香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2024年07月

トランプの右腕の妻に注目 米国で存在感増すインド系の政治力(朝日新聞有料記事より)


Indian Americans Become a Political Force, Just as Usha Vance’s Profile Rises

 オハイオ州選出のJ・D・バンス上院議員が7月15日、共和党の大統領候補であるトランプ前大統領の副大統領候補に決まった時、インド系米国人でヒンドゥー教を信仰するウーシャ・バンス氏が初めて副大統領夫人になる可能性が出てきた。

 それは注目すべき現実を確たるものにした。つまり、現時点では、インド系の女性がホワイトハウスでもう1期務めるか(訳注:現副大統領で、民主党の大統領候補に指名される見込みのカマラ・ハリス氏を指す)、もしくは副大統領夫人(訳注:ウーシャ・バンス氏を指す)になるかということだ。

 それはこの10年間、政治における一大勢力として台頭してきたインド系米国人コミュニティーにとって、直近の画期的な出来事だ。2021年にはカマラ・ハリス氏がインド系として、女性として、また黒人として初めて副大統領に就任した。24年の大統領選では、ニッキー・ヘイリー氏とビベック・ラマスワミ氏という2人のインド系米国人候補が初めて登場した。

 また、現在では連邦議会に5人、州議会には40人近くのインド系議員がいる。アジア系米国人に関するデータを収集する団体「AAPI Data」によれば、米国内におけるアジア系グループでは最大の数だという。

 もう一つ、インド系米国人にとっては初めてとなることがある。昨年発表された国勢調査の報告書によると、インド系はこのほど中国系を抜き、一つの出身国を自認する人々の中で国内最大のアジア系グループとなった。20年には、440万人近くがインド系であると認識している(出身国が複数に及ぶとする人々を数えると、中国系が依然として最大のグループだ)。

米国でインド系市民の影響力が増しています。インド系移民が急増している背景や、かつては民主党員だったという謎めいたウーシャ・バンス氏の経歴などについて、NYT記者が詳しく報告しています。

 ほとんどのインド人は、1965年以降に米国にやってきた。新しい移民法により、それまでアジア系やアフリカ系などを排除していた制限が撤廃されたためだ。米国におけるインド系人口はここ数十年で急増した。特に、成長著しいテクノロジー分野の米国企業がソフトウェア・エンジニアやコンピューター・プログラマーを大量に雇用するにあたり、インドで最も高い教育を受けた労働者たちを引き寄せたためだ。

 米国にいるアジア系の中で、インド系は平均して最も裕福で、最も学歴が高いグループだ。また、政治や市民活動への関わりについても、ほぼすべての指標で、インド系はアジア系の中で最も高いかそれに近い順位にある。専門家たちによると、出身国であるインドでは根強い民主主義の伝統があり、英語の使用頻度が高いことが大きな要因だという。

 「インド系は、米国政治での影響力を増している」と、「AAPI Data」の創設者でエグゼクティブ・ディレクターのカーティック・ラマクリシュナン氏は言う。

 人口が増加したのは最近のことだ。ハリス氏の母、シャマラ・ゴパラン氏が58年にカリフォルニア大学バークリー校の大学院に進学するために渡米した時、彼女は米国内に住むわずか1万2千人のインド系移民のひとりだった。

インド系の増加、きっかけは1965年の移民法

 65年の移民法以降に移住したインド人の多くは、高等教育を受けるために米国にやってきた。この移民法は、欧州系を優遇していた出身国別のクオータ制を撤廃した。学業を終えた後、多くのインド人は仕事を見つけ、雇用主の援助を受けて合法的な永住権を取得した。そのほか、高度なスキルを要する仕事をするために、企業や団体によって米国に呼ばれた人もいる。

 ウーシャ・バンス氏の父クリシュ・チルクリ氏は、インドの工学系大学では最も権威のあるインド工科大学で学んだ機械工学者だ。母親のラクシュミ・チルクリ氏は生物学者で、現在はカリフォルニア大学サンディエゴ校のカレッジの幹部である。

 2人はウーシャ・バンス氏と姉妹のシュレヤ氏をサンディエゴ郊外にある中産階級の上位層が住むランチョ・ペニャスキートスで育て、家では(インドの公用語の一つ)テルグ語と英語を話していた。チルクリ家は南インド出身の結束の強い6家族のひとつだ。(6家族の)成人の多くはエンジニアか教育者だった。ウーシャ・バンス氏と彼女の両親は、取材の要請に応じなかった。

 全米のインド系人口の増加を反映し、サンディエゴのインド系コミュニティーが80年代半ばの約200世帯から、現在の約4万人に膨れ上がっても、6家族の結束は固かった。そう話すのは、彼らが時折通う地元のヒンドゥー教寺院、シュリ・マンディールのラミ・レディ・ムティアラ会長だ。

 女性たちは熱心な読書家で、よく集まっては小説について語り合い、男性たちはグアバやマンゴーといったトロピカルフルーツを栽培するコツについて情報交換していたと、チルクリ家と親しいラメシュ・ラオ氏は言った。「インドでの夏の経験を米国でも再現できないか試してみたいという考えに取りつかれていた」

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共和党全国大会で副大統領候補のバンス上院議員が紹介される直前、バックステージで待つウーシャ・バンス氏=2024年7月15日

 この20年で、テック系労働者の需要が高まり、スキルの高いインドからの移民が新たに急増した。現在米国にいるインド系の約60%は2000年以降に入国した。近年、南部の国境を不法に越えるインド系移民の数も急増している。米国の調査機関「ピュー・リサーチ・センター」によると、21年時点で、約72万5千人のインド系移民が米国に不法滞在している。

 異なる信仰や経済的な背景、教育レベルなど、インド系移民の間にも多様性が広がったことで、カーストに対する偏見や、インドの首相、ナレンドラ・モディ氏のヒンドゥー至上主義政治といった問題をめぐり、コミュニティーの分裂を生み出してきた。

 その間も、インド系コミュニティーは米国政治への関わりを深めてきた。

政治的に謎の多いウーシャ・バンス氏

 ウーシャ・バンス氏は政治的に謎の多い人物だ。有権者登録の記録を含むオンラインデータベースによると、彼女は少なくとも14年までは民主党員だった。友人たちによると、彼女の夫が「ネバー・トランプ」を掲げてトランプ氏を批判する立場から熱烈な支持者に変わっても、彼女は自身の政治に対する考えを公でもプライベートでもほとんど語らなかった。

 7月17日夜の共和党全国大会で、バンス氏が共和党の副大統領候補になって初めて注目される場に登場したウーシャ・バンス氏は、夫について愛情を込めて語り、「肉とジャガイモのような男」であるにもかかわらず、彼女の母親のためにインド料理の作り方まで学んだ献身的な父親であり夫であると話した。

