
5年前にコロナの集団感染が確認された華南海鮮卸売市場。フェンスに移転の案内が貼られていて、人通りはまばら
中国・武漢市で原因不明の肺炎患者の存在が公表されて31日で5年になる。1100万人都市の封鎖の「成功」は約3年にわたる強硬なコロナ対策を方向づけたが、収束期には抗議活動がたびたび起こり、不満の発火点ともなった。日常を取り戻したようにみえる今も、人々の心に影を落としている。
街中にクリスマスソングが流れていた12月下旬。武漢の玄関口・漢口駅前では人々がせわしく行き交っていた。マスクをしている人はまばらだ。コロナ禍に駅への出入りが厳しく制限されていた頃の面影はほとんどない。
今も拭えない不信感
ただ、コロナ禍前の生活に戻ったわけではないとタクシー運転手の男性(61)はいう。「命やお金が軽く感じられる。疫病が広まったら何の役にも立たないとみんな知ったんだ」。コロナで運転手仲間を何人も亡くした。忘年会の参加者もいた。一命は取り留めても、今なお後遺症に悩む人も多いという。
駅に近い華南海鮮卸売市場はフェンスに移転の案内が貼られ、今はひっそりとしている。この場所で5年前、世界で初めてコロナの集団感染が確認された。
2019年12月下旬から、市内の病院には発熱を訴える市民が詰めかけていた。だが当局は「ヒトからヒトへの感染は確認されていない」と繰り返し、翌20年1月になっても、多くの市民は通常の生活を送っていた。
男性も1月25日の春節(旧正月)を前に、運転手仲間たちと忘年会を楽しんだ。その直後の23日、突然、鉄道駅や空港が閉鎖され、事実上のロックダウン(都市封鎖)が始まった。
男性はホテルに寝泊まりし、「ボランティアで医者や看護師を病院に運んだ」。防護服を着て後部座席との間は薄い仕切りだけ。危険と隣り合わせだった。「割り振りもある。でも、1日600元(約1万2600円)だけ。1千元だって嫌な仕事なのだから、ボランティアみたいなものだ」と語る。
「武漢はコロナとの闘いに勝利するための決定的な場所である」。武漢の警察博物館では今、習近平国家主席の言葉とともに、医療関係者の記録やボランティアの活躍ぶりなど、封鎖から76日間で感染者を封じ込めるまでの軌跡を展示している。
だが、武漢の「成功体験」は、その後の習指導部のコロナ対策を縛った。延々と繰り返された封鎖や隔離で経済は冷え込み、武漢では22年11月に抗議活動が起きた。翌月に政府がゼロコロナ政策の大幅緩和を決めると、今度は感染爆発が起きた。
23年2月には医療保険の改革に反対する高齢者らが武漢の公園に繰り出した。PCR検査や隔離にお金をつぎこんで財政が悪化したことが、医療補助の減額につながったとの受け止めが広がった。
コロナ禍の「後遺症」は経済にも及ぶ。市民からは不景気を嘆く声が聞かれた。2年前に市民が抗議に繰り出した市場。「ネットニュースを信じないように」というアナウンスや目を光らせていた警察官の姿はなくなり、平穏を取り戻しているように見える。
「あの時は服飾店の人たちが商売にならないと詰めかけたんだ」。近くの足裏マッサージ店の店員(35)はいう。「多くの店が市場を離れ、お客さんも減った。景気は悪いままだ」
武漢市統計局などによると、今年9月までの3四半期の国内総生産(GDP)の成長率は5.1%で、コロナ前の19年の7.4%、昨年の5.7%よりも低い状態が続いている。
政府は今、コロナ禍に世界にその名を知られた武漢を「世界最大の自動運転都市」として売り出そうと大量の自動運転タクシーを導入している。男性は「政府の補助金が出ているから安いんだ。でも、危なくて誰も乗らないよ」と吐き捨てる。
情報のない閉塞感、経済も変調
最初に新型コロナの集団感染が確認された国だった中国の共産党指導部は、3年間の対応を「決定的な勝利」と総括する。「死亡率が世界最低水準を維持」したことなどが理由だ。
ただ、中国の市民の体感は「勝利」とは遠い。「ヒトからヒトへの感染」に始まり、ロックダウン(都市封鎖)などのゼロコロナ政策の強化、そしてその突然の解除にいたるまで、節目で肝心な情報が十分には知らされないまま、大きな変化に振り回されることの繰り返しだった。
2022年末にゼロコロナ政策が解除された途端、中国全土は爆発的な感染の広がりに見舞われた。葬儀場は火葬を待つ人であふれた。その正確な死者数すらも、明らかにはなっていない。
必要なときに必要な情報がない。一方、言いたいことは言えない。無言の抗議として注目を浴びた2022年秋の「白紙運動」に参加した人たちはその後、当局から厳しい追及を受けた。
閉塞感が市民に重くのしかかる中、国外へ移民することを指す「潤(英語のrunと発音が似ていることから)」という流行語も生まれた。
コロナ禍は、長く続いた高度成長が終わりにさしかかり、不動産市場の過熱が調整される局面とも重なった。厳しい行動制限によって、人々の暮らしのありようが変わった影響は今も響いている。
コロナ後の「リベンジ消費」は空振りに終わった。現在まで続く減速の中でも、消費の冷え込みはとりわけ目立つ。社会の急変を経験した人々が、生活防衛のために貯蓄をさらに重視するようになったことにも原因があると指摘される。
学習塾やIT業界などへの規制を強めた政権の施策もあり、若年層の失業率は今年11月も16%で高止まりする。
今年になって目立って増えているのは無差別に人を殺傷することを狙ったとみられる事件だ。経済的な理由が多いとされるが、9月に深圳で日本人学校の男児が殺害された事件を含め、容疑者らの動機や背景は詳細には明かされない。コロナ禍で際立った情報の不透明さと閉塞感は、今も中国社会を覆っている。