている若い民間人たちに相談した。デジタルでつながったミャンマー育ちの若者たちは、2021年にクーデターが起き、抗議デモが容赦なく弾圧された後、戦うためにジャングルに身を潜めた。

 3Dのチームにいるパイロット10人のうち、クーデター前にドローンを操縦したことのある者はいなかったが、彼らはオンラインのチャットルームを徹底的に調べ、殺虫剤散布用のドローンをより致命的な用途、つまり兵器に転用する方法を学んだ。

 3Dは言う。「インターネットはとても便利だ。その気さえあれば、ウクライナやパレスチナ、シリアなど、あらゆる場所の人々と話すことができる」

 最近、3Dは「爆買い[shopping spree]」をした。ある問題に直面したため、ウクライナの最前線の塹壕で完成された解決策を求めてのことだった。問題というのは、信号を遮断してドローンを無力化してしまう、ロシア製の妨害電波発信機のことだ。

 3Dがドローン軍を結成してから数カ月も経たないうちに、軍事政権は中国とロシアの妨害技術を用いて、ドローン誘導に使うGPS信号にスクランブルをかけ始めた。

 3Dは巻き返しを探っていた。抵抗勢力の戦闘員を追跡するために国軍もドローンを飛ばす。その際には、妨害電波を中断しなければならない。そのすきに、自分たちのドローン編隊を送りこむことができるはずだ。

 それに、新型の一人称視点ドローン[first-person-view drones](機体視点の映像を見ながら操縦するタイプ、略称FPV)であれば、守りを固められても突破できる可能性がある。趣味のレース用機体を転用したFPVは、GPSの誘導ではなく人間が操縦するため、妨害電波の影響を受けにくい。時には、発せられる妨害電波を避けるように操縦することもできるだろう。

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チームメンバーと話すシャンジー氏(右)=2024年1月

戦闘機が頭上に

 戦闘も犠牲者も後を絶たない。

 3月20日、抵抗軍パイロットのスターであるシャンジー氏は、前線でドローンを飛ばしていた。突然、もっとずっと恐ろしい飛行機、すなわち軍事政権の戦闘機が頭上で鋭い音を立てた。3Dが後で説明したところによると、爆弾が直撃し、シャンジー氏は戦死した。22歳だった。

今朝の東京新聞から。

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台湾の観光地になる日本統治時代の遺産 「光」の中にも「陰」の歴史(朝日新聞有料記事より)


 木造の本堂に弘法大師や不動明王の像が立ち、境内にこいのぼりがたなびく。お守りやおみくじ、御朱印もある。日本の寺との違いといえば、絵馬のほとんどが中国語で書かれていることぐらいだ。

 ここは台湾東部・花蓮県にある真言宗の寺「慶修院」。花蓮県には日本統治時代に造られた建築物が多く残り、観光地にもなっている。その一つであるこの寺に私が足を運んだのには、理由があった。

 4月3日、最大震度6強の地震が花蓮県を襲った。死者十数人を出し、過去25年で最大規模の地震だった。

 現地で取材をすると、避難所は素早く開設され、アロママッサージまで用意されていた。日本なら後回しにされそうな細やかなケアもボランティアによって即日提供できる、台湾の市民社会の成熟ぶりに驚いた。

 一方で、対照的に「日本はすごい」と、現地で話題を集めたニュースがあった。発災から3日後、主要道路が落石で寸断されるなか、近くにかかる日本統治時代に造った橋が、損傷せずに残ったのだ。その橋を使うことで道路が開通した。

 なぜ花蓮にはこうした建築物が残るのか。どんな歴史があり、思いがあったのだろう。それを知りたくなって慶修院を訪ねたのだ。

四国の形をした池、その由縁とは 

 「ここは四国のお遍路と同じ御利益があるんだ」。管理人の陳義正さん(54)は胸を張った。境内の地面の一部には、四国八十八カ所霊場の土が混ぜられているという。四国の霊場にちなんだ88体の石造りの仏像が並び、池は四国の形をしている。

 その由縁は、台湾が日本に割譲されてから15年後の1910年までさかのぼる。政府主導の政策のもと、初期にこの地に集団で移住したのが徳島県出身者だった。徳島の吉野川にちなんでこの一帯は「吉野村」と呼ばれるようになり、17年に日本人の心を癒やす場所として慶修院の前身となる布教所が造られた。