 しかし、彼女のスピーチには明らかに欠けていたふたつの言葉があった。それは「ドナルド・トランプ」だった。

米国が引きずる17世紀の理念 トランプ氏襲撃を生んだ銃所持の神話(朝日新聞有料記事より)

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 トランプ前大統領が選挙集会で演説中に銃撃を受けた事件は、銃が蔓延する米国社会のいびつさを浮き彫りにした。建国以来、銃所持の権利が認められてきた米国の特異性について、北九州市立大学教授の中野博文さんに聞いた。

銃所持の背景にある建国時の「自治の思想」

 ――トランプ氏銃撃を知り、どう考えましたか。

 「意外には思いませんでした。ご存じの通り、米国では銃による乱射事件や政治家の襲撃は珍しいことではありません。学校でも毎年、子どもたちが乱射事件に備えた訓練をする。銃規制派の政権になると、逆に銃の売り上げが増え、銃メーカーの株価が上がる。それが米国社会です」

 ――銃の所持は、合衆国憲法で認められていると言われています。

 「憲法修正第2条は『よく規律されたミリシアは自由な国家の安全にとって必要であるので、人民が武器を保有し携帯する権利を侵してはならない』というものです。民兵と訳されるミリシアは、市民が自主的に組織した軍事組織のことですが、最高裁は2008年、同条について個人が銃を保有する権利を保障していると判断しました」

 「建国前、植民地や開拓地では、共同体を守るために市民が武装していました。そして州が集まって合衆国ができると、連邦政府が独裁的、専制的になることを防ぐ目的で、修正第2条が作られました。人民による自治の思想が、その根にあるのは確かです

あとから作られた「神話」

 ――建国の時代の信念に根ざしているから、銃の規制は難しい、と?

 「話はそう単純ではありません。人民の武装の権利と、個人が自由に銃を持てることの間には、大きなギャップがあります。当時から人々の考え方として受け継がれてきたものと、あとから作られた『神話』の部分があると思います」

 「時代を経て、銃は『自由の象徴』として神格化されていきました。例えば、銃メーカーのコルトは『リンカーン大統領は奴隷解放宣言をした。コルトは人々を平等にした』と宣伝していました。銃所持の理念は、銃メーカーと一部の政治勢力が意図的に広めてきたと言えるでしょう」

 ――米国では、暴力で連邦政府に対抗しようという勢力も絶えません。

 「ええ。近年でも一部の極右主義者たちが1990年代に武装団体を組織し、自らミリシアと名乗りました。オクラホマ州の連邦政府庁舎が爆破された95年の事件の実行犯もミリシアを名乗る団体のメンバーでした。2021年の連邦議会襲撃事件も、民間のミリシア団体が暴動を扇動しています。そういう人たちはごく一部ですが、その主張に引き寄せられる人たちが一定数いると考えていい」

 「その背景にあるのは、1960年代の公民権運動で、連邦政府が南部の州の人種隔離政策を批判し、軍事介入した事件だと考えます。アラバマ州では黒人学生の大学入学を州知事が拒否するという事件が起きましたが、ケネディ大統領が州兵の連邦軍への編入を決めて実力で黒人学生の入学を実現させました。連邦政府の力をまざまざと見せつけられた南部の差別主義者たちは、自分たちも武装が必要だと思い込んだのでしょう」

右派に限らない「不正をただす暴力」を容認する傾向

 ――今回の事件は単独犯とみられ、背景ははっきりしませんが、政治を正すためには暴力をふるってもいいと考える傾向が米国にあるのは、なぜでしょうか。

 「米国に根強い考え方として重要なポイントが二つあります。まずは、額に汗して働いた人は必ず豊かになれるという信念です。真面目に努力しても報われなかったとしたら、人民をだまして利益を得ている者がいるに違いない、と。それを正すための暴力は許される、という考えにつながります。これは右派に限らず、反トランプの左派にも共通しています」

 「もう一つは、反エリート主義です。普通の人々の常識で社会を運営することを重んじ、エリートは人民をだます存在であると考える。反知性主義とも呼ばれますが、自分たちのやり方で社会の問題を解決しようとする独立の精神とも言えるでしょう」

 ――それにしても、人を殺傷する武器を規制できないのは理解できません。

 「米国独立宣言が1776年、さかのぼれば北米大陸に最初の植民地ができたのは1607年で、日本では江戸幕府ができたころです。独立戦争や内乱があり、人々には連邦政府が武力を独占することへの懸念や、自分たちの力で自由を守らなければいけない切迫感があった。そんな時代に形作られたのが『人民の武装』の理念ですから、どこかの段階でそれを切り替えることが必要だったのだろうと思います。17世紀の考え方を21世紀まで引きずっているのは無理がある」

 「トランプ氏を銃撃した犯人が使っていたのは、軍用銃からフルオート機能を取り除いただけの殺傷力の強いAR15という銃でした。そんなものが普通に買える社会は、どう考えてもおかしいと思います」(聞き手・真鍋弘樹)

タワーマンション規制する神戸「廃棄物作るに等しい」 人口争奪戦の是非(朝日新聞有料記事より)

 関西屈指の繁華街、神戸・三宮。そこから神戸港に向かう一角に間もなく「最後のタワマン」が完成する。

 地上27階建て、高さ90メートル超のタワーマンション2棟は、JR三ノ宮駅から南に約1キロのウォーターフロントに並び立つ。

 上層階からは「1千万ドルの夜景」とされる一部や港が一望でき、「リゾートホテル並み」との評判が広がる。建設した住友不動産によると、上層階の2億円近い部屋を含めて計690戸の売れ行きは好調だという。

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新築されるタワーマンション「ベイシティタワーズ神戸」から見た神戸の夜景=2023年4月9日午後7時14分、神戸市中央区

 タワマンの魅力だけが人気の理由ではない。

 同社の広報担当者は取材に答えた。「神戸市のタワマン規制で希少性が高まっている。時とともに価値が上がる可能性も高い」

 着工は2019年。翌年、神戸市はJR三ノ宮駅南側の繁華街一帯の22・6ヘクタールで住宅新設を禁じ、その外側を囲むように新神戸駅から神戸駅にかけての市街地292ヘクタールも、容積率400%以上の住宅建設を規制した。

 その結果、市中心部では一般的に20階建て以上とされるタワマンが事実上新築できなくなった。

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神戸市がタワーマンションの新設 を事実上規制する区域

 同じ時期、大阪・梅田では大阪駅北側の再開発に合わせ、複数のタワマン新設が進み、職住近接を求める富裕層や、高収入の子育て世帯を引き寄せていた。

 多くの住人を集め、「街の繁栄の象徴」とも言えるタワマンを神戸市はなぜ規制するのか。

人口減に直面する神戸、タワマンは「将来の廃棄物」?

