香港郊野遊行・續集

香港のハイキングコース、街歩きのメモです。

2025年04月

「アメリカの軍国主義変わらず」ベトナムの教訓生かされたか、米教授の警鐘(朝日新聞有料記事より)

hgf

  ベトナム戦争は米国社会にどのような影響を与え、現在はどう認識されているのか。長年にわたって、このテーマに取り組んできた米マサチューセッツ大アマースト校のクリスティアン・アッピー教授に聞いた。

 ――著作で、「米国の中核的な信条がベトナム戦争によって破壊された」と書かれています。

 「米国がベトナムへの関与を始めたのは、自国の例外主義への信頼が最も高い時期でした。米国が資源の豊かさや軍事力の面で優れているだけでなく、善のための勢力だと国民が信じ、そのことを背景に政府への広範囲な信頼もありました。しかし、ベトナム戦争をめぐって政府のウソや欺瞞が明らかになるなか、この信頼は壊れました」

今日にもつながる「矮小化された反戦」

 「米国民は次第にベトナム戦争の目的や戦われ方、さらには米国のあり方を問うようになりました。キッシンジャー元国務長官も後に『ベトナム戦争の最大の犠牲の一つは、米国の例外主義の伝統だった』と書いているほどです。その他の多くの犠牲を考えると、ぞっとする発言ですが」

 ――米国の「例外主義」は第2次世界大戦から生まれたのでしょうか。

 「『ファシズムに打ち勝った偉大な勝利』とされた第2次世界大戦が例外主義を加速させたのは間違いありません。ベトナム戦争で戦った世代は、ジョン・ウェインらが主演するハリウッド映画で描かれる、軍事的な正義を見ながら育ちました。ところが、ベトナムに到着すると兵士たちは実際には解放者ではなく、侵略者として位置づけられていたことを実感します」

 ――米国内のベトナム戦争への見方は、1980年に当選したレーガン大統領の言動などによって変わったのですか。

 「レーガン氏は大統領選の途中まで、ベトナム戦争は倫理的に正しく、『リベラルな政治家や過激な学生がいなければ勝利していた』という趣旨の発言をしていました。しかし、側近からのアドバイスもあり、ベトナム戦争からの帰還兵を愛国的なヒーローとし、それを支持しなかった人たちを攻撃する方針に変えていきました」

 「これが、ベトナム戦争についての米国内の大きな神話につながりました。帰還兵たちが戦争に反対していた人たちから拒否され、怒鳴られ、つばをかけられたという神話です。つばをかけられたということが絶対になかったとは断言できませんが、かつて帰還兵自身が調べた時は確認できませんでした。にもかかわらず、神話として政治的に利用されました」

 「結果的に、米国史上最も大きく、多様で幅広かった反戦運動が国内で矮小化されました。まるで、大学構内にいる自己中心的で偽善、臆病な兵役逃れの人たちによる運動だったかのように。私も『ベトナム戦争の最大の悲劇は我々がベトナムやその人々にもたらした多大な被害や、米国が負けたことではなく、帰還した米兵への恥ずべき対応だった』と考える学生にしばしば出会いました。この神話は、今日の米社会で条件反射的に軍隊への敬意が求められることにもつながっています」

 ――戦争捕虜(POW)や行方不明者(MIA)に敬意を示す黒い旗は、今も米国でよく見かけます。

 「これも、ベトナム戦争の神話に由来します。米軍が撤退した後も、ベトナムが長年にわたって米国人の捕虜を捕らえ続けたという神話です。その証拠はありませんが、一部の政治家やハリウッド映画がそのように訴え続け、一時は米国民の過半数が信じました。いかにベトナムの人たちがひどく、悪魔的かということを示す材料として、戦争の正当化にもつながりました。また、ベトナムでの米国の行動を問うより、米国が受けたとされる被害に焦点を合わせる結果にもなりました」

 「その後も、ベトナムが捕虜を捕らえ続けたという証拠は出てきていません。しかし、POW・MIAへの敬意を示す黒い旗は今も、法律に基づいて全ての米政府の建物にも掲げられています。非常に暗いイメージで、被害者としての米国民を象徴しています」

 ――ベトナム戦争は、「地獄の黙示録」や「プラトーン」などの米映画にもつながりました。

 「米国の映画では、ベトナム市民は被害者として登場しますが、立体的に描かれたキャラクターではありません。ハリウッドはほぼ例外なく、ベトナム側の視点でこの戦争を理解しようとしたことはありません」

 「『ランボー』や『トップガン』のように、ベトナム戦争をモチーフとしつつ、劇画調に米国の軍国主義をたたえるようなヒット映画も多数あります。これは、米国の力に対する誇りを取り戻そうという動きとも連動しました」

 ――ブルース・スプリングスティーンのヒット曲「ボーン・イン・ザ・USA」もベトナム帰還兵を扱った内容です。

 「スプリングスティーンはしばしば、星条旗の前に立ちながら、大音量でこの曲を演奏しました。ある意味で保守的な、愛国的な解釈を歓迎していたとも言えます。実際、レーガン元大統領は84年の再選に向けた大統領選でこの曲の使用許可を求めました」

 「しかし、歌詞を聴けば、労働者階級の帰還兵の絶望を扱った曲なのです。主人公は希望のない街に生まれ、自分の意思でもなく軍隊に入り、ベトナムに行かされます。帰ってきてからも、退役軍人省に協力を拒まれ、石油精製所に行っても職を得られません。ほぼホームレスとなった人による叫びの歌詞なのです。この帰還兵の絶望を描いた歌が、いかにして愛国的な曲になったのかということ自体、ベトナム戦争後の米社会の奇妙さを表しています」