 こうした官営移民村は、当時台湾各地にできた。人口が増えて困窮する日本の農村を救済したり、台湾の統治を有利に進めたりする狙いがあったとされている。

 のどかな観光地の空気のなか、本堂に入って、私ははっとした。並べ置かれた二つの位牌(いはい)。一つはこの地で亡くなった日本人を供養するもの。もう一つの位牌には「七脚川」という部落の名前が書かれている。1908年、台湾の先住民のアミ族と日本の警察が衝突した「七脚川事件」の犠牲者らのものだ。

 七脚川部落は、慶修院から北に約2キロ、山のふもとにある。部落の長である「頭目」を以前担っていた家を訪ねた。門には羽根を頭に付けた男性の顔の木彫りが施され、赤、黒、白の3色で織りなす幾何学模様のタイルで装飾されている。

 笑顔で迎えてくれた前頭目の長男、イチ・ローオさん(63)は、ここで民族の伝統料理を出すレストランを経営しながら、事件の語り部もしている。

 イチさんによると、事件のきっかけは、日本側が支払う給料をめぐるトラブルだった。当時日本は、日本軍に激しく抵抗するタロコ族の力を抑えるため、敵対するアミ族に防衛をさせていた。その給料を含む待遇に不満を抱いたアミ族の若者らの蜂起を、日本側は軍隊を率いて弾圧。アミ族側の死者は30人とも200人以上とも言われる。

 イチさんはとうとうと語る。見せしめのように民族の伝統的な衣装や陶器が奪われたこと。部落の人たちは土地を追われ、散り散りになったこと。部落内にあった独特の階級文化も消滅したこと。こうして空いた土地に日本人が入植し、できたのが吉野村だということも。

 部落の人は、この歴史と日本をどんな思いで見てきたのだろう。イチさんは、二つの世代の異なる見方があるという。事件を経験し「当然、日本を恨んでいた」という祖父母の代。そして、日本の教育を受け「複雑な心情を抱えている」という両親の代だ。

 文字を持たず、主に物々交換で成り立ってきた部落の暮らしに、突如として日本によって推し進められた道徳や識字、貨幣経済、税金の徴収、駐在所による監視、犯罪への懲罰――。日本の影響で台湾は「近代化した」などと日本で語られることも多いが、そこには人々の困惑や不満もあった。

イチさんの名前の由来

 ただ、3代目のイチさんの日本への見方は「もっと柔軟だ」という。

 レストランには日本人研究者らが時折訪れ、事件や歴史について語らう。そんな時、イチさんは日本人に対して思う。「過ちを犯したのは今の世代ではない」。ただ、「前の世代に代わって、後世の人も申し訳ないという気持ちを示してくれたら」と。

 一方で、自身にも言い聞かせる。「歴史は忘れてはいけない。でも過去の出来事を見るときには、寛容で、平和的でなければならない。二度と起こらないようにすることが最も重要なのだから」

 そんな決意は、実はイチさんの名前にも表れている。父親が1番目の子という意味で、日本語の「いち」にちなんでつけたのだ。周囲から民族の名前に変えたほうがいいと言われたこともあったが、考えた末、そのままにした。「日本統治時代を生きた父親の背景があり、この名前には歴史的な意義がある」

 他にも花蓮県には日本統治時代の歴史を感じられる場所がある。小高い丘の上から太平洋を一望できる「松園別館」(花蓮市)は、旧日本軍の軍事施設だった。現在はアートの展示場などとして利用されている。

 花蓮からも特攻隊が飛び立った歴史があり、施設内には、特攻隊員が出征前に酒を飲んだと言われる小屋や、特攻隊員の写真や資料を展示した防空壕がある。

 「残すのは、日本を崇拝しているからではない」と語るのは館長の羅曼玲さん(65)だ。「この土地に日本人がいたというのは台湾の歴史の一部。こうした建築物を壊してしまえば、歴史もなくなってしまう」

 4月には、旧日本軍の幹部級の宿舎だった日本家屋8棟を再利用し、カフェや着付け屋にした観光施設「将軍府」(花蓮市)もオープンした。この地域の町内会長に相当する里長の呉明崇さん(72)も「歴史を次の世代に引き継ぐことが大事だ」と家屋の保存の意義を語る。

 日本の建築物が残る背景には、歴史を語り継ごうとする台湾の人々の思いがあった。でも、慶修院の陳さんは、日本人観光客は花蓮に来ても、訪れるのは景勝地・太魯閣(タロコ)ばかりだと言う。

 それを聞いて、以前、台湾出身で日本在住の芥川賞作家、李琴峰さんに取材した際にかけられた言葉を思い出した。

 「台湾に旅行に行って、人が優しくて、食べ物もおいしくて、『台湾が好き』という日本人は多くいます。それはそれでいいのですが、『光』しか『観(み)』えてこないうちは、『観光』しかできない。陰の部分も含めて多様な台湾の姿を知ってほしいと思います」