 東京や大阪に人口が集中する一方、日本全体では2040年に現役世代(生産年齢人口の15~64歳)が2割減る。そんな「8がけ社会」の未来を前に、神戸市の久元喜造市長は「自治体間で人口を奪い合うタワマンは人口減少時代にふさわしくない。大阪がどんどん建てるから神戸も、という発想には立たない」と他の大都市とは一線を引く。

 神戸市の人口は、2011年の154万5千人をピークに減少に転じて久しい。死亡が出生を上回る自然減が主な要因だが、外からの転入による社会増でカバーできず、政令指定市では後発の福岡市に15年、川崎市に19年に抜かれた。

 昨年10月には150万人を切り、20政令指定市のうち人口規模は5位から7位に後退した。主要な大都市では、人口減の「荒波」にいち早く直面してきたのが神戸市だった。

 「神戸市が再び人口増に転換する可能性はほぼない」。そう公言する久元氏は、「人口が減るのが分かっていながら住宅を建て続けることは、将来の廃棄物を作ることに等しい。タワマンはその典型」と語る。

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朝日新聞の取材に応じる久元喜造・神戸市長=2024年6月21日午前10時39分、神戸市役所

 タワマン規制の理由に挙げるのが、将来のリスクだ。

 タワマンが老朽化すれば修繕費はかさむ。居住者は多種多様で合意形成は難しく、修繕費の備えも不十分にならざるを得ない。いずれ価値が下落して居住者が減れば、解体費用をまかなえずに廃虚と化し、まちの中心部に残る――。

 神戸市が問題視するのは、そうした老朽化の懸念だけではない。

 市中心部のタワマン建設ラッシュで住民を引き寄せれば、都市部の過密と同時に周縁部の過疎は一層加速する。増える空き家は、じきに廃棄物に。郊外が「歯抜け」状態となれば、本来はまちづくりに生かすべき鉄道などの交通インフラの維持が難しくなり、市の資産は負債に転じる。

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「タワマン規制」区域内で建設中の「ベイシティタワーズ神戸」の外観=2024年6月21日午後0時14分、神戸市中央区

 市中心部を大阪に働き手を供給するベッドタウンではなく、企業や商業施設を集積する「活気ある都心」とすることで、神戸全体を牽引する狙いもある。

 こうしたタワマン規制には先例がある。

 横浜市は06年から「都心機能誘導条例」を施行。タワマン建設による住民増で周辺の小学校の教室不足などの課題が生じていた横浜駅周辺で、住宅の容積率を制限し、商業施設などを含まないタワマン建設を事実上禁じた。同時に複合施設の高さ制限を緩和したことで、市は「都心部の活性化につながってきた」とし規制の効果を認める。

大阪で進む開発、全国で増えるタワマン

 横浜市の議論に関わった駒沢大の内海麻利教授(都市計画学)は「人口減少時代こそ、都市政策が重要。タワマンは一部の地区での活性化に寄与する一方、空き家や空き地の問題を加速させ、都市全体を衰退させる可能性がある。人口減少時代の都市のあり方を自治体が見定めた上で、計画的にタワマンの規制などに踏み込むことが必要」と神戸市の対応を支持する。

 だが、規制を追随する自治体はなく、その多くは人口増加の起爆剤にタワマンを位置づける。

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再開発工事が進む旧国鉄梅田貨物駅の跡地「うめきた」エリア(中央)周辺=2023年4月12日午後5時47分、大阪市北区

 不動産調査会社の東京カンテイによると、最高階数が20階以上の分譲マンションは過去30年で右肩上がりに増えている。23年末時点で国内に1515棟あり、東京都(479棟)と大阪府(273棟)に集中する。

 近年は、開発適地が残る大阪府での建設が活況で、22年には、地上56階建ての「梅田ガーデンレジデンス」を含む全国最多の9棟が完成した。23年も東京と並んで最多9棟が建った。大阪市の担当者は「居住を一定制約、規制する施策は必要はない」と語り、神戸市が懸念するタワマンの廃虚化や周縁部の過疎化については「今時点で課題を持つには至ってはない」との立場を取る。

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大阪駅北の再開発プロジェクトの完成予想イメージ

人口争奪の自治体間競争、神戸「乗らざるを得ない時も…」

 大阪市のタワマンに住む男性(40)は「神戸は好きな街だが、今後、中心部に新しいタワマンが建たなければ住む選択肢に入ってこない」と断言。「タワマン人気のトレンドに乗らなければ、神戸市の人口減少は歯止めがかからないだろう」と予見する。

 総務省が7月24日に公表した「住民基本台帳に基づく人口(24年1月1日時点)」では、23年の1年間で大阪市は人口が16055人増え、神戸市は10492人減った。全市区町村で大阪市は増加数1位、神戸市は減少数でワースト1位だった。

 神戸市自身も、周辺でタワマン建設ラッシュが続く中、規制によって人口流出が加速していることは自覚する。さらにそこへ、子育て政策や住みやすさをめぐる自治体間競争が追い打ちをかける。

 前市長が独自の子育て支援策で注目を集めた西隣の明石市、大阪により近い西宮市や尼崎市は、子育て世代への支援策を競い合う。そこには、人口減少時代だからこそ、多くの若年層を集めることで街の活気とともに、税収や行政サービスを維持したいという思いも透ける。

 こうした人口争奪戦に出遅れ、税収の落ち込みによってサービス格差が広がれば、さらなる人口流出を促す「負のスパイラル」に陥りかねない。

 実際、大阪府が高校などの授業料「完全無償化」を導入し、財政上の理由から兵庫県では同様の対応ができない中、子育て世代を争奪しあう神戸市は、市内の高校生の通学定期券代の全額補助を決めるのが精いっぱいだった。

 久元氏は「人口の奪い合いではなく、同じ圏域として連携・協力し、全体の発展を目指すべきだ」と語るが、同じ圏域内でサービス格差が生じる現実に「(人口の争奪戦に)乗らざるを得ない時もある」と認める。

 人口減少社会の波が都市部を襲う8がけ社会の未来を前に、どんな「先手」を打つべきか――。人口争奪戦の渦中にある都市は、いまの競争と未来の生き残りの双方を求められるジレンマの中にある。
(小川聡仁、鈴木智之)

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新築されるタワーマンション「ベイシティタワーズ神戸」と神戸の景観=2023年4月10日午後6時42分、神戸市中央区
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新築されるタワーマンション「ベイシティタワーズ神戸」から見た神戸の夜景=2023年4月8日午後7時32分、神戸市中央区
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新築されるタワーマンション「ベイシティタワーズ神戸」から見た神戸の夜景=2023年4月8日午後7時、神戸市中央区
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再整備が進む神戸市中心部の三宮周辺=2021年4月23日、神戸市中央区