トランプ政権は「予測困難」

 ――ベトナム戦争の教訓は、2001年の同時多発テロの後には生かされたのでしょうか。

 「米国がベトナム戦争から教訓を得なかったわけではありません。ただ、それが正しい教訓だったかどうかは別の問題です。外交エリートが学んだのは、『より抑制的に行動すべきだ』ということではなく、『行動はより効果的でなければならない、メッセージ発信を強化しなければならない』ということでした」

 「同時多発テロの後に米国が進軍したアフガニスタン、イラクと、ベトナムはそれぞれ別の国ですが、米国が争った戦争には共通項がたくさんあります。いずれも、当初言われていた目的とは異なる理由で戦争が続き、幅広い支持を得ていない政府を支持するために、米国は多数の兵士を送りました。そして、米国内の支持が失われ、『勝つことができない』『間違っている』『非倫理的だ』の少なくとも一つにあてはまると認識されるようになった後も、長期にわたって続きました」

 ――理想的な世界では、ベトナム戦争からどのような教訓を得るべきだったと考えますか。

 「より民主的な外交が行われ、政府の行動について市民がより知らされているべきだと思います。米国憲法で開戦の決定権を委ねられている議会が自分たちの責任を真剣に認識し、行政府も透明性を上げて説明責任を果たすべきです。米国の軍国主義も変わっていません。地球規模の問題については軍事力に頼るより、国際的な外交に沿って解決を試みるべきだと願います。しかし、現在のトランプ政権ではあまり期待できません」

 ――トランプ政権をどのようにみていますか。

 「非常に危険な状況です。特に気になるのは、トランプ大統領は自分が持ち上げられることのほかに、一貫した外交政策が見受けられないことです。パナマ運河やグリーンランド、場合によってはカナダを取るということを言って帝国主義の復活をにおわせる一方、欧州などには全く異なる姿勢で臨んでいます。自分たちが世界で最も強い国でありたいと思う半面、その責任は負いたくないと言っているようです。孤立主義ではないと思いますが、単独主義であり、予測が非常に困難です」

    ◇

Christian Appy

米マサチューセッツ大アマースト校教授。
著書にベトナム戦争のオーラルヒストリー「Patriots: The Vietnam War Remembered from All Sides」や、ベトナム戦争と米国の関係を検証した「American Reckoning: The Vietnam War and Our National Identity」など。
現在は、機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を暴露し、反戦を訴えた故・ダニエル・エルズバーグ氏が残した資料に基づいた著作を執筆中。

ひとりで生き、ひとりで死ぬ社会で 私たちの死後は 高橋源一郎(朝日新聞有料記事より)

ssss

 コンピューターで制御された都会の巨大納骨堂から、桜の花が咲く郊外の樹木葬の丘へ。作家の高橋源一郎さんが、「死後」というテーマに向き合う思索の旅をしました。自身が経験した身近な人々の死が、旅の出発点でした。葬送のあり方についての社会的な議論を広げていくために。寄稿を掲載します。

家の墓を拒んだ母、墓終いを望んだ弟

 わたしの足元近くには母の遺骨を納めた骨壺が置いてある。半生を古い家族制度に苦しめられた母は、嫁ぎ先の墓に入ることを拒んだ。だからわたしは、遺骨と共に20年以上暮らしている。その母の苦しみに長く寄り添い、昨年亡くなった弟がわたしに遺したことばは「家の墓終いをしてほしい。ぼくは桜の樹の下で眠りたい」だった。

 「目黒御廟」はJR駅から歩いて数分の、地上3階・地下1階の高級マンションのような近代的ビルだ。実は1万基近い「墓所」が用意されている都内最大級の「納骨堂」である。そこにYさんの「墓」がある。

 Yさんは新しいラジオ番組を立ち上げ、わたしはそこに長く出演した。番組が終了する頃、Yさんは退職した。愛したラテン文学の世界に戻るつもりだ、といったYさんは、その直後、事故で亡くなったのだった。

 フロントでYさんの名前を記入すると、ICカードが渡された。カードを受付機にかざす。モニターに表示された指定の参拝用ブースに移動し、ホルダーにカードを差しこむ。すると、正面の「扉」が開き「○○家」と刻まれた墓石に似た銘板が出現した。コンピューター制御で、遺骨を納めた箱が自動的に運ばれてきたのだ。傍らのモニター画面に、そこに眠っている人たちの遺影が次々に現れた。Yさんのご両親、そしてハンチングをかぶったYさんも。わたしは瞑目(めいもく)し両手を合わせた。どんな「墓」でも、そこを訪ねる人がすることは同じだ。

お墓の「後継者」がいなくなる時代

 「マンション型」とも呼ばれるこの「自動搬送式納骨堂」が、なぜ都会の真ん中に出現したのか。担当者はこう語ってくれた。

ここから続き

 「ひとつの理由は、後継者の心配をしなくてもいいからです。子どもに墓の管理の手間をかけたくない人や子どものいない人が増えました。都会の墓は値段も高騰して入手が難しくなっています。大規模な集合型なら出費も抑えられるし、なにより近い。いつでも気軽に会いに来ることができるのです」