 今回の花蓮県の地震では、多くの義援金が日本から寄せられ、日台友好の温かいムードに両者は包まれている。時代とともに関係は変わっても、「陰」の歴史があったことは忘れないでいたい。

     ◇

 いわた・えみ 1992年生まれ。高松、神戸総局、東京社会部を経て、2023年から国際報道部。昨年の夏休みに台湾南部・嘉義を訪問。日本統治下の1931年、台湾の代表として夏の甲子園に出場し、準優勝した「嘉義農林」のゆかりの地を巡った。 

「愚直に」歌舞伎の古典追求 若手女形の中村梅枝、6月に時蔵を襲名(朝日新聞有料記事より)

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 「こういう時代ですから、新しいもの、面白い娯楽、たくさんございますけれど、愚直に古いものを守っていく俳優が、いてもいいのかなと思っております」

 若手女形の中村梅枝(36)は、多様な新作が彩る近年の歌舞伎界にあって、古典の作品を軸に取り組んできた自身の姿勢を「愚直」と表現する。6月、歌舞伎座で、父が43年間名乗ってきた中村時蔵の名を六代目として襲名する。大きな節目を控え、その思いを聞いた。

 ――いよいよ襲名です。

 「6月公演の台本が届きまして、台本の宛名が『中村時蔵様へ』となっておりましたので、そうか、次の公演からは時蔵なんだなということを実感しました」

「僕には、まだ早い」父からの勧め、一度は断った

 ――お父様から襲名のお話があったのは2021年6月、博多座の公演に出演中のことだったそうですね。

 「話があると言われ、ご飯に誘われて。『何の話だろう』と思っていたんですよ。そうしたら時蔵を譲ると言われて。想像していなかったので戸惑いました。皆さんが『いいんじゃない』と言ってくれるかどうか不安でしたし、父に死ぬまで時蔵でいてもらいたいという気持ちもありましたから、『僕には、まだ早いと思います』とお断りをしました。それから約2年、ことあるごとに「どうだ」と言われるので、父に会わないようにしていましたね」

 ――決意するきっかけとなる出来事があったのでしょうか。

 「一昨年の末かな。中村獅童の兄さんが父に、『6月の萬屋錦之介の公演を復活させたい』という相談をされまして。その時に父が、名前を僕に譲ろうと思っているという話を、兄さんにしました」

 ――お父様の時蔵さんと獅童さんは、三代目中村時蔵を祖父に持つ、いとこの間柄。萬屋錦之介は、お二人には叔父にあたります。20代で映画界に転じましたが、1970~90年代、6月に歌舞伎座で、一家に連なる俳優を中心とした公演を開いていました。

 「私が初舞台をさせて頂いたのも、その公演でした。昨年、『新作歌舞伎 ファイナルファンタジーⅩ(FFⅩ歌舞伎)』の稽古で獅童の兄さんとご一緒になった時に『どうなの?』と。『僕には、まだ時蔵は無理だと思います』と言うと、『そんなことないと思うけれど』と言って下さって。それも大きかったかなあ」

 「兄さんの『小川家(三代目時蔵家の本名)で芝居を開けたい』という願いは、確かに僕もそう思いました。定例化するかどうかは分からないにしても、一つ形になっていけば、小川家は人数が多いですし、女形も立役(たちやく)もいて、老け役もできる。若い人や子供もいます。ほぼ大体の演目ができるはずですから」

成長した若手「力になってあげたい」

 ――この公演では、梅枝さんの息子さんが五代目梅枝、獅童さんの二人の息子さんが、中村陽喜(はるき)、中村夏幹(なつき)として初舞台を踏みます。

 小川家の方に限らず、梅枝さんより年下の20~30代前半の俳優さんが近年、新春浅草歌舞伎をはじめ、若手公演で活躍するようになってきました。

 「彼らが浅草歌舞伎を10年間やってきて、力をつけてきていることも感じます。何より『FFⅩ歌舞伎』に出た時、僕は(新作に)慣れていない分、年下の中村米吉君や中村橋之助君、上村吉太朗君に随分助けられました。そうした姿を見て、古典でも彼らと一緒にやっていきたいという思いは、強くなってきました」

 「新作になると、どうしても若い子たちの力が必要になります。でも、彼らも古典に出たくないわけじゃないのは、よく知っているので、なるたけ彼らの力になってあげたい。彼らに力がつけば、様々な古典でお客様の心を打つ芝居が出来るようになる。それは新作にもいかされていくと思います」