「成功した占領」という戦後の神話 隠された基地被害と日米の不平等(朝日新聞有料記事より)

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 「米軍など連合国軍による占領で、日本は平和国家に生まれ変わった」。戦後しばしば語られてきた言説だ。歴史研究者で大阪大学教授の藤目ゆきさんは、これは「神話」だと指摘します。米兵による犯罪や事故で多くの民間人が犠牲になり、朝鮮戦争で在日米軍基地が出撃拠点となったことをどう考えるのか。来年は戦後80年。戦後日本の「不都合な真実」を語ってもらいました。

     ◇

 ――第2次大戦に敗れた日本は米軍を中心とした連合国軍によって1945年から6年8カ月間、占領されました。この間、占領軍の事故や犯罪で多くの人々が犠牲になりました。なぜ、この問題に注目するのですか。

 「日本は、占領政策のもとで軍国主義から平和な民主主義国家に生まれ変わったと言われます。後にイラク戦争で米国などがイラクを占領した際も、日本が成功モデルとして持ち出されました。しかし、これは大いなる神話です」

 ――「神話」とは初耳です。なぜですか。

 「占領軍による事故や犯罪で、日本人や在日コリアンを含む多くの民間人が犠牲になりました。しかし占領軍当局も日本政府も、自らの権力の正統性を失うことをおそれ、都合の悪い事実をひた隠しにしました」

 「戦争は1945年8月15日に終わったとされますが、占領という名の新しい戦争が始まった、あるいは戦争の最終段階が続いたと考えるべきかもしれません」

 ――具体的にはどんな被害でしたか。

 「多岐にわたります。占領政策の当初の目標は日本軍の武装解除で、弾薬や武器の処理に民間人が動員されました。爆発物の処理については知識もなく、米兵とのコミュニケーションもうまくいきません。福岡県添田町では、トンネルに隠された火薬の焼却処理に失敗して大爆発が起き、住民ら140人余りが亡くなりました。海洋投棄のために船で運んでいた火薬が爆発する事故も起きました」

 「その後、米ソの冷戦が激しくなるにつれ、米国は日本での基地を拡充します。占領軍の命令で無理な工事を進めたこともあり労災事故が多発しました」

 「兵士による飲酒運転や暴走事故、強盗や性犯罪などは、今も沖縄をはじめ基地を抱える街で大きな問題になっていますが、当時も頻発しました」

 ――朝鮮戦争が50年6月に起き、日本から米軍を主体とする国連軍が出撃、補給の最前線にもなりました。

 「軍用機の発着が急増し、岩国基地や横田基地周辺では軍用機の墜落事故が起き、住民が巻き添えになりました。日本は戦場そのものではないが、朝鮮戦争により生活圏が侵食された『戦域』と捉えるべきです」

朝鮮戦争に駆り出された日本人

 ――日本人は、朝鮮半島の戦場にも駆り出されました。

 「朝鮮半島北部・元山の沖合で掃海作業をした海上保安庁の掃海艇が機雷に触れ、死者が出たことはよく知られています。それだけではありません。米軍に動員され、朝鮮半島で荷役や運搬、軍事施設の工事に従事して事故死した日本人労働者も少なくありません。在日米軍基地で働く人が銃を持たされ、戦闘中に死んだ記録もあります。これらの事実は憲法違反のおそれが強く、国際問題になりかねないので多くは隠されました」

 ――日本政府の対応は。

 「責任は占領軍にあるが、日本は敗戦国なので占領当局や米国政府と交渉することはできない、と極めて消極的でした。ただ、一部で被害救済の運動が起き、国会議員が国会で取り上げるなどしたため、日本政府は、わずかな額の見舞金を支給しました。最終的には61年に給付金支給法が成立しましたが、国家補償ではなく、責任の所在があいまいで金額も全く不十分でした」

 ――占領軍被害の犠牲者はどのくらいですか。

 「日本政府は、占領軍当局から被害を報告するよう求められ、実態を把握していたはずですが、統計は公表されません。61年に政府が見舞金給付のために行った調査では、被害者総数は、死者3903人を含む9352人とされますが、氷山の一角でしょう」

 ――日本政府は占領下とはいえ、国民の命を守る立場にあったはずです。なぜきちんと対応しなかったのですか。

 「連合国の占領は日本政府を通じた間接統治でした。日本の支配層は、常に米国の意向をうかがい、米国の利害を代表することで生き延びました」

 「米国の機嫌を損なえば、戦犯などとして追放される。冷戦が深まるにつれ米国は、敵国だった日本を反共の防波堤にし再軍備を進める。日本の政治エリートも、これに呼応するという共存関係が強まります。占領は成功し、その後の日米同盟が日本の平和と繁栄の土台となったという神話は、こうした現実を見えないものにし、私たちを思考停止させます」

 ――今も、米軍人らによる事件や事故は沖縄などで多発しています。

 「米軍に特権的地位を認めている日米地位協定に問題があるのに、日本政府は改正しようと動かない。サンフランシスコ講和条約を結び、52年に独立した後も政治家や官僚の態度は変わっていません。日米関係は、今も圧倒的に非対称的であり続けているのです」

(聞き手・桜井泉)
 

トランプに発射されたイデオロギーとは無縁の銃弾 N.Y.Times(朝日新聞有料記事より)

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ミッシェル・ゴールドバーグ

 トランプ前大統領の暗殺未遂という卑劣で凶悪な事件が起きて以降、前大統領の盟友はよってたかって、トランプ氏は民主主義への脅威だと警告してきた人たちを非難した。トランプ氏のランニングメイト(副大統領候補)となったオハイオ州選出のJ・D・バンス上院議員はソーシャルメディアに「バイデン大統領の選挙キャンペーンの大前提は、トランプ氏が独裁的なファシストであり、何としても当選を阻止しなければならないというものだった」と書き込み、「こうした物言いが直接的に暗殺未遂につながったのだ」と続けた。被害者としての義憤に駆られたトランプ陣営は、トランプ前政権の独裁ぶりや、復讐心に燃えた脅しについて議論することは(暴力の)扇動にあたるとして、今年の大統領選の核心となるべき争点を、聖人めかしたうさん臭さの中に押し込めようとしている。

 共和党の偽善をつまびらかにし、トランプ氏が政敵に対する暴力を何度もあおってきたことを書き連ねるのはさして難しいことではない。だが今回の場合、その政治的分断のレトリックに関する論争は、悪意に満ちただけのものとも言えないようだ。容疑者について知れば知るほど、彼の行為を従来のイデオロギーの文脈で考えるのは的外れに思えてくるからだ。事件にはまだ不明な点が多い。しかし、背景にあるのは党派的な狂信というより、孤独で社会との接続を失った若者がニヒリズムへと過激化した危機であるように思える。