 2019年以降、日本は「夫婦と未婚の子のみの世帯」より「単身世帯」の方が多い国になった。「ひとり」で生き「ひとり」で死ぬことが当たり前になった社会に住む者には、「死んだ後も生きつづける」場所を護(まも)ってくれる「誰」かはもういない。いや墓そのものも変わりつつある。わたしは驚くべき調査結果を聞いた。「お墓の消費者全国実態調査」によれば、「一般墓」が多く買われた時代は終わり、いまは目黒御廟のような「納骨堂」(約16%)とほぼ並んでいるという(約17%)。もっとも人気があるのは「樹木葬」(約49%)なのである。

 東京都町田市にある樹木葬墓地を訪ねた。そこでは桜の樹を墓標にして、その周りに人びとが眠っている。正式名は「エンディングセンター桜葬墓地」である。訪ねたのは3月末だ。何種類もの桜がある墓地では、既に散った桜も咲きかけている桜もあった。やがてわたしは「桜葬」の場所に行き着いた。

「桜葬」に見えた、新しい共同性

 「墓地」ということばから感じる冷たさや厳しさや寂しさはそこにはなかった。木々の間を風が吹き抜け、桜が大きく枝を広げ、その場所を護っていた。「墓地」であるにもかかわらず、わたしは思わず「美しい」と呟いたのだった。

 桜の下には一面に芝生が広がっていた。墓石は見あたらない。一角に小さな「銘板」があり、たくさんの名前が刻まれていた。豊かな自然の中、生え揃(そろ)った芝生の下で、彼らは眠っていた。ひとりで、夫婦で、あるいはペットや友人と共に。子どもがいない人が、障がいのある子どもを持つ親が、故郷の墓を護れなくなった人が、「家」の墓に入らない選択をした人が、それぞれ異なった理由でそこにやって来たのである。

 桜の樹の周囲を数十センチずつ区切り、多くの人たちが「集合住宅」のような形で埋葬される。それが「桜葬」だ。最大の特色は、その「利用者」たちが「生前」からコミュニケーションを交わしていることだろう。たとえば、いつか共に眠る者たちと一緒に食事をして「向こうに行ってもワインで乾杯しましょう」と約束する。年に1度、桜の花が咲く頃、利用者や遺族が集まって合同祭祀を行う。

 長い間わたしたちは、「死後」を「家族」に委ねてきた。けれども、「ひとり」で生きることがふつうになり、「家族」があっても、葬送や墓や祭祀が負担になってきたとき、新しく「死者」を見守る「誰か」、あるいは「なにか」が必要となった。それが「桜葬」という名前の新しい葬送スタイルだった。

 そこには「血縁」とは異なった「縁」が生まれた。親子だから、親戚だから「縁」があるのではない。彼らがまだ生きていた頃から、「家族」を超えた「縁」が作り上げられた。現実の世界では「ひとり」で生きるしかなかった者たちが、桜をシンボルとするこの場所で、新しい共同性を作り上げたのだ。

「死者の人権」が守られる社会に

 桜葬墓地を世に出したNPOの理事長であり社会学者でもある井上治代さんは、著書の『墓をめぐる家族論』の中で「庶民が今のような墓石を建てた墓をつくるようになったのは、江戸中期以降のことで、それまでは、遺体を放置した遺体遺棄葬が一般的であった」と記している。「○○家」と刻まれた墓を多く見かけるようになったのは、実は明治民法が「家」を法制化して以降にすぎない。日本人は遥か昔からずっと自然の中に葬られてきた。だとするなら、わたしたちは元いた世界に戻りつつあるのかもしれない。

 井上さんはこの墓地について記した記事の中で「死者の人権」ということばを使っている。長い間「死後の担い手」は遺族だった。けれども、「独居」が多数となる時代に激増する「遺族を確保できないひとびと」は、社会的支援が整備されないまま放置されている。彼らは「人間らしく死ぬ権利」、即ち「死者の人権」を奪われたのだ。「死者の人権」に冷たい社会は、実は「生者の人権」にも冷たいのだが。

 父は死の2日前に生涯で付き合った女たちの名前をノートに書き残して亡くなった。母や弟についてはもう書いた。みずからの「死」について意志表示すること。それは去りゆく世界へ感謝と別れを告げるために個人が行う最後の儀式なのである。 

八代目尾上菊五郎襲名の菊之助 後輩に「歌舞伎界への憧れ伝えたい」(朝日新聞有料記事より)

kiku

 尾上菊之助が歌舞伎界の大名跡、尾上菊五郎を八代目として襲名する。5、6月に東京・歌舞伎座で始まる襲名披露興行を前に、思いを語った。

 「いま、この菊五郎という名前に向き合う自分を作ってくれたのは、先輩方の温かい指導、愛情だと思っております」

 2月に開かれた会見で、周囲への感謝の気持ちを繰り返し口にした。

 「私は不器用ですし、すぐパッとできる人間ではないので、毎月、苦労しています。先輩方のように、せがれや後輩たちに歌舞伎界への憧れを伝えることが出来る役者になることが出来れば」

 襲名披露の演目からは、6歳で六代目尾上丑之助を名乗り初舞台を踏んで以来、約40年間の歩みが浮かび上がる。

 5月の昼の部「京鹿子娘道成寺」は、戦後の名女形だった祖父・七代目尾上梅幸、父・七代目菊五郎も繰り返し手がけてきた、女形舞踊の大曲だ。菊之助は15歳の時に、祖父と父と共に「三人道成寺」として踊ったことがある。

