――1980年代の香港のスラム街を舞台にした映画は現地の郷愁も呼び、観客動員数は香港における歴代1位を記録、日本でもヒットしています。SNSにはファンアートも多く投稿され、女性誌「レタスクラブ」が劇中に出てくる「叉焼飯」のレシピを紹介するなど、女性人気も盛り上がっています
「日本では女性のお客さんが多いと聞いて、意外でした。撮影中は、誰にどう受け入れられるかなんて考える間もないくらい大変だったんでね……」
――九龍城砦を再現するため、セットに10億円かけたという大作でした
「本当は中国・広州で撮ろうとしていたんですが、ちょうどコロナが感染爆発して。それで人件費も物価も高い香港でセットを作ることになりました。アクション部は日本や中国から呼んだんですが、渡航も厳しい時期でしたね。今ある条件の中でやれることをやろうという感じでした。九龍城砦を再現するために廃校になった小学校を使ったほか、たとえば、アーロン・クォックとルイス・クーの決闘の場面は、屋外に設置した通路にトタンで屋根をつけたりした即席のセットで撮りました。お金をかけるところにはかけましたが、むしろ全員の工夫で全撮影を乗り切ったという感じでした」
――序盤、主人公と九龍城砦のボスが理髪店で出会い、闘う場面に魅了されました
「あの理髪店の場面は、クランクインした初日とその翌日に撮影しました。ルイス・クー演じるボスが、吸っていたたばこからポンと手を離して、たばこが空中にある間に、バババババッと主人公をやっつけ、何事もなかったようにまたたばこを手にとる。『んな、あほな』じゃないですか。でも、ここでうまくリアルをちょっと飛び越えることができて『うそのつき方』が決まった。スタッフたちもこの撮影から、うまく乗せることができたような気がします」
――「アクション監督」とはどういうポジションなのでしょうか。日本ではあまり聞き慣れない言葉です
「日本にも近い役職はあったかもしれませんが、香港では、アクションに関することならば、アクション監督にあたる動作導演が撮影にも編集にも演出にも携わります」
「たとえばカメラも(アクションの振り付けを)覚えないと動きを追えない。だから『るろうに剣心』で、主人公の剣心が飛び降りる場面では、僕がカメラを持って一緒に飛び降りながら撮影しました。編集にしても効果音の種類にしても、アクションのリズムや迫力がちゃんと表現されるように関わりたいですね」
「でも、従来あった殺陣師とかスタントコーディネーターという立場だと、なぜ管轄外のことに口出しするのかと言われてしまう。『アクション監督』という言葉は、日本で仕事をするときに自分の居場所を正当化するための『抑止力』として使い始めたんです」
「一発OKか、病院に行くか」だった昔の撮影
――谷垣さんも、かつてはスタントとして多くの監督の「むちゃぶり」に応えてきました
「僕もむちゃぶりはしますよ。でも、その質が昔とは違う。つまり、僕がスタントマンだった頃は、建物の3階から下にドーンと落ちるような、本当に危ないことをやっていた。それだと、一発OKか、病院に行くかのどちらかで、いずれにしても一発勝負で終わっていました」
「今は、危ない場所には全部ウレタンを張ったりCGや合成なども使ったりして、あらゆるところでケガをしない工夫をしている。つまり安全な分、いわゆる『マネーショット』(最高の場面)が撮れるまで何テイクでもやることになります。スタントだけじゃなくて、役者たちもいい画が撮れるまで何回でも挑戦する。必死にぎりぎりのところでやっている人は魅力的じゃないですか。役者たちは本当に毎日必死で、みんなフェロモンを出しまくりだったと思います。それが女性人気につながったのかもしれないですね」
テレンス・ラウが殴られる場面では
――今はCGで場面を合成する技術も進化していますが、それでも実際に生身の俳優がアクションをすることの意味とは何ですか
「殴ったり殴られたり、追いかけたり逃げたりというアクション場面は、人の感情が大きく発露するドラマ性のピークで、そこにカタルシスがある。そして、アクションは、距離が近づけば近づくほど真実に近くなるということだと思います」
「銃撃戦の場面では、役者が本当には撃たれていないことは客もわかります。でも、僕らはワイヤーを消したりするためにCGは使っていても、殴る行為は真実。たとえば『トワイライト』で信一(ソンヤッ)役のテレンス・ラウが悪役に殴られる場面で、フレームの外から殴っているのは小道具の『柔らかい』拳ですが、実際に当てています。それを見たら、お客さんは『痛そう』と思いますよね。そういうちょっとした真実の積み重ねが大きなうそをつくためには大事。それがあるから、映画の『非日常』にお客さんを没入させられるんだと思います」
――アクション映画の道に入ったきっかけは、小学生の時にテレビで見たジャッキー・チェンがきっかけだったそうですね
「テレビで放送されていた『スネーキーモンキー/蛇拳』でした。主人公が特訓してできなかったことができるようになっていくのを見て、自分もやったらできそうだって思って。もう少し後のジャッキーの映画には、NG集が最後につくようになりましたが、それを見るとああいう映画は、ものすごい何度も努力して、できないものができるようになったということの積み重ねだということもわかった。自分もやってみたいと思うようになりました」