容疑者は活動家ではなく「のけ者」か

 集会に参加していたコリー・コンペラトーレ氏が家族をかばって犠牲になった今回の事件。多くの人がまず、2017年のスティーブ・スカリス下院議員銃撃事件のような左派の仕業だと考えたであろうことは理解できる。だが、まだ確たる結論を導き出すことはできないものの、その後に判明した事実は全体像をより複雑にしている。

 トランプ氏暗殺を試みたトーマス・マシュー・クルックス容疑者(20)は、ネット空間に痕跡をほとんど残していない。17歳のときには(民主党支持の)「プログレッシブ・ターンアウト・プロジェクト」に15ドルを寄付したことがある。ジャーナリストのライアン・グリム氏によれば、この団体は「人々の受信トレーに無差別に宣伝メールを送りつけるスパム的な政治活動委員会の一つで、派手な色彩と荒々しい字体のメールで、あらゆる手口を使って少額の寄付を求める」という。一方で彼は18歳のときには共和党員として有権者登録した。米紙フィラデルフィア・インクワイアラーによると、クルックス容疑者のある同級生は彼を政治的に右寄りの人物として記憶している。歴史の授業で彼と一緒だった級友は同紙に、「クラスの大半はリベラルだったが、彼はどんなときも保守の立場を守っていた」と語った。

 これまでのクルックス容疑者についての報道は、彼を活動家としてではなく、「のけ者」として描き出している。ある同級生はCBSニュースに対し、彼が執拗ないじめに遭っていたと語った。別の同級生はウォールストリート・ジャーナルの取材に「高校で銃の乱射事件を起こしそうな生徒だった」と述べた。クルックス容疑者は銃文化に情熱を抱いていたようで、迷彩服や狩猟用の服を着て登校し、射撃部に入りたがっていた(下手で入部を断られたが)。一方で地元の銃の同好会に入り、犯行当日には銃マニアのユーチューブチャンネルのTシャツを着ていた。

異なる見解はボタン一つで却下される

 テロリズムや暴力的な過激主義を研究した人なら、クルックス容疑者がこれまで屈辱の人生を歩み、銃器に執着していることに気づく。トランプ政権時代に国土安全保障省次官補としてテロ対策を担当したエリザベス・ニューマン氏は「誰かを標的にした暴力行為を働く人物に見られる、主立った特徴のいくつかが見えてきた」と話す。このような人物には、大混乱を引き起こして悪名をとどろかせたいという願望があり、イデオロギーは二次的なものにすぎないという。

 米外交問題評議会のジェイコブ・ウェア研究員は昨年、「オンライン過激主義の第3世代」という報告書を発表し、ネットの過激主義の変遷を解説した。初期のインターネットは、現実社会に存在する運動のプロパガンダを発信したり、秘密裏に連絡を取り合ったりすることを可能にしただけだった。そして2000年代半ば、ソーシャルメディアが出現した。「この新しいネット環境は、先鋭化する過激主義者たちをいわゆるエコーチェンバーの中に結集させた。そこは閉じられた空間で、異なる見解は学問に裏付けられた議論を通してではなく、『友達リストからの削除』や『フォロー解除』ボタン一つで退けられる」。ウェア氏はそう指摘している。

 そして、2010年代後半からのネット過激主義第3世代を特徴づけるのは、その超現実的かつ場当たり的な側面だ。近年ネットで過激化した人たちにとっては、「組織が重要でないだけではなく、イデオロギーも重要ではない」とウェア氏は評する。過激主義者のチャットは「運命論的な悲観主義」で意見が交わされているという。それは自殺願望を正常なこととして祝福すらし、「ERになる」(ERは米カリフォルニア州で14年に銃乱射事件を起こしたのちに自殺した大学生エリオット・ロジャーを指す)などと言って大量殺人の末に自殺するような行為をたたえて、より大きな暴力を促している。

 このような新しい時代においては、「テロリスト」と、よくある思想性のない米国の銃乱射事件容疑者との間の距離が縮まっているのかも知れない、とウェア氏は指摘している。

「世界が燃え上がるのを見たいだけ」

 イデオロギーに基づかないテロの増加は、若者の間に広がる孤立や絶望、疎外感と、銃が簡単に手に入る社会との結びつきを背景にしているという点で明らかに政治問題である。それなのに私たちの政治は、これらの問題に全く対処できていない。ジャーナリストのエル・リーブは近著「ブラック・ピル」で、惨めな男たちがネットの最も暗い片隅に集まり、語り合い、終末的な行動に走るさまを描いている。「君はこんなことを、もう続けられないだろう。痛みが大きすぎる。無慈悲な運命からの救済が必要だ。今のシステムが破綻したあとにくるものを想像してみよう。それこそが君が備えるべき世界であって、今の世界じゃない。目の前にある現実が腐敗し、崩れかけているなら、その道徳や倫理に縛られることはない」。バットマンの映画に登場する、次のようなせりふに言い換えることもできるだろう。

 「世界が燃え上がるのを見たいだけの者もいる」

 クルックス容疑者がこうした男性の一人なのかは、まだわからない。ただこれまでのところ、歴史に残る醜悪な行いであるにもかかわらず、明確な根拠に欠けていることが不気味でならない。そしてウェア氏の指摘は、この不穏な欠落を理解する一つの手がかりを提供してくれている。この原稿を書いている時点では、クルックス容疑者の犯行動機は米国の党派対立の問題に収まりそうにない。米国人が広く感じている社会の衰退と絶望がトランプ氏の台頭につながっているというのはもはや定説だ。それと同じ力が、トランプ氏を殉教者にしようと試みた破綻者を生み出したのかもしれない。 

遊女や無宿人はどこへ 世界遺産めざす佐渡金山が置き去りにしたもの(朝日新聞有料記事より)

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 インドでいま開かれているユネスコ(国連教育科学文化機関)の会合で、新潟県の「佐渡島(さど)の金山」を世界文化遺産に登録するかどうかの審議がある。

 その前に会いたい人がいた。地元の佐渡市(旧相川町)が運営する相川郷土博物館の元学芸員で、2006~08年には館長をつとめた柳平(やなぎだいら)則子さん(76)だ。

 自宅を訪ねると、段ボールに詰まった明治時代の古い資料を出してくれた。かつてこの街にいた遊女たちの「外出願」だ。身内の看病や自身の通院などのため出かけたいという内容が和紙に墨書きされている。

 遊女と遊郭の主人らによる連名で、地元の警察署に提出された書類だという。生活に困窮したため遊女として登録したいと願い出る文書などもある。

 数年前、地元の民家でふすまの下張りに使われているのが見つかり、柳平さんのもとに届けられた。「不要になった文書が警察から表具屋に払い下げられ、再利用されたんでしょう」と柳平さんは推測する。