 「とても手が出ずに、大変な思いをしたんですけれど、祖父や父に見守られながら『道成寺』という作品に向き合えた。自分の至らなさを痛感しました」と振り返る。

 祖父・梅幸からは「はい、もう1回」という言葉をよく掛けられた。「私が到らなかったぶん、とにかく繰り返して、その型に慣れさせるということだったと思います」

 2004年には、坂東玉三郎との「二人道成寺」に初挑戦。「舞台に対する姿勢、踊り方、作品がどういうものか。細かくお教え頂きました」。公演初日には緊張と重圧で、「39度ぐらい」の高熱が出たという。

 その後、1人で踊る舞台でも「横に玉三郎のお兄さんがいるつもりで時々、踊ることもあるんです」。

 今回の「道成寺」には、この公演で六代目菊之助を襲名する息子の尾上丑之助に加え、玉三郎も出演。3人で主人公の白拍子花子を踊る。「ただありがたいの言葉につきます。祖父もすごく喜んでいるのではないか。丑之助の人生にとって、とても大切な時間になると思います」

 一方、夜の部で上演する家の芸「弁天娘女男白浪」の弁天小僧菊之助=写真=は、1996年の五代目菊之助襲名時も演じた役。

 「とても自分では納得できず、『どうしたら先人たちのように舞台に立てるんだろう』という所がスタートでした」と、18歳の自分を振り返る。

 「とにかく自分の至らなさと向き合い、どのようにしたら先人のようになれるか。自問自答してきた『菊之助』でした」

 引き続き、七代目として菊五郎を名乗る父親への思いを聞かれると、「父は『考えさせる』指導法なんですよね」という。「自分で考え、他の先輩に教えを頂き……という教育をしてもらったからこそ、『こうなりたい』という理想を高く持てました」

 「名優ぞろい」という代々の菊五郎の芸を受け継ぐだけでなく、「広く開かれた歌舞伎界」を目指したいという。近年手がけてきた「マハーバーラタ戦記」や「新作歌舞伎 ファイナルファンタジーX」などの新作では、国立劇場の養成所出身の俳優などと、作品を作り上げる機会も少なくなかった。

 「なかなか古典歌舞伎では難しい側面も現在はあります」。そう認めつつ、こう続けた。「この世界に憧れを持って入って来て下さる方、研鑽を積んでいる方にも門を開いて、一緒に後進を指導していきたい」

 「江戸時代は、それが当たり前のようにあったわけですから。改めて、ということではなく、それを見つめ直すということだと思います」 

なぜ日本だけ「戦後」が続くのか 米教授が指摘「長い終わり」のいま(朝日新聞有料記事より)

oooo

 「世界でいまだに『戦後』が続いているのは日本だけ」。それはなぜなのか。人類史的な転換に立ち会っているという私たちは、この先の「戦後100年」に向けて、どう生きるべきなのか。現在も精力的に世界各国の「戦争の記憶」について比較研究を続ける歴史学、アジア研究の世界的権威の米コロンビア大学教授、キャロル・グラックさんに聞きました。

     ◇

 いまも1945年からという長い「戦後」が続いているのは日本だけでしょう。

 もちろん、多くの国が「今年は戦争終結80年」を記念するでしょうが、「敗戦」でも「終戦」でもなく、「戦後80年」と表現するのが日本の特徴でしょう。日本以外の多くの国では、戦後は何十年も前の1950年代に終わっています。

 1956年度の経済白書が「もはや『戦後』ではない」と述べ、80年代に中曽根康弘首相による「戦後政治の総決算」、21世紀に入ってから安倍晋三首相の「戦後レジームからの脱却」に至るまで、「戦後の終わり」が繰り返し強調されましたが、「戦後」はまだ続いています。

 なぜ21世紀の第2四半期に入ろうとしても、日本人は現在を「戦後日本」と呼び続けるのでしょう?

戦争の記憶と「戦後」という響き

 なによりも日本国民が「戦後」を高く評価しているからです。戦後50年を迎えた1995年元日の朝日新聞の世論調査の見出しは「戦後の日本、肯定派84%」と報じました。

 9条を中心とした戦後の憲法が平和と繁栄に大きな役割を果たしたと評価されています。それほど高率ではなくても、今年調査をしてもきっと同様の傾向でしょう。注目しています。

 日本人にとって「戦後」とは「平和と繁栄」なのです。占領初期は「平和と民主主義」でしたが、高度成長期を経て変わりました。失われた数十年や格差の拡大にもかかわらず、そのイメージが残っているようです。

 一方で、日本の防衛政策や自衛隊の能力が、憲法を改正せずにどれほど変化してきたかは明らかです。

 また戦争終結ではなく「戦後」が記念されるため、戦後の「明るい」数十年が、戦前や戦争の「暗い」時期を覆い隠すのです。「戦後」という言葉を使うことによって「戦争」という苦痛を伴う記憶を遮断してしまうことが起こりがちです。一方でアジアの被害者に「十分に謝罪した」かは問題で、戦争の記憶の問題は、世界中で高まるナショナリズムを反映し、重要です。日本や東アジアに限ったものではありません。世界的に植民地と帝国の問題が簡単になくなることはないでしょう。日本だけが「長い戦後」にいても直面せざるを得ない問題がでてくるかもしれません。

 私は「新しい戦前」が来るとは思っていません。しかし、国境と関係なく、私たち人類は今、めったに起こらない大きな歴史的転換に立ち会っています。世界中でたくさんのことが同時に変化する「ポリクライシス(複合危機)」と呼んでいます。この長い転換はおそらく、ニクソンショックや石油危機といった経済の変調が起きた70年代ごろには始まったと考えられます。始点がどこであれ、転換はまだ終わっていません。終われば名前がつけられるでしょうが、今のところ私たちは「名無しの時代」を生きています。

