
一つの論文が、法曹界でひそかに話題になっている。
刑事裁判官としてエリートコースを歩み、現在は日大法科大学院で刑事訴訟法を講じる藤井敏明さんが今年3月に発表した。裁判官による被告人の保釈の判断が、不当な拘禁を禁じた憲法に反する運用になっていないか――。そこには、古巣と過去の自分を省みる言葉が記されていた。
大川原化工機をめぐる冤罪事件では、がんで亡くなった同社元顧問の保釈請求に東京地検は「罪証隠滅のおそれがある」と反対し、東京地裁はそれをなぞるように却下を繰り返した。警察と検察による捜査・立件の違法性は国家賠償訴訟で断罪されたが、裁判所の責任は問われず、遺族は保釈判断について検証を求めている。
裁判所は「人権の砦」としての役割を果たせているのか。「人質司法」を改めるため、裁判官にはどのような実務が求められるのか。藤井さんを訪ねた。
無罪推定と憲法の原則に沿った運用か
――プレサンスコーポレーションや大川原化工機をめぐる冤罪事件などで、裁判官への批判が高まりました。
「当たり前ですが、裁判で有罪が確定する前に人を処罰することは許されない。二つの事件で逮捕・起訴された幹部らが長期間身体を拘束され、企業経営を行う自由だけでなく適切な治療を受ける機会すら奪われたことは、実質的に処罰を受けたのに等しく、正当な理由のある拘束か疑問です」
「ただ、捜査機関の誤った見込みに基づく身柄拘束や訴追は今後もなくなるとは考えられません。人間は誰しも認知バイアスを免れず、昇進欲や組織の存在誇示などの動機からも、不当な捜査が行われてきました」
「起訴事件の有罪率99%という状況下で、無実の人を拘束している可能性を裁判官が意識しているのかが問題です。また、憲法34条は、正当な理由なく拘禁されない『人身の自由』を保障しています。裁判官による勾留や保釈の判断は、この『正当な理由』に適合するかどうかが問われます」
「すなわち、適正な裁判を行うためという身柄拘束の目的と、被疑者・被告人の権利や自由の制約という手段とが均衡しなければならないという『比例原則』に基づき判断される必要がある。現在の保釈実務は、それが十分に検討されているか疑問があります」
あまりに広い「罪証隠滅のおそれ」の解釈
――刑事訴訟法の保釈除外についての規定の「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」があまりに広義に解釈、運用されていると指摘していますね。
「仮に被告人による証人への働きかけが行われても、それによって証人が偽証して、裁判官の判断が誤ったものになる可能性が認められなければ、罪証隠滅のおそれがあるとは言えないはずです」
「そもそも、保釈時には事件関係者への接触禁止など厳格な条件が課されます。違反すれば保釈を取り消され保証金も没収されるだけでなく、偽証教唆罪にも問われ得る。そんなリスクを冒す者は現実的にどれほどいるでしょうか」
――「罪証隠滅」規定が保釈請求の却下に多用される理由として、刑訴法の別の条文の不備も指摘していますね。
「裁判官がこの規定を限定的に解釈することの障害となっているのが、勾留期間について定めた60条2項の規定です。起訴後の勾留は2カ月で、特に必要がある場合には1カ月ごとに更新できると定められています。更新は1回に限られますが、その制限が除外される場合があり、逃亡のおそれはその除外規定には含まれていません。実刑が確実に見込まれるような被告人を釈放すれば逃亡する可能性が高くても、『罪証隠滅のおそれ』以外の理由では更新の制限を逃れられない場合があり、そのことが解釈を緩くしています」
「本来は起訴後勾留が不当に長くならないために設けられたはずの条文ですが、逆に長期拘束の原因になっている。この60条2項を削除すれば、罪証隠滅のおそれに関する緩い解釈は、改善される可能性があります」
検察官との情報格差が呼ぶ「相場」処理
――しかしそれでも、裁判官が「罪証隠滅」の対象や方法、客観的可能性をもっと精査できないのでしょうか。なぜ、裁判官はこれほど「罪証隠滅のおそれ」を認めるのでしょうか。
「罪証隠滅や逃亡のおそれがどの程度あるかは、将来の行動を予測する判断になるので、誰にも確実なことは言えません。そして、被告人の身柄の取り扱いに、裁判官によって大きなバラツキがあることは望ましいことではないと考えられがちです」
「証拠の内容を知り尽くしている検察官に比べ、公判審理前の裁判官は情報量が圧倒的に少ない。罪証隠滅のおそれが高いとして保釈に反対する検察官の意見を排斥できる理由は見当たらないとして処理し、それが裁判所における『相場』にも沿っていると考えられることが多いのではないでしょうか」
「予断排除のため、公判と保釈判断は別の裁判官が担います。自分が審理しない事件の被告人を保釈して万が一、逃亡や証拠隠滅が生じて公判を壊してしまっては申し訳ない。そういう心理もあると思います。特に国民の処罰感情が強い事件では、従来と違う運用をすることへのためらいを誰しも持つのではないでしょうか」