 鉱山労働者がたくさんいた相川地域には江戸時代から幕府公認の遊郭がつくられ、戦後まで営業が続いた。多いときには10軒を超える店が立ち並んだという。

 働いた女性たちの多くは地元の出身だった。江戸から来た佐渡奉行は「佐渡で安いものは女と魚」と書き残した。13歳で客を取った、虐待されて死んだ。そんな記録も数多く見つかっている。

 柳平さんらは、50年ほど前からこの街の遊女について調べ、郷土博物館で紹介してきた。常設展示のほか、特別展をやったこともある。この鉱山町を語る上で、避けることはできないテーマだと考えていたからだ。

 「鉱山と人々の生活とのかかわりの厚みと深み。それがこの街の歴史なんです」と柳平さんはいう。

 ところが今年5月に郷土博物館が耐震改修工事を終えてリニューアルオープンすると、遊女にかかわる展示はなくなった。

 なぜなのか。佐渡市の担当者に理由を尋ねると、「江戸時代については市内に新設された別の展示施設が担当し、こちらでは明治以降について説明をすることですみ分けることになった。遊女の展示は江戸時代のものだったため、ここでは外した」のだという。

 だが、江戸時代を担当している新しい展示施設でもいまのところ、遊女の説明は見当たらない。

 置き去りにされた人たちは、他にもいる。

江戸幕府最大の汚点

 江戸時代に江戸や大坂、長崎から佐渡へ強制的に送り込まれた若者らだ。その数は、幕末までの約100年間でおよそ2千人にのぼった。

 家族から勘当されるなどして戸籍から除外され「無宿人」と呼ばれたが、なんら罪を犯していない人たちも含まれていた。

 金や銀をとるための坑道は年々地下深くに及び、掘れば掘るほど地下水があふれ出る。採掘は水とのたたかいだった。

 無宿人たちはここで、時に長さ3メートルほどのはしごを150本も伝って地の底へ下り、24時間交代でひたすら水をくみ出す水替(みずかえ)の仕事を強いられた。

 観光客が行き交う鉱山近くの道路の脇にひっそりと追悼碑が立つ。無宿人たちが寝泊まりした小屋はこの近くにあり、常時200人ほどが暮らしていた。逃亡を防ぐために竹矢来で周囲が囲われ、外出の自由はない。外に出られたのは年に1度だったという。

 重労働であるうえ、狭く暗い坑内は不衛生で、粉じんが舞って空気が悪い。坑内火災などの事故もあり、短命な人が多かったという。逃亡を図って死罪になった人も少なくない。

 幕府の目的は、厄介者を追い払って都市部の治安を改善することだった。佐渡に送り込み、いつも人手不足で困っている水替作業をやらせればちょうどいい――。そんなふうに考えた幕府の駒として、多くの人たちが都合良く利用された。

 作家の司馬遼太郎はかつて佐渡を訪れ、こう書いている。

 「江戸幕府は、同時代の地球上のいろんな政府にくらべ、ほめられるべき点も多い。しかし最大の汚点は、無宿人狩りをやっては、かれらを佐渡の水替人夫に送ったことである」

 江戸時代を生きた人たちの労働事情に詳しい戸森麻衣子さん(東京農業大非常勤講師)も、「罪を犯したわけでもない人たちまでがおよそ10年にもわたって拘束され、衣食代とわずかな小遣い銭だけで過酷な労働に従事させられた。後に解放された人もいたがわずかで、10年たたないうちに多くの人が亡くなりました。これは当時の日本中を見渡しても、ほぼ佐渡鉱山だけで起きたことです」という。

 「佐渡で金銀の生産量が多かったのは一時期で、採算が取れない時期が長かった。にもかかわらず幕府が体面を保つために操業を止めることができなかった影響が大きかったと考えられます」

佐渡は忘れなかった

 1987年に世界遺産になった南米ボリビアの「ポトシ市街」には、かつて大きな銀山があった。繁栄の裏で多くの先住民らが強制労働の犠牲になったことはユネスコのウェブサイトでも明記されている。

 だが佐渡金山についての政府や新潟県の説明で強調されるのは、多くの金を生産したという華やかな側面ばかりだ。

 「17世紀における世界最大の金生産地」などと研究者が首をかしげる誇大な表現をする一方、「この世の地獄」と言われた労働を担った人々への言及は見当たらない。鉱山を管理する三菱系の企業が公開している坑道内にわずかな説明があるだけだ。

 世界遺産行政にかかわった専門家のなかには、「(無宿人を)観光(資源)として利用したために、佐渡というと無宿人や流人が多く、罪人が送り込まれて過酷な労働をするというイメージができてしまった」「実際には(無宿人の動員は)ごくわずかな時期だけ」だったなどと発言する人もいた。

 日本政府がユネスコに提出した推薦書の中身は非公開になっている。佐渡金山をユネスコに推薦すべきかどうか審議した文化庁の文化審議会の議事録も公開されていないため、どんな議論があったのかもよくわからない。

 無宿人や遊女のような立場の人たちは、どんな社会でもとかく忘れられがちな存在だ。だが、佐渡の人たちは決して忘れようとはしなかった。

 鉱山近くの山中にある廃寺跡へいくと「無宿人の墓」がある。地域の人たちは50年以上、ここで無宿人供養祭を続けてきた。コロナ禍の最中でも途切れることはなかった。

 今年も墓の前でお経を上げた瑞仙寺住職の青木錬誠さん(38)は、こう話す。「無宿人は、金山のいちばんの根っこの部分を支えた人たちです。世界遺産になるなら私もうれしいですが、陰の部分も含めてこそ価値があるのではないでしょうか」

 鉱山を支えた声なき人々の足跡を今になってもたどることができるのは、地元が官民を挙げて丹念に掘り起こしてきた努力の結晶が残されているからでもある。

 84年、地元の旧相川町は町史として無宿人と流人に特化した500ページあまりの資料集を刊行した。地元出身の毎日新聞記者で郷土史家の磯部欣三氏らが中心になって手がけたこうした仕事は、全国的にも自治体による歴史研究の貴重な成果だと評価されてきた。

 その巻頭言で当時の和倉政三町長はこう書いている。「華やかさの陰に、人生のはかなさを身にまとった人々も、相川に送り込まれていることも忘れてはなりません」

 世界遺産登録に向けて政府や自治体が突き進むなか、地元の長年の積み重ねは後景に退いている。

 この鉱山町の歴史がこのまま一面的な物語に上書きされるとしたら、なんて皮肉なことだろう。
(田玉恵美) 