 ――梅枝さんご自身は先輩たちと、古典の作品に出演することが多かったですね。

 「同い年や1歳違いの俳優がいるのは、うらやましいです。切磋琢磨もできるし、いずれ良い関係性になっていくものだと思いますのでね。僕は常に一番年下で、一番下手、という時が本当に多かったです。なので、うぬぼれる暇はなかったですね。いま振り返ると、それはとてもありがたかった」

お客様の心に残る芝居を

 「古典の難しさに初めて直面したのは、『寺子屋』の戸浪を演じた時です(12年)。そこから、何をどうしたらいいか分からない時代が続きました。(15年に)『義経千本桜』の典侍(すけ)の局(つぼね)を演じることになり、坂東玉三郎のおじ様に初めて指導して頂いたのは、かなり大きかったです。おじ様には、答えではなく、考え方の新たな選択肢を示して頂いた感じがしました。そこから随分変わりましたね。それで(18年に) 『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』の阿古屋を演じることにまで、なりましたので」

 ――襲名披露として、6月の歌舞伎座では、大化の改新を題材にした「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」から、「三笠山御殿」のお三輪。7月の大阪松竹座では「嫗山姥(こもちやまんば)」の荻野屋八重桐(おぎのややえぎり)を、共に初役で演じます。

 「お三輪にとって、好きな男性を救うことが結局、政変を助けることにつながっていくわけですけれど、それを最初から背負って出てきてしまうと、哀れさが薄れていってしまいます。どれだけ『恋に恋する』普通の町娘として出てこられるかということが、僕はとても大事だと思っています」

 「『嫗山姥』は、うちではとても大事にしている演目です。父は、曽祖父と祖父のやり方を覚えていた古いお弟子さんの中村時蝶さんに教わり、それを今回、私が受け継ぎます。とても古風でね。様々な役柄が出てきて、派手で明るい。いい演目ですし、今後もやっていきたいなと思います」

 ――時蔵として、改めて大事にしていきたいと考えているのは、どのようなことでしょうか。

 「『歌舞伎とはなんぞや』と聞かれると、やはり古典の演目に、その要素が多分に含まれると思います。なるたけ古典を突きつめて、その中でお客様の心に残るような芝居を模索していければと思っています」

 「今の若い子を見ていると、やはり新作に多く関わっているせいか、とにかくテンションで乗り切ろうとする人が、とても多いんですね。『芝居は気持ち』。その通りなんですけれど、『気持ちがあればいい』という理論でいってしまうと、歌舞伎はどの俳優さんでも出来ることになってしまう」

 「気持ちを伝えるには、技術が必要です。歌舞伎のような古典芸能では、その技術をきっちり習得し、それを使ってお客様に感動を伝えるのが、とても大事なことだと思っています。歌舞伎の品や格のようなものを、自ら落とすようなことは、僕はしたくない。まだまだ途中ですけれども、それをちゃんと習得し、その上でお客様に見て頂く。僕の使命かなと思っています」

 「口幅ったいことを申しまして……」

(聞き手・増田愛子) 

LAのリトル東京「存続の危機」 140年の歴史、未来へつなぎたい(朝日新聞有料記事より)

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リトル東京の街並み。100年以上前に建てられた建物も残る=2024年5月

 今年で誕生140年を迎える米ロサンゼルスの日本人街「リトル東京」が「存続の危機」に直面している。現地を訪れると、米国に残された数少ない日本人街を守ろうと、奮闘する人たちがいた。
(ロサンゼルス=五十嵐大介

 5月の週末、リトル東京の中心部は日本食を目当てにした多くの米国人らでにぎわっていた。アニメショップや日本食店がひしめき、地元ドジャースの大谷翔平選手のグッズなどが店先に並ぶ。白人やヒスパニック系の姿も目立つ。

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リトル東京でアニメ関連のグッズを売る店。大谷翔平選手の背番号「17」をあしらった服も並ぶ=2024年5月

 「訪れる人の多くには、この地区が繁栄しているように見えるかもしれない。だが、多くの外からの圧力や脅威にさらされている」。全米日系人博物館のクリステン・ハヤシさんはそう話す。

 米国の非営利団体「歴史保護ナショナル・トラスト」は5月、「米国で最も存続の危機にある歴史地区」11カ所を発表。リトル東京は「この地区をユニークにしてきた歴史的特徴が脅かされている」としてリストに入った。ハヤシさんら地元の関係者はリスト入りを後押ししてきた。「リストに載ることで、人々の関心を集めたかった」とハヤシさんは言う。

