英国が欧州連合(EU)を離脱した「ブレグジット」から、31日で5年を迎える。離脱派が信じた「英国の繁栄」は実現したとは言えず、世論調査でもブレグジットは「失敗だった」との見方が大半を占める。EU離脱の選択は何を残したのか。国民投票で「離脱」票の率が最も多かった町を訪ねた。
「国民投票は確かに町を変えた。でも、ブレグジットは何も変えなかった」
1月中旬、英東部ボストン。東欧の国々の国旗が目立つ通りにあるオフィスで、イガ・ボントフトさん(42)は言った。2016年の国民投票は町の景色を変えたが、実際に20年にEUを離脱した後に何かがもたらされたとは考えづらい、と。
故郷のポーランドは他の中東欧7カ国、地中海の2カ国とともに、04年5月にEUに加盟。EU域内では、原則としてどこへでも移住して働くことができる「移動の自由」が保障されている。ボントフトさんは10年に、当時11歳の息子とともにボストンに移住した。
急増した移民
ボストンのポーランド人コミュニティーは当時、年々大きくなっていた。01年の国勢調査で英国以外で生まれたボストン市民は3%だったが、11年に15%まで急拡大。16年には町の人口約6万6千人のうち、ポーランド人だけで約9千人(約14%)と推計された。
一帯は英国有数の農業地帯。果物や野菜の収穫などで、地元としても労働力が必要だった。町にはポーランド系のスーパーやパン屋、レストランが次々とできていた。
「移民には言葉の壁がある」と感じたボントフトさんは16年、支援センターを設立。同郷の移民の相談にのり、翻訳や行政手続きの代行を業務としてきた。
一方、地元の英国民たちは急激な町の変化に戸惑っていた。それが如実に表れたのが16年6月。ブレグジットを問う国民投票だった。ボストンに住む76%の有権者が「離脱」を選択。英国の全ての自治体で最大の割合だった。
ボントフトさんは、投票翌日の朝の出来事をよく覚えている。ある男性が窓を開け、自分に向かって叫んできた。「お前、なんでまだここにいるんだ」
ボントフトさんによると、国民投票以降、ボストンに住む多くのポーランド人が英国を離れた。「ポーランドの経済が良くなってきていたことも理由ですが、多くの人たちが歓迎されていないと感じたからです」。町に巣くう分断の空気が目に見えるようになった。
「聞こえてくる言葉がわからない」
ボストンで生まれ育ち、55年にわたって骨董品店を営むロバート・ヘンプソンさん(75)は「離脱」に投票した。移民をめぐる課題を目の当たりにし、「英国の運命は、英国で決めるべきだと思った」という。
「ポーランド人は一生懸命働いてくれた。でも彼らが稼いだお金は地元に落ちず、外国に流れていく」
町の中心部で談笑する市民は多国籍で、「歩いていても、聞こえてくる言葉がわからない」。離脱票を投じたことは、いまも一切後悔していない。
医療機関やインフラも、移民の流入によって質が悪化したと感じる。「自分たちのものを、あまりにも気前よく分け与えすぎたのです」。英国の労働市場が14年、EUに加盟していたブルガリアやルーマニアの国民に広く開放され、ボストンへの移住者が増えると、その思いは特に強くなっていったという。
増え続けた移民に対するまなざしは厳しい。イスラム系移民向けの商店を営むイラク出身のヒワさん(38)=姓は非公表=も「あまりにも多くの労働者がきて、家賃はどんどん値上がりしてしまった。英国は島国だ。これ以上は受け入れられない」と話した。
ブレグジットが実現し、英国は合法的な移民に対する独自の基準を設けるようになった。ただ、移民全体としては減ったわけではない。23年の移民数は121万8千人。EU域内からは1割ほどの12万6千人にとどまったが、「純増数」は前年比で68万5千人に上った。
21年の国勢調査によると、ボストンでは4分の1ほどの市民が英国以外の生まれだ。「移民が多い多国籍な町」という評判は定着し、その分、一部地元民の不満がくすぶり続けている。
ただ、世論調査によると、ボストンのある選挙区は英国で唯一、「ブレグジットは誤りではなかった」と回答した市民の方が多かった。町民の多くが、少なくともEU域内からの移民が減ったことに意味を見いだしている。
一方、英国全体では「ブレグジットは誤りだった」と回答する国民が年々増加傾向にある。ブレグジットを選んだ「後悔」(リグレット)を意味する「ブレグレット(Bregret)」という言葉がさかんに言われるようになった。
「EUに加盟していた方が、経済状況はよかったはずだ」「移民や国境の規制もうまくいっていたはずだった」。世論調査では、そんな意見が目立つ。
「ブレグジット」とは
英国は1973年にEUの前身にあたる欧州共同体(EC)に加盟。だが、国内の「欧州懐疑主義」は根強く、キャメロン首相が2015年の総選挙時にEUからの離脱を問うことを決めた。国民投票は16年6月に実施され、「離脱」が51.9%、「残留」が48.1%だった。
混乱は長らく続き、20年1月末に正式に離脱。20年12月末には「移行期間」も終了し、EU市民の移動も制限されるようになった。