 そんな地球で日本人は「戦後末」と呼ぶべき時代を経験していると思います。幕末が江戸時代の長い終わりを表したように、現在の日本は戦後の長い終わりだと考えています。

 しかし、未来はすでに始まっています。歴史とはそういう仕組みです。私を含め、ベルリンの壁の崩壊を1989年に予見できた人はいませんでした。壁が崩れると、みな「必然で不可避だった」と言い出しました。幕末の日本人も、徳川幕府が崩壊するとは、渦中にいたときには思っていなかったでしょう。

 戦後100年に、いま私たちの時代はどう顧みられるのでしょう。第2次世界大戦を世界の視点からとらえ、戦争の記憶をよい未来と歴史につなげることが求められています。

キャロル・グラックさん

 Carol Gluck 1941年生まれ。米国における日本近現代史研究の第一人者で、歴史と公共の記憶に関しても精力的に活動する。著書に「歴史で考える」「戦争の記憶」など。 

『わかれ雲』(1951)

本日の京橋、三浦光雄特集「わかれ雲」。
オリジナルネガから起こしたというだけあり、キズは多少あれど白黒の階調が見事。
オールロケと解説にありましたが、本当にセット撮影はやっていないと思われます。

i-img1200x91

今朝の東京新聞から。

P4172971

今朝の東京新聞から。

P4102962

習近平はなぜ「強い」? 新著が話題の政治学者・鈴木隆氏に聞く(朝日新聞有料記事より)

無題bb

 習近平が中国共産党・政府のトップに就いて、12年余り。1強体制を築き上げ、ライバルも後継者も見当たらない。いったいどんな人なのか。なぜ「強い」のか。何が彼の行く先を決めるのか――。新著「習近平研究 支配体制と指導者の実像」が話題の中国政治研究者、鈴木隆さんに聞いた。

 ――1921年に結党した中国共産党の党員はいまや、9918万人。そのトップに立つ習氏はどんな政治家ですか。

 「企業経営に例えると、習氏は、1億人に迫る社員を抱え、百年の歴史を持つ老舗の社長のような存在です。国内14億人、そして世界の政治・経済・軍事という『マーケット』で競争しています」

 「歴代トップをみてみましょう。毛沢東は起業家。古い秩序を破壊して共産党が率いる中国を建国しました。中興の祖とされる鄧小平は先代の手法で行き詰まった統治を、経済発展を中心とする近代化で強化する目標を掲げ、実行したリーダーです。江沢民は天安門事件で揺らいだ国内外での地位の立て直しで、手腕を発揮した場面もありました」

 「ただ、習氏の前任の胡錦濤は、いわばマネジャー(管理者)。目標は立てても経営は過去の路線を変えられず、腐敗や格差など噴出する課題を解決する指導力に欠けた。胡氏の弱さが、習氏の登場を準備したとも言えます」

 ――というと?

 「胡氏は鄧氏が築いた集団指導体制を守り、習氏ほどには宗教や少数民族、言論の弾圧もしなかった。半面、経済成長で問題を覆い隠せるという鄧路線の行き詰まりが明らかになっても改革できなかった。その閉塞感や幻滅が、少々粗暴なやり方でも強力な指導者を求める政治的な空気を生んだことは事実です」

 ――習氏の父親は副首相を務め、党内では民主的な開明派とも言われた習仲勲氏。当初は息子に対しても、中国内の知識人を含めそんな期待がありました。

 「習近平氏は今でこそ強い指導者と言われますが、トップに就任した当初は周囲から押し上げられた、『凡庸なお坊ちゃま』リーダーだと思われていました。しかし、彼にかかわる過去の資料を読み込むうち、全く違うと分かりました。共産党支配体制の申し子のような人物です」

 「冒頭の企業経営の比喩で言うと、サラリーマンの雇われ社長ではない。自分が子供のころからよく知っているおじさんやおばさんがこの国を作った、自分も創業者たちに連なる系譜であるという自覚が強い。血統に対する強い確信と責任を持っている。だから、共産党の支配体制を動揺させたり解体したりしうる政策は選択肢にない。民主化など論外です」

 「習政権下の中国で秘密主義や強国主義が進んでいるようにみえるのは、中国社会や世界情勢の影響もないわけではありませんが、やはり習氏個人の政治的キャラクターに負う部分が大きい。首相だった李克強氏が仮にトップになっていれば、今とは異なる中国がありえたはずです」

文革と地方勤務で培われたものとは?

 ――習氏の青年期は文化大革命の時代。北京から地方へ下放され、父を始め家族も苦難を味わいました。

 「文革で十分な学校教育を受けられなかった、中国のロストジェネレーション(失われた世代)と呼ばれる人々の一人です」

 ――毛氏や江氏は、建築物や書籍などに権力を誇示するかのように揮毫(毛筆で名前や言葉を書く)していますが、習氏の字はあまり見ませんね。一方で、外遊時や新年のあいさつなどでは漢詩から西洋哲学まで読書歴を強調します。

 「若いころに、本の題字や序文に自分の名前を書いてもいます。ただし、ペン書きであまり上手な字ではありません。読書家であることを披瀝することを含めて、習氏自身、教育ロスジェネのコンプレックスを持っているでしょう。しかし、習氏が中国の文人政治家の伝統にそぐわなかったとしても、政治家の力量は学校教育だけによるものではない。田中角栄氏は義務教育しか受けていませんが、日本の政治史上に名を残す政治家でした」