【箱田哲也(朝日新聞)】

 ついさっき「佐渡島の金山」の世界文化遺産登録が全会一致で決まったとの速報が流れた。これで日本の世界文化遺産は21件になるのだという。  それは良かったとして、なぜ世界遺産の登録にあたり、日本政府や関係機関は「盛る」のだろうか。盛ろうとするから、いきおい政治的な色を強く帯びるのに。  田玉さんが前回、やはり佐渡島の金山をテーマに書いた記事(https://digital.asahi.com/articles/ASS6G20K4S6GUPQJ01CM.html?iref=pc_rellink_01)に、東大院教授の遠藤乾さんが寄せたコメントを見て、その通りだと思った。  いわく「元政治家のお子さんとか、国の誇りをくすぐって何かをした気になる政治家とか」が突っ走ることで、「誰のためになるのか不明な事業になっている」と。  2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産」と今回の佐渡は、まさにその典型と言えるだろう。  佐渡に関しては、地元・新潟の現地メディアの幹部が「負の歴史もかも何もみんな込み込みで登録してほしいのに、政府や地元の一部政治家がそれではいかん、と言うので困っている」とこぼすのを聞いて、驚いたことがある。  手あかにまみれたような、政治的な思惑をはね返すのは、こつこつと積み上げた研究や史料なのだと思う。今回の登録がむしろ、もうひとつの佐渡島の金山の事実に、強い光をあてる契機になることを願う。

今朝の東京新聞から。

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「テロ」とは何か 簡単でない定義と安易な言葉づかいに潜むリスク(朝日新聞有料記事より)

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防衛大学校・宮坂直史教授(テロリズム論)

 日本で、世界で、「テロ」と称される事件が起きています。テロリズムとはどんな行為を指し、何を根拠にテロと判断すべきなのでしょうか。テロという言葉には、そう呼ぶことで「善悪」を決めつけてしまう性質もあります。テロ問題に詳しい防衛大学校の宮坂直史教授は「安易に使用することも、使うのをためらうことも、本質を見誤らせる」と指摘します。

 ――どんな行為をテロと呼ぶのでしょうか。

 世界共通の定義はないということをまず理解しなければなりません。各国それぞれに定義があります。例えば日本の特定秘密保護法は「政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要し、または社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、または重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」としています。

 そんななかでも、「政治的な動機と目的がある」点は万国共通で、おおむね国際社会の共通認識と言えます。ただ、「テロリスト」と言う時、その考え方は必ずしも一致していません。

政府が認定したらテロ? 危険な考え方

 独裁国家では体制に反対する人にテロリストのレッテルを貼って弾圧するケースがあります。特定の民族を弾圧する場合などにも使われます。

 このため、ある事件が起きた時に「政府や当局者がそう認定したからテロだ」と安易に判断することは危険です。ケースごとに見極める必要があるでしょう。

 人々がテロだと感じるのと、事件の本質は必ずしも同じではありません。私は動機や目的が重要だと考えます。

 ――昨年10月のイスラム組織ハマスによるイスラエル襲撃はどうですか。

 日本の「国際テロリスト財産凍結法」では、ハマスはテロ組織指定されています。では、彼らの行為はテロなのか。イスラエル襲撃では1200人以上の犠牲者が出ました。この行為は、国際的なテロ関連条約や理解に照らして疑いなく「テロ攻撃」でしょう。政治的な理由があります。

 ただ、その後のイスラエルの反撃から現在に至る戦争状態の中では、ハマスの行為全てがテロ攻撃とは言えない。戦争状態は、テロかどうかという次元を超えています。

 ――日本でテロという言葉が一般的に広まったのはいつごろですか。

 戦前(1920~30年代)、すでにテロという言葉が使われてはいました。原敬や浜口雄幸などの首相をはじめ、政治家が大衆の前で殺される事件が何度も起きていた時代です。

 70年代には連合赤軍などの行為を警察がテロと呼ぶことはありました。ただ、一般の感覚ではまだなじみの薄いものでした。

 90年代のオウム真理教による一連の事件は、海外ではテロと呼ばれていました。宗教的な背景があり、当時世界で頻発していたイスラム過激派による事件と関連づけて受け止められたからでしょう。しかし日本ではまだ、オウム事件をテロと呼ぶのは一般的ではありませんでした。

「けしからん」ただ非難する文脈で

 日本でテロという言葉が広く使われるようになったのは、2001年9月11日の米同時多発テロ以降です。その後、定義や認定があいまいなまま、「けしからん」と思う相手を非難する文脈で使う例も出てきました。拉致問題が明らかになった後、政治家らが盛んに北朝鮮を「テロ国家」と呼びましたが、日本では法的な根拠はありません。

 米国では法律で「テロ支援国家」などを指定し、それに基づいて言葉も使われてきましたが、日本では雰囲気だけでテロと呼んでいました。日本の法律でテロ組織が規定されたのは、14年になってからです。

 ――「バイトテロ」などの言葉も出てきました。

 テロという言葉は、もはや「市民権」を得ていると感じます。単なる迷惑な行為に加えて、迷惑でもない行為にも使われ、「飯テロ」(SNSに食べ物の写真を投稿して見た人の食欲をかき立てるという意味のネットスラング)という言葉もあります。それらを含めてテロだと思う若者も出てきているのではないかと感じます。メディアがそういう使い方をすることは避けるべきだと感じます。

 ――報道機関にはどんな注意が必要でしょうか。

 報道機関は速報性を重視しますが、事件が起きたばかりの時点で分かることは限られます。その段階で、テロか否かにこだわる必要があるのでしょうか。

 ある日、多くの人の前で爆弾が爆発したら、「テロだ」と思う。それは自然な反応だと言いましたが、事件の背景を分析し検証する役割のある報道機関は、実行犯の考えが分からないうちは安易にテロと報じない冷静さが必要です。

 ――背景はすぐには分からないということですね。

 長い時間軸でとらえて欲しいということです。事件の半年後や1年後、あるいは10年後にようやく背景が見えてくることもあります。その見極めは、一般事件に増してテロでは重要ではないでしょうか。

 日本では、テロのような事件に関して第三者の検証委員会ができたことがありません。警察だけでなく、専門家やジャーナリストなどを交えて、資料を調べ、関係者から聞き取りができる法的権限のある機関が必要です。それがない以上は、報道機関が検証する意味はより大きいのです。

「テロ=悪」決めつける懸念、どう向き合う

 ――「テロ=悪」という価値観があり、その言葉を使うだけで一方を悪と決めつけてしまうのではないかという懸念があります。

 重要な視点です。前述の独裁国家の例もあり、慎重さが求められます。

 ただ、現実として世界には政治的な理由で人々を恐怖に陥れる行為があります。それをテロと考えるのは国際的なコンセンサスであり、各国が長く対策に取り組んできたものです。