「保釈請求の度に裁判官が代わることは多いですが、検察官に事件記録を提出させ検討するものの、短時間で膨大な資料を読み込み事件の本質を見抜くのは、現実問題としてなかなか難しいという側面もあると思います」
――大川原化工機の社長ら3人の保釈請求は計20回に及び、判断に関わった裁判官は23人とされます。
「保釈請求は却下されても、何度も請求できます。ただし、一度判断された保釈について同じ理由によって蒸し返すことはできず、新たに請求する際には、前回以降の事情変更があることを主張する必要があります」
「否認事件では公判前整理手続きが行われることが多いですが、その初期に保釈請求しても、争点と証拠の整理が進んでいないなどとして却下されることが少なくありません。その結果、場合によっては数カ月から1年以上かけて、争点と証拠の整理が完了するか相当程度まで進んだ段階にならないと、事情変更があったとは認められない。そうした構造的問題があります」
「この問題を解決するためには、仮に有罪となっても執行猶予となることが見込まれる事件や、無罪判決の可能性があると思われる事件などでは、公判前整理手続きの早期に、裁判官の裁量で保釈する必要があると思います」
実質的な保釈判断できる法改正も視野に
――大川原化工機への冤罪では特に、胃がんで亡くなった元顧問による8回の保釈請求を却下し続けたことへの批判が高まりました。最高裁は年明け、個別事例を検証しないものの、保釈の運用について議論を始めます。ただ、憲法が保障する「裁判官の独立」は検証を避ける理由になるのでしょうか。
「個々の判断を事後に上級審から検証されれば、将来の審理を縛りかねず、他の裁判官の判断にも影響を与えてしまう。やはり検証は難しいでしょう。ただ、それでは遺族も国民も『何も責任を感じていないのか』と裁判所への不信感を募らせるだけ。なぜ検証できないのかという説明と、議論を始めるという表明は、遅くとも最高検と警視庁が検証結果を発表した8月には行うべきでした」
――大川原化工機の冤罪事件で問題視されたような保釈実務を改めるには、どうすればよいのでしょうか?
「他の裁判官が担当する公判を壊したくないという心理が保釈への積極的姿勢にブレーキをかけているのであれば、公判前整理手続きを担当する裁判官が保釈の判断をできるよう法改正すべきです。また、それによって、保釈請求の度に裁判官が代わる可能性を避けられ、同じ裁判官が継続的に保釈を判断することになり、請求の都度、裁判官が一から事件記録を読む必要もなくなります。少なくとも現在よりは、自らの責任で、より実質的で適切な判断ができるようになるはずです」
大川原化工機めぐる保釈、自分も却下していたかも
――今年発表した論文で、自身の裁判官現役時代を省みています。
「大川原化工機やプレサンスコーポレーションの冤罪事件で保釈請求を却下した裁判官は、もしかしたら自分だったかもしれないと感じます。判決の宣告のような重みを感じながら勾留や保釈の判断をしてきたかというと、そんなことはありませんでした」
「実際、主張が対立し争点がまだわからない、あるいは弁護人への信頼が持てないという理由で、保釈請求を却下したことがあります」
「先例や標準的な運用に従う保守性は裁判所の特徴的性質ですが、裁判官も本来持っているはずの人間的な感覚がもっと判断に反映されなければならない。後に補償や国家賠償を得られたとしても、不当な身柄拘束の損害で失われた時間や命は取り戻せません。憲法は、不当な身柄拘束を防ぐ役割を裁判官に求めているのです」
ふじい・としあき 1956年生まれ。82年に判事補任官。東京地裁や東京高裁の判事、最高裁調査官、司法研修所教官、長野地裁所長などを経て、2022年に退官。同年から日大法科大学院教授。
【明石順平】
否認事件において、裁判官が罪証隠滅のおそれを理由として安易に保釈請求を却下する原因は、「先輩達がそうしてきたから」である。 個々の事件を具体的に判断しているようでいて、そうではない。最初から「却下」という結論があり、「罪証隠滅のおそれ」は表向きの理由に過ぎない。だから、どう考えても罪証隠滅のおそれなど無い場合でも、「ある」として保釈請求が却下される。 裁判官は身柄拘束について「令状自動発券機」と揶揄されることがある。検察官の言いなりになって身体拘束を認めるからである。保釈の判断も検察官の言いなりである。そうなる原因は「先輩たちがそうしてきたから」というだけである。 いったん「相場」ができると裁判官は思考停止する。相場に従って判断するだけである。それが一番楽であり、自らの保身に有利だからである。中にはそうではない裁判官もいるが、ごく少数である。 しかし、個々の裁判官の姿勢を批判しても何も変わらない。組織で働く人間はそういうものである。保釈運用について最高裁から具体的な改善指示が無ければ、この状況が変わることは無いだろう。