 「それに、習氏には、文革期に培われた人一倍、強いものがある」

 ――何ですか。

 「権力への強い意志です。トップに就いて以降の習氏の演説に『敢然と闘い、敢然と勝利する』という言葉があります。『習近平思想』の重要なポイントです。これは、文革期に自身も数え切れないほど読んだであろう『毛沢東語録』の闘争の思想の影響を受けています」

 「共産党員の構成をみると、もはや労働者や農民よりホワイトカラーの比率が高い。習氏の思想は、階級政党の建前に関係なく、自分と党の権力を維持するために内外の敵と戦う、闘争のイデオロギーとも言えます」

 ――意志だけでは「1強」は実現できません。

 「河北省を皮切りに、福建省、浙江省、上海市と25年にわたって地方で勤務した経験が大きく作用しています」

 ――なぜ、そんなに長くいたのですか。

 「当初は目立つほどには能力が高くなかったので、早期に中央に取り立てられなかったのでしょう。しかし、地方でのOJT(働きながらの訓練)が活(い)きている。文革後に官僚機構が整備されていった80年代初頭以降、2007年に政治局常務委員になるまで、ずっと地方政治家として働きました」

 「地方では党や政府だけでなく、軍にも積極的に協力した。それぞれの組織、各行政レベルの権力、権限の質や組織文化を知り尽くしている。いわゆる霞が関や永田町だけしか知らないエリートではない。中国共産党が支配する中国の体制を隅々まで知り、操作できるとの自負があるでしょう」

 「米国の政治学者フランシス・フクヤマ氏も著書『政治の起源』で指摘していましたが、中国の王朝こそ官僚機構を生み出した歴史的存在です。さらに社会主義国家においても官僚制度は重要。中国の伝統文化の縦軸と社会主義の横軸の結節点である官僚機構の掌握には大きな意味があります」

台湾と海洋へ強いこだわり 米国を抜くとは?

 ――地方の経験は、彼の政策にどのような特色を与えていますか。

 「台湾と海洋の問題に強い影響を与えています。福建省時代は、軍事演習に至った台湾海峡危機がありました。台湾問題は、経験や知識を積み、台湾に詳しい政治家としてキャリアアップにもつながった『成功体験』です。また、台湾問題を日本との歴史問題ともとらえています。習氏にとっての『戦後』は、日清戦争で日本に敗れた清が台湾を割譲して以降、長く続いているのです」

 「浙江省時代には日本や韓国との漁業協定発効後の対応や東シナ海でのガス田開発問題などを通じて、国境や領海にいっそう強い関心を持ち始めました。習政権のスローガン『中華民族の偉大なる復興』という強いナショナリズムにもつながっています」

 ――その台湾と海洋へのこだわりは、何をもたらすのでしょうか。

 「中国が台湾問題を解決すると言うとき、中国の主権下に台湾を置くという状態を指しています。台湾統一は『中華民族の偉大なる復興』の一部であり、不可欠な要素です」

 「同時に、必ずしも最優先の課題ではない。まずは、自分と家族の自己保存的な安全本能がある。続いて、共産党体制の永続化。三つ目は21世紀半ばまでに米国を追い抜くこと。仮に自分はそこまでトップでいられなくても段取りをつけておきたいと考えているはずです」

 「この三つを成し遂げられれば、台湾は自然に戻ってくる、と。台湾を武力侵攻して、この三つのうちどれかが失われるような状況になると判断すれば、やらないと思いますね。もちろん、台湾に対して圧倒的な力を見せつけておくことは重要だと考え、軍備や圧力の強化は続けるでしょうが」

 ――米国を追い抜くとは、具体的にはどういう状態ですか。

 「国際政治の舞台で自分たちが言ったことに対して、米国を含めて無視できない状態を指しているのではないでしょうか。国際社会でのトランプ米大統領の振る舞いを想像してみてください。正義や公正さを欠くと思われることでも、国際社会は無視できない」

 「『中国式現代化』は欧米を超えて、開発途上国に対する模範であるとも言い始めています。経済規模ではかなわなくても、アメリカよりも統治のモデルとしては素晴らしい、と。『東昇西降』(東洋が勃興し、西洋が没落する)『中治西乱』(中国は安定し、西洋は乱れる)というイメージを、国際社会に積極的にアピールしています。遅くとも35年ぐらいまでには地域における覇権は確立したいと考えているはずです」

 ――日本に対しては?

 「日本はアメリカと組んで、中国の地域覇権を阻む力を持つ、あるいは、阻む意志のある油断ならない国だとして一目置いている。日本は抑止力を強化し、下手なことをしたら自己保存や支配体制の永続化はできないぞ、と習氏に対して圧力をかけ続けることは重要です」

変わる民 中国の支配体制を考える2つの次元とは?

 「(西側が)中国の改革開放に関与して経済成長すれば、中国の支配体制も変わるという見通しは実現しませんでした。しかし、中国社会は今、こちらが黙っていても変わっています」

 ――どんなふうに?