 リトル東京は1884年、「チャールズ・ハマ」の名で知られた日本人漁師シゲタ・ハマノスケ氏が米国風カフェ「カメ・レストラン」を開いたのが始まりとされる。日本人への排斥運動が強まった1920~30年代、リトル東京は日系人が住むことが許された数少ない場所としてにぎわった。1906年の地震に見舞われたサンフランシスコからも日系人が移り住み、第2次大戦前には3万5千人以上の日系人が暮らした。

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リトル東京の中心部にある「日本村プラザ」。週末は多くの人でにぎわう=2024年5月

 真珠湾攻撃翌年の42年、西海岸の日系人が強制収容所に送られ、日本人の姿は消えた。代わりに軍需産業の労働者として南部から移住した黒人が住むようになり、「ブラウンズビル」と呼ばれた。戦争が終わると日系人が戻り始め、街はにぎわいを取り戻していく。70年代以降、日本企業の海外進出が進み、駐在員や旅行者も買い物に来るようになった。

 日本の陶器などを売る羅府物産を切り盛りするキャロル・タニタさん(67)は、10代だった70年代、買い物や食事で訪れた日本人街のにぎわいを覚えている。近くで生まれ、両親は強制収容所で暮らした経験を持つ。タニタさんは「うどんなどの日本食が食べられる唯一の場所だった。毎週末に来るのを楽しみにしていた」と振り返る。

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羅府物産を経営するキャロル・タニタさん。リトル東京の未来は「みんなが同じビジョンを持つのがいい」と話す=2024年5月

 だが、バブル崩壊後の90年代、日本の駐在員や旅行者らが減り始めた。2000年代に入ると、ロス中心部の再開発が進み、地価が高騰。大規模な地下鉄の工事も始まり、古くからの中小事業者が離れていった。ロスの住宅価格はこの10年で約2倍に上がった。

 追い打ちをかけたのが新型コロナだ。中心部の店は営業できなくなり、「ゴーストタウンのようになった」(タニタさん)。近くに治安の悪い地域もあり、ホームレスも増えたという。

 中小事業者のオーナーが高齢化するなか、「後継ぎ問題」も深刻化している。地元団体によると、10年以上操業する中小事業者は08年に約100軒あったが、23年には50軒と半分に減った。

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和食店「こう楽」の3代目オーナー徳田護さん。30年以上勤めるヒスパニック系のコックらが腕を振るう=2024年5月

 「米国で最古のラーメン屋」を名乗る和食店「こう楽」の3代目オーナー徳田護さん(46)は、リトル東京で飲食店のコンサルタントをしてきた。後継者がいるケースはまれで、子どもに飲食店の仕事をさせたくないオーナーが多いという。「飲食店は効率が悪くて大変な仕事。職人気質のオーナーは、ギリギリまで自分で切り盛りしてしまい、人を育てる準備ができていない」と話す。

 徳田さんは日本の大学を出て25歳で渡米。飲食店でアルバイトを続け、リトル東京で複数の店を手伝っていた。コロナ下の20年、手伝っていたこう楽の2代目オーナー山内博さんが病気で亡くなり、家族から店を引き継いで欲しいと頼まれた。創業は1976年。最初は断ったものの、昨年1月に引き継いだ。家族や長年働く従業員の姿を見て「情が移った」という。

 「30年、50年後の未来につなぐために決心した。歴史を途切れさせてはいけないという使命感もあった」

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米国で存続する「最古のラーメン店」という和食店「こう楽」。1976年に創業した=2024年5月

 未来に向けたプロジェクトも動き始めている。

 リトル東京にある日系人部隊記念碑近くの広い空き地で工事が進む。地元団体が市や州などから支援を受け、約250戸の元米兵の低所得者向け集合住宅や店舗、公園を整備する。今年2月に建設を始め、26年の完成をめざす。

 リトル東京の伝統を残すため、店舗部分は地域に根ざした日本食店や文化組織を優先して入れる。立ち退きで地区を離れた飲食店「スエヒロカフェ」や120年以上の歴史を持つ洋菓子店「風月堂」なども入居するという。

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リトル東京の振興にかかわってきたクリステン・ハヤシさん(左)とクリスティン・フクシマさん=2024年5月

 地元の非営利団体「リトルトーキョー・コミュニティー・カウンシル(LTCC)」のマネジングディレクター、クリスティン・フクシマさんはこの計画に10年以上かかわってきた。日系4世のフクシマさんは「リトル東京は大都市の中にある小さな町のような存在。地域の人々をつなぐ商店や家族をいかに残せるかがカギだ」と話す。