《高校では少林寺拳法部に入り、全国大会にも出場。大学時代に入った養成所「倉田保昭アクションクラブ」でアクションやスタントの技術を学び、22歳で香港へ。マクドナルドに集う学生相手に広東語を学びながら、エキストラ俳優を経てスタントに。活躍し始めた1998年に出版した著書『燃えよ!!スタントマン』では、「将来は武術監督を目指す」とある》
――何も持たず、つてもなく香港に行き、実際に目指していたアクション監督になりました。どうやって生き残ってきたのでしょう
「当時の日本はアクションが谷間だった時代で、本格的なアクションをやるなら香港しかなかった。だから、誰かに『今度映画で使うよ』と言われれば、それが口約束に過ぎなくてもその日の『スモールビクトリー(小さな勝利)』と受け止めて『まだやれる』『先に希望がある』と、ポジティブに感じられる性格だったのもあるかもしれません」
――「最後の本格派」アクションスターといわれるドニー・イェンとの出会いがアクション人生を変えます。テレビシリーズ「精武門」や映画「ドラゴン危機一発'97」に参加して信頼を得て、次第に「右腕」と呼ばれるようになっていきました
日本進出のきっかけ作ってくれたドニー・イェン
「よく僕のアクションは、『ワイヤーアクション』とか『カンフーアクション』だとか言われますが、どれも違っている気がします。僕は『ドニーアクション』なんです。ドニーのアクションが、『るろ剣』のアクションになって、それがまた『トワイライト』のアクションになった」
――「ドニーアクション」とはどんなアクションですか
「僕らのアクションには『理』がある。つまり、力点があって支点があるから作用点として飛べる、という物理的な表現を重視する。だから力の発進点になるショットは短くても入れるようにしています。それと『虚』と『実』というのかな、映画の中だから許されるような誇張された表現とものすごくリアルな表現を交錯させて、『その映画の中にしか存在しないもの』を作りたいという思いは常にあります。そういうアクションを目指していきたいですね」
――それが谷垣さんのアクションの独特のグルーブ感につながっているんですね。ドニー・イェンさんからは「香港でやる以上は絶対にトップになることは不可能だ。日本のマーケットを広げることに費やすのが賢いやり方だ」と早くから日本進出を促されていたそうですね
「僕が香港に行った1993年は、返還を前に中国(大陸での)ロケがすごく増えていた時期でした。それが落ち着いたら今度はアメリカで『マトリックス』や『チャーリーズ・エンジェル』が作られ、香港のチームが海外に呼ばれることが増えて、香港映画が国際化していきました。その流れの中でドニーが『日本でやるのもいいんじゃないか』と勧めてくれました。『香港の方は俺が何かやる時は必ず呼ぶから』と」
「だから僕が日本で活動していくきっかけを作ってくれたのは、ドニーです。彼がアクション監督をつとめた日本映画『修羅雪姫』に僕も参加したことで、本格的に日本での活動が始まりました」
《2009年の「カムイ外伝」でアクション監督を務めた後、2012年に公開の始まった「るろうに剣心」にアクション監督として参加。シリーズはメガヒットを記録し、そのアクションは海外でも高く評価された。一方で、香港映画は1990年代前半をピークに、公開される映画の本数が激減。斜陽になっていった》
「昨年は(『トワイライト』や『ラスト・ダンス(破・地獄)』など)すごくヒットした映画があったんですが、今年は現場が圧倒的に少ない。だから来年くらいからは、公開本数がすごく減ると思います。でも、香港映画の歴史をたどれば元々は上海など中国本土から来た映画人が中心になって作ってきたものです。だから、チャイナタウンみたいなものなんだと思うんですよ」
「たとえば神戸とロンドンのチャイナタウンは同じチャイナタウンでも全く違うアイデンティティーがある。僕がやっているのも香港アクションだけど、日本でまた少し変わった何かになってきている。『マトリックス』シリーズに関わったチャド・スタエルスキは香港のチームと一緒に仕事をした経験を生かしつつ、『ジョン・ウィック』シリーズの監督となって、アメリカナイズされたアクションをやっている。香港の地元のアクション映画がこれからどうなるかはわからないけれども、香港映画がいろんなところに流れて、チャイナタウンみたいに世界のいろんなところにできていってその土地に合わせて変化していったらいいと思っています」
――谷垣さんにとって、自分が継承していきたい香港映画のエッセンスとは
「『継承』とか全然考えてないです。ここ数年、香港の映画人たちがみんな継承していこうと言い出しているのを、僕はちょっと苦々しく思っていて」
「だって継承というのは滅びゆく伝統芸能に使われる言葉じゃないですか。言うほどに本当に滅びる予感がして嫌なんです。ジャッキー・チェンとか、ブルース・リーとか、景気がいい時にやっていた人は継承するつもりで撮っていなかったと思う。映画ってもっと野蛮なメディアなので、守るよりは突破していく方が強い。僕は『るろ剣』をやっているときも、すべての体制をぶっ壊すくらいの気持ちでやっていましたから」
――今後の野望は
「アメリカ映画も撮ってみたいし、インド映画も撮ってみたい。知らないところで、またひどい思いをしてみたい(笑)。僕は身一つで、『カメラとお金をやるからなんか撮って』と言われたいタイプ。藩に召し抱えられる武士ではなくて、野武士でいたい。20代は香港でいろんなことをチャレンジした。30代は日本に戻って試行錯誤をして、40代から『るろ剣』など作品に恵まれて、収穫があった。一周回って50代ではまたいろんな挑戦をしていきたいと思っています」