 「時間を圧縮して近代化を実現した中国社会では、若い世代ではポストモダンの社会変化がみられます」

 ――若者や中年の一部は、競争を避け、住宅など消費も疎んじ、結婚や出産もあきらめています。「寝そべり族」とも呼ばれていますね。

 「習氏らは中国のモーレツ世代。文革後、苦労して頑張って経済・軍事大国にし、さあ、これから世界覇権を目指そうとするときだ、寝そべっていないで立ち上がって一生懸命に働け、と思っているでしょう。こうした高齢の指導層の感性が若者の変化についていけていない」

 「自分たちは子供の数まで我慢したのに、今は子供を産めと言っても産まない。結婚もしない。男が女のような格好をするな、介護も家族で解決しろ、それが儒教思想の伝統だと言っていますけれど、若い世代からみたら古いおじさんでしかない。民主化など政治体制の問題とは違う次元で、個人の価値観が変わってきている」

 ――共産党政治の中では「1強」でも、14億人に対しては必ずしも「1強」ではない、と。

 「中国の支配体制の安定は二つの次元で考えなければなりません。体制内のエリート政治の動向、もうひとつは支配体制と社会との関係です。習氏にとって新疆ウイグル自治区など少数民族や香港の問題は、統治上はそれほど怖くない。中国の人口の9割超を占める漢民族が、庶民を含めて彼らを仲間として考えていないからです。大多数の国民が欲するのは仕事と社会保障。習氏がやりたいのは米国と対抗するために科学技術や国有企業を強くすること。この乖離は、支配体制と社会との関係の大きな不安定要因です」

 ――習氏は今年72歳。いつまで続けるでしょうか。

 「鄧氏は1978年に74歳で最高指導者の地位に就きました。今の感覚で言えば80代半ばぐらいのイメージでしょうから、後継者を考えずにはいられなかった。習氏は少なくとも4期20年、79歳を迎える2032年まではトップにとどまるという見方が強い。トップは、自分の権力を脅かす後継指名を交代直前までしたくないものです。権力の継承は中国政治の大きなリスク要因です。ただし、習氏にとって共産党は我が『百年企業』。自分の死後の体制の行く末は関知しないというわけにはいきません。年齢は近くても、破壊的な戦争指導者になったロシアのプーチン氏とは異なるように思います」

鈴木隆さん

すずき・たかし 1973年生まれ。大東文化大学東洋研究所教授。
著書に「中国共産党の支配と権力」、共著に「ユーラシアの自画像」「習近平の中国」など。
 

杜琪峯、ドーハで語る(DEADLINEインタヴュー)。

ghgdhh
hh


ジョニー・トーは、過去3年間、故郷の現状を探る香港を舞台にしたドラマ「Hope」に取り組んできたことを明らかにした。

彼はまた、2024年後半に浮上した、年末に日本の北海道でギャング映画を撮影する予定だという噂を認めたが、それは香港での制作が完了することが条件だと述べた。

ドーハ映画協会の”クムラ・イベント”の傍らでDeadlineに語ったトーは、香港映画をどう仕上げるかで現在創造的に行き詰まっていることを示唆した。

「2か月前に10日間撮影して、その後は止めました。撮影方法について何も感じなかったので、待つつもりです」と彼は語った。
監督は、脚本なしで撮影するというトレードマークの手法を使っており、映画が正確に何についてであるかを言うのは時期尚早だと述べた。

「大まかなアイデアはあるが、まだ成熟していない」と彼は語った。「まず決めなければならないのは、香港に対する私の気持ちです。何度も試みました。香港から出て脚本について考えたいときもありますが、うまくいきません… 3か月以内に終わらせたいと思っています。終わらせたいなら簡単ですが、本当の自分ではないので、私にとっては大きな問題です。」

「これは希望についての映画です・・・・人々に希望があれば、大きな重荷が伴います・・・・私はこのことを考えています。
「物語は香港、そして香港の人々です」と彼は語った。

『大事件』『黒社会』『エレクション2』『放逐』『神探』『復仇』などのアクションやギャング映画で世界的に知られる杜琪峯は、香港を拠点とする自身の制作会社銀河映像で監督とプロデュースを続けている。

かつては繁栄していた香港の映画産業は、1997年に香港が中国に返還されてから急成長したものの、中国本土での映画産業の台頭により、過去10年間で低迷している。

中国の民主化活動家に対する取り締まりも香港の輝きを失わせ、2021年から2024年の間に約50万人が香港を去ったと推定されている。

「命の価値、すべての価値が変わりました。それを受け入れる方法を学ばなければなりません。それが私が映画を完成させられない理由です」と彼は語った。

「検閲だけの問題ではありません。私が話しているのは価値、人生の価値、追い求めているもの、その価値とは何か… おそらく私は完全に検閲されるのは簡単ではない。映画はどんな映画でも作れるが、なぜこの映画を作るのか自問自答する。それが常に私の心にある」と彼は語った。
香港の新進映画監督へのアドバイスを尋ねられたトー氏は、「撮ること。撮るチャンスがあれば、何でも撮ること。もちろん資金を見つけるのは難しい。今年(第1四半期)香港で製作中の映画は2本だけだ」と答えた。

インタビューに同席したトー氏のアシスタントは、香港映画産業が絶頂期にあったとき、年間約200本の映画が撮影されていたことと比較した。

国内の課題に直面して、トー氏は『Hope』を完成できれば日本で撮影する予定だと語った。

「映画を完成できれば、今年の12月に北海道で撮影しますが、まだ映画を完成できていません・・・・待たなければなりませんが、いったん動き出せばすぐに終わるでしょう。」
彼は、日本での制作がギャング映画であることを認めたが、長年の協力者であるトニー・レオンがこのプロジェクトに関係するかどうかを言うのは時期尚早だと述べた。