 周辺では「多国籍化」も進んできた。地域のツアーガイドを長年務めるマイク・オカムラさん(62)によると、中心部のショッピングモール「日本村プラザ」では、新しい店の多くは韓国系や中国系ら日系人以外が経営しているという。「リトル東京は常に変わってきたし、進化しないといけない」。オカムラさんは多様な若者が日本人街で挑戦する姿を前向きに見る。

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リトル東京で30年以上、ガイドのボランティアを務めるマイク・オカムラさん。後には大谷翔平選手の巨大な壁画が見える=2024年5月

 若者離れが指摘されてきたリトル東京だが、自分たちのルーツに引きつけられる若者もいる。

 日系4世のコナー・アオキさん(24)とケイティー・マクナマラさん(21)は、初デートでリトル東京に来て以来、数カ月に1度は訪れる。家族は日本語を話さないが、アニメショップや日本食に感激したという。

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コナー・アオキさん(右)とケイティー・マクナマラさん。近く日本を訪れたいという=2024年5月

 「私たち若い世代にとって、日本の文化に触れられるとても特別な存在。将来、自分たちの子どもを連れてきて、日本文化を伝えられたらすばらしい」。マクナマラさんはそう話した。

リトル東京

 リトル東京 ロサンゼルス中心部にある日本人街。市庁舎や市警本部の近くに位置し、ドジャースタジアムからも近い。サンフランシスコ、サンノゼと並び、米国で戦前から残る三つの日本人街の一つ。1995年には国の史跡に指定された。

イスラエル入植地とは 「国際法違反」の批判にも止まらぬ拡大なぜ(朝日新聞有料記事より)

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 パレスチナ自治区ヨルダン川西岸にイスラエルが建設してきた「入植地」。昨秋にガザでの戦闘が始まって以降、ユダヤ人入植者によるパレスチナ人への暴力が増え、イスラエル政府はさらに入植者住宅を建設すると発表しています。

 入植は国際法違反だとし批判されてきました。なぜ止まらないのか。パレスチナ問題が専門の今野泰三・中京大学教授は、背後に「入植者植民地主義」があると指摘します。

 ――入植地とは何でしょうか。

 パレスチナ人から奪った土地に造成されたユダヤ人専用住宅地のことです。一般には西岸地区やゴラン高原の住宅地を指します。東エルサレムも含め、いずれも1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した地域です。国連によると、入植者は約72万人。この10年余りで約20万人増えました。

 ――どのような場所ですか。

 外観は近代的な住宅地で、イスラエル領内と変わりません。高級住宅もあれば、比較的貧しい人が住む団地もあります。イスラエル領内とは道路網でつながっており、簡単に行き来できます。

 しかし、パレスチナ人が住むエリアから入ることはできません。道路がつながっていなかったり、つながっていても分離壁や検問所で仕切られていたりします。

適用される法が異なる「アパルトヘイト政策」

 より重大なのは、適用される法律が異なることです。入植地にはイスラエルの国内法が適用され、人権が保障されています。ところが西岸地区の他のエリアは「占領地」の扱いで、軍の命令が絶対です。イスラエルという一つの統治機構がユダヤ人だけを優遇し、パレスチナ人だけを差別・抑圧している。これはアパルトヘイト(人種隔離)政策にほかなりません。

 ――パレスチナ人に対する人権侵害が指摘されています。

 パレスチナ人は、入植地の拡大で住まいや農地が脅かされても、法的に解決する手段を持ちません。抗議するしかありませんが、平和的な抗議でもイスラエル軍が「テロリスト」と認定すれば、取り締まりの対象となります。催涙弾が撃ち込まれたり、実弾が使われたりした抗議運動に居合わせたこともあります。

 ――入植地はどのように拡大しているのですか。

 典型的な方法は「アウトポスト」と呼ばれる小規模な住居の建設から始まります。イスラエル政府が許可していない地域に、一部の過激な入植者がコンテナハウスを運び込んで、生活を始める。すると、その「入植者を守る」という名目でイスラエル軍がやってきて、道路や電気が整備され、やがて住宅地になってしまいます。

 こうしてできた入植地に対し、イスラエル政府は税を優遇したり補助金を出したりして、移住のインセンティブを作り出します。

 ――国際法違反だと指摘されています。

 最も重大な違反は、ユダヤ系住民を優遇し、パレスチナ人を抑圧するアパルトヘイト政策です。アパルトヘイトは国際刑事裁判所(ICC)が管轄する「人道に対する犯罪」の一つであり、国際人権団体も批判してきました。