 単にテロという言葉を使うのを控えることも事態の本質を見誤らせます。

 ――恐怖の中で、私たちはどのように向き合っていけばいいのでしょうか。

 テロを起こす側は自分たちの主張をアピールしたいので、大衆の前で事件を起こします。市民は事件が続発するのではと恐怖を感じ、より厳しい監視を求めるようになります。

 政府は国民からのプレッシャーを感じ、過剰ともいえるテロの取り締まりや規制に乗り出す――。これは9.11同時多発テロ後に米国で起きたことです。

 カトリック系武装組織アイルランド共和軍(IRA)とプロテスタント過激派が武力抗争を繰り広げた北アイルランド紛争では、IRAの行動を報道すること自体が宣伝になるという懸念から、英国で報道規制が長く議論されてきました。しかし、実際には規制はしませんでした。国民に必要な情報だからです。

 テロリストが力ずくで民主主義を破壊することはできません。テロが起きた後に社会から自由が奪われることがあるとすれば、それは我々自身による過剰な防御によるものです。自由で民主的な国に暮らす人々は、そのリスクにも自覚的でなければなりません。 

影響を受けた高倉健さんと鶴田浩二さん 94歳の刺青絵師が企画展(朝日新聞有料記事より)

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 「博徒」「昭和残俠伝」「仁義なき戦い」「極道の妻たち」。時代劇や任俠映画が盛んだったころ、俳優の背中や腕に刺青絵を描き続けた刺青絵師がいた。京都市北区の毛利清二さん(94)は40年以上、東映京都撮影所などで描いてきた。その下絵は芸術作品として評価され、企画展が開かれている。

 美空ひばりさん、菅原文太さん、松方弘樹さん、高橋英樹さん、高島礼子さん……。刺青絵を描くだけでなく、俳優らと深い関係を築いてきた。

 「スターのいいも悪いも全部知っているけど、悪いところは言えへん。いいところは義理堅いこと。義理と人情ね」

東映の同期に高倉健さん

 なかでも影響を受けたのは高倉健さんと鶴田浩二さん。銀幕のスターに出会うまでは――。

 1930年、下京区生まれ。絵が好きで、洋画家の小磯良平さんに憧れた。少年時代は戦時中で紙がほとんど手に入らず、チョークで地面に描いた。

 学徒動員され、45年8月15日は四条烏丸の地下で徹夜で旋盤作業にあたっていた。正午に流れた玉音放送。「もう肉体労働をせえへんでいいなと思って。やっと終戦になって万歳だった」

 戦後は呉服会社に就職し、着物のデザインを担った。24歳のとき、着物業界が不況になり、リストラされた。四条河原町を歩いていると「エキストラの仕事がある」と友人に誘われ、映画界へ。

 当時の京都は「東洋のハリウッド」と呼ばれた映画の都。松竹、大映、新東宝、東映をエキストラとして渡り歩いた。26歳で東映と契約した。

 同期に東映ニューフェイスの2期生、高倉さんがいた。高倉さんの月収は入社当時から、大部屋俳優の毛利さんの数倍だった。高倉さんは「雲の上の存在だった」が、なぜか気が合った。「服も時計も、てっぺんから靴までもらった」

大部屋俳優だった毛利さんが刺青絵師になったのは鶴田浩二さんの一声でした。記事の後半で詳細が明かされます。

 映画の出演は、階段落ちなどスターの代わり。渡月橋から飛び降りたこともあった。鶴田さんと体格が似ていたから危ないシーンで代役を任された。専属の刺青絵師はいたが、画才があった毛利さんが「いたずら彫り」と言って遊び半分で刺青絵を描くこともあった。

 37歳のとき、鶴田さんの主演映画「博奕打ち 一匹竜」(1967、小沢茂弘監督)が転機になった。見せ場では、刺青をした50人以上が登場する。専属の刺青絵師は飲食店と掛け持ちだったため、刺青絵を描くことを断った。鶴田さんが言った。

 「おまえ、やれ」

 専属絵師になることが決まった。「鶴田さんの鶴の一声だった」

色白の鶴田さん、真っ黒な高倉さん、中間の菅原さん

 50人それぞれに違う図柄の刺青絵を描くよう求められた。撮影までの1カ月半、できることは、すべてしようと考えた。

 東京・浅草に行き、「ほんまもんの彫師(ほりし)」に下絵や道具を見せてもらった。京都の寺町通の古書店で、江戸時代の歌舞伎の高い本を買った。俳優の肌が絵の具で炎症を起こさないように、妻や子どもに絵の具を塗り、最適な配合を研究した。

 撮影直前、美大生らと一緒に50人に刺青絵を描いた。三日三晩かかった。最後は鶴田さんの背中に一匹竜を描いた。「もう、ふらふらやったね」

 刺青絵師として心がけたのは「速く美しく」。

 撮影前の俳優に負担がかからないように、細い筆で素早く描いた。絵の具は、俳優の肌の色に合わせて独自に配合した。色白の鶴田さん、日焼けして真っ黒な高倉さん、その中間の菅原さん。同じ刺青絵はつまらないから、新しい絵を描いてきた。

 娯楽の中心は映画からテレビへ。やくざ映画の衰退とともに刺青絵師の仕事は減った。75年に東映太秦映画村ができると、立ち上げのスタッフとして販売部や芸能部などで働いた。

京都撮影所に「刺青部屋」

 それでも80~90年代には、「鬼龍院花子の生涯」や「極道の妻たち」など刺青のある映画が作られた。桜吹雪の刺青が有名なドラマ「遠山の金さん」も続いた。週に数回、撮影所などで刺青絵を描いた。

 撮影所には、「刺青部屋」と呼ばれる毛利さん専用の個室もあった。食器棚や冷蔵庫が置かれた。長年の功績が評価され、92年に日本アカデミー賞協会特別賞を受賞した。2010年にドラマ「鬼龍院花子の生涯」で高橋さんに刺青を描いたのが最後になり、80歳で引退した。

 「職人だから、映画の興行が当たったか、当たらなかったかはどうでもいい。与えられた仕事をするだけです」

 刺青絵のもとになる下絵は自宅で保管してきた。その数は400点に上る。折り目がつかないように板に挟んでいたからか、保存状態がいい。

 タトゥー文化に詳しい都留文科大の山本芳美教授(文化人類学)らが下絵をデータベース化した。企画展の声もかかった。「ぼくらの作品はスクリーンで映したら、それで終わりだから、びっくりした」と笑う。

 「映画界にこういう男がいたと知ってもらえれば。それだけの話です」
(西崎啓太朗)

7月28日まで企画展

 刺青絵師の毛利清二さんの下絵を展示する企画展は、おもちゃ映画ミュージアム(京都市中京区)で28日まで開かれている。都留文科大の山本芳美教授の学術研究の成果発表の一環で、毛利さんや東映が協力する。

 午前10時半~午後5時。月火曜は休館。入場は18歳以上。1千円。問い合わせはおもちゃ映画ミュージアム(075・803・0033)。 

今朝の東京新聞から。

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