「分かりません。彼と一緒にやりたいです。彼は私の親友ですが、分かりません」と彼は述べた。

トー氏は、台湾での3作目の映画プロジェクトも製作準備の初期段階にあると付け加えた。

「香港から出てみたいと思っています。日本、台湾、フィリピン、マレーシア、またはヨーロッパについて考えるべきだと思っています」と彼は笑いながら付け加えた。「アメリカはダメです。高すぎるからです」

しかし、トー氏は生まれ故郷の香港を永久に離れることはないと述べた。

「離れたくないです。香港が好きなんです」香港の外で撮影する機会は何度もありましたが、私は香港のことを知っていますし、香港が大好きなので、たとえできないときでも香港で映画を撮ってみたいと思っています」と彼は語った。

「"香港以外の"生活は、生き残るのは簡単ですが、文化やあらゆるものを持ち込むのは難しいです。特に映画製作者の場合はそうです。」 

格差ゆえに知を求めた勤労青年たち 「大衆教養」突き動かした貧困(朝日新聞有料記事より)

jhg

 教養と言うと、知的エリートの持ち物だというイメージがあるかもしれません。けれど歴史社会学者の福間良明さんは、中卒で就職した勤労青年たちが読書を通じて自分を見つめた「大衆教養」の時代が戦後日本にあったと指摘します。格差という理不尽に直面させられたからこそ知に触れようとした非エリートの人々。そこには何があったのでしょう。

中卒で働く青年たちが求めた「人生雑誌」

 日本の戦後史を丁寧に見ると、読書で人格を磨こうとする「教養主義」が学歴エリートの占有物ではなかった事実が見えてきます。格差と貧困のもとで高校にも進めなかった多くの勤労青年たちが、読書を通じて知に触れていたのです。

 その歴史に私が出会ったのは今から20年近く前でした。古書店で、人生雑誌と呼ばれていた雑誌の復刻版を入手したのです。1950年代を中心に読まれていたもので、読者の多くは中卒で働く青年でした。文学や歴史、哲学、思想にかかわる記事が載り、読者の投稿や作文もありました。代表的な雑誌は「葦(あし)」や「人生手帖」でした。

 そこでは、貧しさゆえに上の学校に進めないことへの鬱屈が語られていました。金のある家に生まれた人は進学できるのに自分はできない。そうしたやり場のない怒りゆえに読者は、自分を磨くための文章や社会批判の言葉、読者同士の語り合いを求めたのです。

自らの欠落、埋めようとする謙虚さ

 当時、中卒者の就職先は農村や工場などでした。地域のボスが実権を握り、女性はイエに縛り付けられ、ブラックな働かせ方が横行する。中学で習った憲法の理念とは異なる社会の現実がそこにはありました。

 なぜ社会はこのようになっているのか。今はその理由が分からないけれど、そこにある自身の理解の欠落を認めたうえで多少でも埋めていこうとする作業を、読者たちはしていました。

 そこには「社会に格差があるがゆえに知的なものに触れようとしない」姿ではなく、「格差があるがゆえに知的なものに触れようとする」姿がありました。貪欲さと同時に謙虚さがあったものと私は見ます。

 もちろん、自分の中にある欠落を認めることは、自分の弱さを認めることでもあります。弱肉強食が強く意識される現代の状況では、実行するのが難しいことではあるでしょう。

「私はダメ人間ではない」、守られた尊厳

 とはいえ、次のような事実は確認しておいてよいと思います。人生雑誌を読んで自らを高めようとしていた読者たちの間には、「私たちは頑張っており、ダメな人間ではない」「私には誇りがある」という認識がうかがえました。弱者であっても否定されずに生きていける社会、自身の尊厳が守られる社会がイメージされていたのだと思います。

 人生雑誌が読まれた時代は、進学率が上昇したことなどによって60年代には終わっていきました。以降、「大衆的な教養」の基盤は見えにくくなっています。いま、格差を問題視する議論は盛んですが、そこでも関心は実利的な「階層上昇」に集中しています。

 けれど、格差と教養が結びつく回路が完全に消えてしまったとは思えません。日本の場合、新書のような本がそれなりに手軽に手に入る環境もまだあります。

「偶然の出会い」、どれだけ埋め込めるか

 人生雑誌が青年を引きつけた理由の一つは、そこが「自分が興味を持っていること」以外のものに出会える場だったからでした。自分の中にある欠落が偶然の出会いによって埋められていくことへの喜びです。

 大衆的な教養に関するこれらの研究は、教育者としての私自身の姿勢を見直す機会にもなりました。大学教員になった当時の私の心の中には「興味のない学生は授業に来なくてもいい」という思いもありましたが、この5年か10年の間に考えが変わってきたのです。

 「経済学部に入ったのに、なぜ文学の授業をとらなければいけないのか」。大学の一般教養のカリキュラムではそうした不満がよく聞かれますが、そうして仕方なく授業をとることで新しい「知」への興味が生まれることも実際にあるからです。こうした偶然の出会いを生み出せることが、教養という領域の持つプラスの可能性だと今は思います。

 ネット検索の現代は、興味のあることだけに没入できる時代です。人々が知と触れあう場の中に偶然性をどれだけ埋め込めるか。それが「教養」の現代的な課題なのだと思います。

福間良明さん

 ふくま・よしあき 1969年生まれ。京都大学教授。格差と教養や、戦争の記憶に関する研究で知られる。著書に「『勤労青年』の教養文化史」など。 
www.flickr.com
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

プロフィール

大頭茶

月別アーカイブ
*iphone アプリ 開発
*ラティース ラティッセ
  • ライブドアブログ