 軍事占領した土地に自国民を送り込むのは、戦時の文民保護に関するジュネーブ第4条約にも違反します。私有財産権や最低限の生活を送る権利の侵害など、人権侵害は多数あります。

巨大な「入植地」としてのイスラエル

 ――入植地建設を続けるのはなぜでしょうか。

 ここまで論じてきたのは、イスラエルが1967年に占領した土地に建設されてきた、いわば「狭義の入植地」です。イスラエル側の論理を理解するには、「入植」をより広くとらえる必要があります。

 ――どういうことでしょうか。

 先住のパレスチナ人の土地を奪って建国したという意味で、イスラエルという国自体が巨大な「入植地」だということです。

 根本にあるのは「シオニズム運動」です。聖書に基づき、シオンの地(エルサレム)に自分たちの国をつくるという思想・運動で、19世紀から盛んになりました。

 運動を推進する「シオニスト」たちは19世紀後半からパレスチナへの入植をくり返してきました。1948年のイスラエル建国も、1967年以降の入植地建設も、この延長線上にあります。

 先住民の権利を顧みないという意味でシオニズムは植民地主義的な思想と言えます。最近は「入植者植民地主義」(セトラーコロニアリズム)の視点からとらえる動きがあります。

 ――どのようなとらえ方でしょうか。

 近代の帝国主義の中で生まれた「植民地主義」は、経済的利益を得るために海外の土地を支配する考え方でした。一方の入植者植民地主義は、外来の入植者がその土地に永続的にとどまり、先住民社会を破壊し、土地を奪います。米国やオーストラリア、南アフリカなども、入植者植民地主義によって生まれた国家と言えます。

 ――先住民は誰かを考えていくと、イスラム教徒の前にはユダヤ教徒がいた、といった議論につながっていきませんか。

 イスラエル建国以前のパレスチナでは、イスラム教徒が多数派でしたが、キリスト教徒とユダヤ教徒も生命や財産を保障されてきました。改宗してイスラム教徒になった人もいます。他方でイスラエルは「ユダヤ人国家」を自称していますが、シオニズムはユダヤ教に反すると考えるユダヤ教徒も多く、シオニズム=イスラエルではありません。

 問題の本質は宗教対立ではありません。それまで共存していたイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の先住民の暮らしが、ユダヤ人の代表を名乗るシオニズム運動によって破壊され、ユダヤ人のみの国に置き換えられてきた点に問題があるのです。

 ――どのような対応が考えられますか。

 二つの事例がしばしば参照されます。一つは旧フランス植民地のアルジェリアです。独立にともなって入植者が去り、いわば入植地が「返還」された形です。もう一つは、アパルトヘイトがあった南アフリカです。白人入植者を含むすべての住民を法的に平等にする方向で解決が図られました。

 イスラエルの入植地問題は、国際社会が植民地主義にどう向き合うかという問題でもあります。

(聞き手・真野啓太) 

今朝の東京新聞から。

P5232464

今朝の東京新聞から。

P5232466

「恐怖の一夜」1950年

監督:マーク・ロブスン
脚本:フィリップ・ヨーダン
出演:ダナ・アンドリュース、ファーリー・グレンジャー、ロバート・キース

花屋に勤める貧しい青年が、死んだ母親の葬儀を教会に頼む。しかし、金がないことを理由に断られたため、彼は怒って牧師を殺してしまう。目撃者もなく、彼はそのまま逃走したが、犯人として別の男が捕まったとき、彼は良心の呵責に耐えかねて真実を告白をする。そしてその姿は、若い牧師に、伝道のあるべき姿を悟らせるのだった……。


マリウポリ占領2年、散り散りの市民 市長「帰る希望失っていない」(朝日新聞有料記事より)

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  ウクライナ南東部の港湾都市マリウポリがロシア軍によって「完全制圧」されてから、20日で2年になる。全面侵攻に終わりは見えず、散り散りになった元市民たちの疲れは募り続ける。それでも、17日に朝日新聞の取材に応じたボイチェンコ市長は「帰る希望を失ってはいない」と訴える。

 ボイチェンコ氏によると、2022年2月の侵攻前、マリウポリには市民と、親ロシア派勢力が支配する東部ドンバス地方からの避難民を合わせた約54万人が暮らしていた。

 「道路も交通機関も病院も学校もすべてがきれいで、文化の中心地で、工業都市でもあった」

 マリウポリは、ロシア、ウクライナ双方にとって、戦略的に重要な都市だった。侵攻後は激しい戦闘が続き、22年5月20日、最後まで残っていたウクライナ兵が製鉄所「アゾフスターリ」で投降した。

 ボイチェンコ氏によると、死者は「確実にわかっているだけで2万2千人」といい、数十万人は国内外に家を追われた。一方、10万人の市民がなお現地に残り、新たに10万人ほどがロシア側から「移住」した。これは、占領を既成事実化する試みだと指摘されている。

 「ウクライナに関するものを破壊し、民族のアイデンティティーを消し去り、別のものを植え付けようとしている。ソ連時代と同じだ」

 ボイチェンコ氏の93歳の祖母は、まだマリウポリに残る。知人に様子を見にいってほしいと頼んだところ、3回祖母宅を訪ねた後で、知人は逮捕されたという。ロシア占領下の当局が主張する容疑は、マリウポリがあるドネツク州の「首長」を名乗る親ロシア派幹部を暗殺しようとしたというものだったという。

「帰る希望は失っていない」

 侵攻に終わりが見えないなか、世論にも変化が出てきた。

 ウクライナの昨年12月の世論調査によると、「平和の実現や独立維持のためには、領土を諦めても仕方がない」と答える国民が19%と、侵攻後最も高い割合になった。

 だが、ボイチェンコ氏は「帰る希望を失ってはいない」と強調する。

 「譲歩してロシアと交渉をしたとしても、後にロシアは再び土地を奪いに来る。日本が北方領土を諦めないように、私たちもマリウポリを放棄することはできない」

 いまもマリウポリに住む市民2千人ほどが、街で何が起きているのか、情報を寄せてくれている。市は、マリウポリの「復興プラン」も策定している。

 「ウクライナの勝利のために、団結が必要だ。勝利とは、ロシアが与えた損害が賠償されることだ。ウクライナは自由のためにだけ戦っているのではない。ロシアの攻撃が広がらないよう、世界を守っている」

避難民たちはいま

 小さな男の子が、チョコレートを手にしている。女の子たちは、折り紙で「母の日」のカードを作っている。

 母親や保育士が、その様子を見守る。おいしいね、じょうずだね。声をかけ、笑顔を見せる。

 建物内には、美容室や学習部屋、歯科診療所やカウンセリング室、裁縫のための作業所や配布用の食料備蓄室もある。

 施設の名は「ヤー・マリウポリ」(私はマリウポリ)。首都キーウにあるが、利用者も職員もみな、ウクライナ南東部の激戦地からの避難民だ。同様の施設は、ウクライナ各地の計27カ所に設けられている。

 マリウポリがロシア軍によって完全に占領されてから、20日で2年になる。いまも計6万2千人がこれらの施設を利用する。

 「ほとんどの市民に住宅がない。ここでは生活面や心理面のケア、就職のあっせんもしている」と施設長イリーナ・ブリギナさん(37)は言う。

街のシンボル、通過直後に爆撃

 自らも22年3月16日、マリウポリを離れた。食料も電気も、水も通信手段もなく、自分の街で何が起きているのかすら理解できなかった。避難する車からは市のシンボルだった劇場が見えたが、通り過ぎた直後、爆撃された。

 キーウに着くのに1週間かかった。「故郷が完全に破壊されて、いまも頭の中で処理することができない」。この2年間は「命のため、尊厳のための戦い」だった。

 「マリウポリに戻りたい。幸せな人びとがいた、幸せな街。国際社会には、あの街を取り戻す手助けをしてほしい」。思い出すと、こみあげてくるものを抑えられないでいる。

 キーウの施設で取材に応じたマリウポリのイウチェンコ副市長によると、施設は「コミュニティーを保ち続けるため」につくられた。国際機関や人道団体からの支援のほか、寄付金で運営する。ただ、2年前に比べて集まる額は少なくなっているという。

 イウチェンコ氏は言う。「戦争をテレビで見るならば、チャンネルを切り替えることができる。ただ、目の前で戦争が起きて、友人が殺され、自宅が破壊され、故郷が失われたら、どうか。それを世界のみなさんにも考えてほしい」

 また、マリウポリを守るために最後まで戦った「アゾフ連隊」のデニス・プロコペンコ指揮官によると、1月末時点で、アゾフ連隊の兵士900人以上がロシア側に捕虜としてとらわれたままだ。

 今月18日には、兵士の家族らがキーウ市内で会見を開いた。夫が捕虜になっているスビトラーナ・シャキロワさんは「絶望と痛みと涙の2年間だった」と語り、「夫たちはゆっくりと殺されていく。一刻も早く、連れ出してほしい」と訴えた。
(キーウ=藤原学思

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